快復

 

 

これは、今年最大の台風24号の「台風の目」を撮影したものです。この台風に次いで、25号も襲来したのですが、重大な被害がなかったのは、幸いでした。これで収束するのでしょうか。熊本の本渡という島にいた時に、台風に見舞われ、泊まった宿屋の窓ガラスが壊れ、襖を背にして、台風の過ぎ行くのを待ったことがありました。本渡の案内所で、一番宿泊料金の安い宿屋を探したのですが、安さが、危険を体験させたのでしょうか。あんな怖い目にあったのは、初めてでした。

やはり、祖国の様子が大いに気になります。このままで終わって欲しいものです。ここ大陸の華南の空は、真っ青になってきました。日中は暑くとも、秋を楽しめそうです。山に出掛けてみたい気持ちがしてまいりました。兄と娘婿が手術を終えたばかりです。また結婚したてで、長男が生まれる頃に、大変お世話になった恩人が、今、病に伏しているとの知らせもあります。快復を心から願う十月の華南です。

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魚市場変遷史

 

 

江戸初期、徳川家康の要請で、多くの業者が、江戸の街に招かれて開業しています。それで「越前屋」とか「越後屋」とか「備前屋」などの屋号ができた様です。とくに江戸の食生活のためには、新鮮な魚、魚介類が求められ、日本橋界隈(かいわい)に「魚河岸」ができます。その当時の様子を、「HP日本橋の歴史」が、次の様に記されています。

『「魚河岸」は日本橋と江戸橋の間、日本橋川の北岸に沿って、本船町から本小田原町一帯(現在の日本橋本町1丁目、日本橋室町1丁目)にあった魚市場。17世紀の初めに開設され、1935年に築地市場への移転が完了するまで300年以上にわたって、江戸と東京の人びとの食生活を支えつづけた。

市場への集荷は江戸の近海をはじめ、房州・上総・下総(千葉県)、相州(神奈川県)、遠州・豆州(静岡県)などの海の魚や淡水の魚が集められ、江戸の住人-武士と町人たちの腹中におさまった。

最初に魚市場を開いたのは、江戸幕府を開いた徳川家康に従って大坂から江戸に移住した森孫右衛門一族とその配下の漁民たちだった。彼らは幕府や大名に鯛※などの御用魚を優先的に納めるかわりに、残余の魚介類の市中商いの許可を得たと言われている。

17世紀前期の魚河岸の様子は『江戸図屏風』に、19世紀前半の様子は江戸の地誌『江戸名所図会』に描かれている。朝夕、大量かつさまざまな魚介が荷揚され、店頭に並び、威勢良く取引された。『江戸名所図会』に見えられる魚を陳列している戸板状の台は「板舟」と言い、多くは有力商人が所有していた。「板舟」は一枚ごとに販売権が付帯しており、これを一枚から数枚借りて商いをする小規模商人も多かった。この板舟ははじめ河岸地の露天に設けられたが、市場の発展に従って河岸通りに魚を貯蔵する納屋が建つと、その納屋庇下を使用するようになり、さらに本船町から本小田原町までの店前街路を占用した。』

 

 

この魚河岸が、関東大震災で焼けてしまって、「築地」に移されて、今月、80年余り賑わった築地から、「豊洲」に移転したわけです。日本的な「競り(せり)」、「仲卸(なかおろし)」などの流通組織をそのまま引き継ぐのでしょうか。大きなスーパーマーケットは、市場を通さないで、漁協などから直接買い付けていますが、全部それでは賄えないので、どうしても「市場」は必要なのでしょう。

蔬菜や果物を商う「神田市場」や「多摩青果」などの市場(”やっちゃ場“って言ってました)で、学生の頃に、アルバイトをしたことがありました。競りの掛け声が、景気良くて、気風(きっぷ)の良さが売りものでした。ああ言った世界も、だんだん近代化して行くのでしょうか。一度築地の場外の食堂に行ってみたかったのですが、叶いませんでした。ちょっと残念な移転劇でした。

(江戸時代の魚河岸と、豊洲移転の様子<産経新聞撮影>の様子です)

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渡り鳥

 

 

この鳥は、広島県呉市の灰ケ峰の上空を飛ぶ、「ハチクマ」です(☞HP「里山を歩こう」)。漢字では「蜂熊」と書きますから、随分こわそうな鷹の一種なのかと思ってしまいます。<サントリーの愛鳥活動>によりますと、

『ハチの巣を襲って幼虫を食べる刺されても平気(?)なタフなタカ、全長57cm(オス)、61cm(メス)、翼開長135cm。タカの仲間。体の大きさはほぼトビと同大で、体色はいろいろですが、背が黒褐色で下面は薄い褐色のものが多いようです。翼下面には黒褐色の横縞があるものが多いと思われますが、顔には小さな羽毛が重なって密に生えていて、蜂の針に対抗できます。アジア大陸東部やインドなどで繁殖し、冬期には南へ渡るものが多い。日本では夏鳥として渡来し、本州と北海道の低山帯の森林で繁殖しています。しかし、渡来が5月になってからだと遅い上に、9月になると秋の渡りが始まるので、繁殖スケジュールに余裕がありません。ヒナに栄養価の高いジバチ類の巣、スズメバチ類の巣を掘りだしてその幼虫を与え、成長スピードを上げているのだろうと考えられています。しかし、ハチの巣が大きくない時期には、親も子もカエルを主に食べています。蜂を喰うクマタカの意でハチクマです。最近の研究で、繁殖期の日本だけでハチの巣を狙っているのではなく、越冬地や渡り途中の東南アジア・台湾などでもハチの巣を狙って食べていることが、解ってきました。』

とあります。この季節に、中国大陸に渡って行くそうで、「渡り鳥」なのです。国境の制約のない鳥や蝶は、自然的本能で、季節に応じて住処を変えていくわけです。ものすごい体力を持っているのと、飛翔のコツをよく心得ていることになります。以前、ヒマラヤの上空を、鶴が飛んで行くという話も聞きましたが、動物が秘めている潜在能力は、すごいのですね。

私たち人間も、自分は気づいていないのですが、ものすごい能力と可能性を秘めているのだそうです。出し惜しみをしたわけではなかったのですが、まあこんなところが自分なのだと納得する、初秋の華南の朝です。

(広島県呉市灰ケ峰の上空を飛ぶ「ハチクマ」です)

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渡り蝶

 

 

「アサギマダラ」が、広島県呉市・休山の上空を、南に向かって飛んでいく様子を、[HP/里山を歩こう]が配信してくださいました。この蝶について、次の様な記事が、"ウイキペディア"にあります。

『アサギマダラの成虫は長年のマーキング調査で、秋に日本本土から南西諸島・台湾への渡り個体が多く発見され、または少数だが初夏から夏にその逆のコースで北上している個体が発見されている。日本本土の太平洋沿岸の暖地や中四国・九州では幼虫越冬するので、春から初夏に本州で観察される個体の多くは本土で羽化した個体と推測される。』

私はまだ見たことがありませんが、このように「渡り」をする習性が研究されていますが、まだ研究途上にあるそうです。私は、飛行機や船で日本と中国とを往復していますが、連続して動く飛行機と船のエンジンの強靭さに驚かされています。一度は、台風の強風と大波の中を、船に乗ったことがありますが、大変難儀をしたのですが、それを乗り越えて上海の港に、無事に着くことができました。あの小さな体で、2000kmを渡る、アサギマダラの体力や習性には、驚かされるばかりです。

自然界には、神秘が含まれていているのが、よく分かります。この私たち人間は、こんなに賢く、ある時は愚かしく行動をするのですが、命や寿命や活力や思考力も、やはり神秘の中に含まれるのでしょう。

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生きる

 

 

生きる                          相良倫子(浦添市立港川中学校3年)

私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。

私は今、生きている。

私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。

私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。

ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。

私はこの瞬間を、生きている。

この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。

たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ

私の生きる、この今よ。

七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃え尽くされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手を取り合っ
て生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの
日々を。

摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島
の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。

私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争
を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、
宗教を超え、あらゆる利害を越えて、平和
である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。

あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。

今を一緒に、生きているのだ。

だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだとい
うことを。

私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。

大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。

これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。

摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。

(2018年6月23日、沖縄県糸満市の平和祈念公園で行われた「沖縄全戦没者追悼式」で本人の相良さんが、この詩を朗読しました ☞「琉球新報」記事の転載)

[琉球新報]倫子さんは曽祖母(ひいばあ)さんから沖縄戦の体験をよく聞かされ、平和について考える機会が多かった。「私なりに考えて、自分の命を精いっぱい輝かせて生きていくことが平和だと思った」
その今年94歳になる曾祖母さんは、沖縄戦が始まる前は理髪店で働いており、日本軍を指揮した牛島満中将の散髪をしたこともあった。
牛島中将は他人への心配りができる人だったと曾祖母さんは思っているが、倫子さんにはこんなふうに話して聞かせてくれたそうだ。
「戦争は人を鬼に変える。絶対にしてはいけない」

(沖縄県の県花の「ディゴ」です)

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チョコレート

 

 

最近、自粛していることがあります。ちょっと大げさな言い方で、申し訳ないのですが、"チョコレート"を食べるのを気を付けていて、その誘惑と闘っているところです。こちらには国産のものがあるのですが、昔、子どもの頃に、駄菓子屋で売っていた味と同じで、森永や明治のチョコレートの味を知っている者としては、一度だけ食べてから、手を引っ込めてしまうのです。

ところが、欧米系のスーパーマーケットには、有名メーカーのチョコレートが置かれていて、年々、その売り場の面積が広くなり、売られている種類も多くなってきているのです。「国慶節」の休みで、今朝は、バスに乗り継いで、アメリカ系のスーパーマーケットに行ってきました。"Earl Gray"の紅茶を買いにです。やはり、チョコレート人気ででしょうか、驚くほどの種類が、その店の棚に置かれていました。もちろん素通りでした。

日本では、森永製菓が、チョコレートを製造してから、今年で《100年》になるのだそうです。高校野球甲子園大会と同じですね。創業者の森永太一郎は、アメリカのサンフランシスコで、「伊万里焼陶器」の販売を始めたのですが、うまくいきませんでした。それで、お世話になったアメリカ人夫妻の影響で、菓子の製造をしようと、アメリカで修行して、帰国してから、東京赤坂で起業したのが、始まりでした。太一郎は、大変な苦労人だったそうです。

その太一郎が、"ミルクチョコレート"を製造販売したのが、1818年10月1日でした。今でも、このミルクチョコレートは、日本人の味覚に一番ぴったりで、スイス製もオランダ製も、そしてアメリカ製もみんな美味しいのですが、結局、『食べたいなー!』と思うのは、この"ミルクチョコレート"なのです。甘過ぎず、苦過ぎずに、ぴったりの微妙な味に作り上げられているのです。"チョコレート"と言えば、作詞が藤浦洸、作曲が万城目正の「東京キッド」の歌の歌詞の中で、歌われているのです。

歌も楽しや 東京キッド
いきでおしゃれで ほがらかで
右のポッケにゃ 夢がある
左のポッケにゃ チュウインガム
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マンホール

歌も楽しや 東京キッド
泣くも笑うも のんびりと
金はひとつも なくっても
フランス香水 チョコレート
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マンホール

歌も楽しや 東京キッド
腕も自慢で のど自慢
いつもスイング ジャズの歌
おどるおどりは ジタバーク
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マンホール

この子の右のポケットに、"チョコレート"が入っていると思っていましたが、どうも想像しているだけだった様です。"give me チョコレート世代"の自分としては、アメリカ兵に、そう言ってねだった、ほろ苦くて、恥ずかしい過去があるのです。あの味は忘れてしまいましたが、異国の空の下で、やはり食べたいのは、その"ミルクチョコレート"です。

木漏れ日

 

 

「木漏れ日」と言うのでしょうか、南側のベランダの今朝の様子です。7時現在の気温が22℃をし示しています。陽もちょっと傾いてきて、斜めに射してきつつあります。もう10月になったのですね。いよいよの秋です。今朝の「ベランダ会議」で、隣家のおばあちゃんと家内との会話は、5日間の「日本旅行」の話題だった様です。福岡と大阪を観光したそうで、街が綺麗で、落ち着いていて素敵だったそうです。好い印象を聞いて嬉しくなってきました。

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鳳仙花

 

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北原白秋の詩に、「鳳仙花」を読んだものが幾つかあります。福岡県柳川の出身の白秋は、夏咲く鳳仙花を、子どもの頃から、よく眺めたのでしょうか。また、朝鮮半島や沖縄でも咲く、この花のことを聞いていたのかも知れません。

薄らかに紅くか弱し鳳仙花人力車の輪にちるはいそがし

しみじみと涙して入る君とわれ監獄の庭の爪紅の花

鳳仙花われ礼すればむくつけき看守もうれしや目礼した

中国の新疆ウイグル自治区あたりでは、女性(ウイグル族)が、鳳仙花の花の汁に、明礬(みょうばん)を入れて、作った液体を、指の爪を染める風習があるのだそうです。そのマニュキアで染めた爪の紅が、『初雪の日まで消えなかったら、恋が成就する!』といった言い伝えがあるのだそうです(朝鮮半島で言われてるそうです)。新疆ウイグルから、韓国や沖縄に、そういった風習や遊びや文化が伝わったのでしょうか。

地理的にも近い、福岡にも、そう言った少女たちの遊びの風習が伝えられていたのかも知れません。それででしょうか、白秋が、「爪紅(つまぐれ)」といった詩を作っています。

いさかひしたるその日より
爪紅(つまぐれ)の花さきにけり
TINKA ONGO の指さきに
さびしと夏のにじむ

この詩の「TINKA ONGO」とは、小さな女性といった意味だそうです。柳川の方言では、そういうのでしょうか。家内の母が、柳川に近い、久留米の出身ですから、そう言った方言で呼んでいたのでしょうか。また、そんな少女の「爪紅("つまぐれ"とか"つまくれない"と読みます)の遊び」もしたのかも知れませんね。この「鳳仙花」が咲いて、弾けて飛んでいく種子が、あちらこちらに飛散して行くのです。この夏に咲いた花も、種子を弾き飛ばせて、来年も、あちこちに花を咲かせるのでしょう。

中国では、「指甲花」と言うそうです。あまりあちこちを私は歩き回りませんし、街中に住んでいて、水辺や側道に咲いてるのを見かけたことがないのです。ここでは、木に咲く花が多くて、それに圧倒されてしまっているのでしょうか。

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価値

 

 

人のほとんどの部分は、水分なのだと知った時、だから、私たち日本人は、産まれるとすぐに「産湯(うぶゆ)」に浸かり、よく水を飲み、お風呂や温泉に浸かりたくなったりするのかな、と思ったのです。人は水分でできていても、もう少し価値がありそうですね。イスラエル民族には、独自の人の価値を、値踏み算定する方法が定められているのです。

『なんぢの估價はかくすべしすなはち二十歳より六十歳までは男には其價を聖所のシケルに循ひて五十シケルに估り。女にはその價を三十シケルに估るべし また五歳より二十歳までは男にはその價を二十シケルに估り女には十シケルに估るべし。また一箇月より五歳までは男にはその價を銀五シケルに估り女にはその價を銀三シケルに估るべし。』

この例外規定で、『また六十歳より上は男にはその價を十五シケルに估り女には十シケルに估るべし。』と、年配者の価値が定められています。これは材質や能力によるのではなく、「労働対価」としての価値の様です。ところで、私は、とうに「六十歳」を越えてしまいましたから、成年期の、およそ三分の一になってしまい、男孫たちと比べて、彼らよりも低くなり、家内は女孫と同等なのです。

ちょっと寂しくなってしまいそうですが、それよりも、この規定に感心させられたり、納得しているのです。鏡を見て、つくづく思うのですが、髪の毛が白く薄くなり、肌のハリもなくなり、腰や膝が痛くなったりして来ていますが、このイスラエル民族には、『老人の前には起あがるべし。また老人の身を敬ひ』と命じられているのです。

私は、よく公共バスに乗るのですが、屈強な青年が、私を見ますと、起立して、自分の席を譲ってくれます。時には肩を叩いて、『どうぞ!』と言ってくれることもあります。まだ立っていても大丈夫なのですが、この方の敬意の表明に対して、感謝して座ることにしているのです。降りる時、その方がまだ乗っていましたら、会釈したり、言葉で感謝することにしています。彼らは漢人であって、ユダヤ人ではないのですが、実に《ユダヤ的》なのです。

でも人は労働力をもって、国や社会に貢献できるから、価値があるなしが決められるのでしょうか。この民族には、『あなたは高価で尊い。』と言う言葉があります。生きている限り、人は価値と尊厳があると言うのです。しかも、「高価」だと言っています。社会的身分や財産や身体状況の高低有無良不良にはよりません。

生きているだけで意味や価値があるなら、生きながらえられる日の間、今日も明日も、生き続ける義務が、人には課せられているのです。

(古代カルタゴの通化の「シケル」です)

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温かいスープ

 

 

中学校3年生の「国語」の教科書(光村図書刊)に、日本が生んだ最も優れた哲学者の一人と言われている、今道友信(いまみちとものぶ 1922~2012年)が、書き下ろした一文が掲載されています。中学校3年生が、読んで学ぶようにと心を砕いて書いたものです。著者が、フランスの大学で講師をしていた時期は、戦後ということで、つらい経験が多かったそうです。そんな中で、心温まる経験をされて、それを綴っているのです。中学を卒業して、もう何十年と経ってしまいましたが、今の中学生が学ぶ国語の教科書のページを開くことができ、そこに見付けた一文です。それをご紹介しましょう。

「温かいスープ』                今道友信

第二次世界大戦が日本の降伏によって終結したのは、一九四五年の夏であった。その前後の日本は世界の嫌われ者であった。信じがたい話かもしれないが、世界中の青年の平和なスポーツの祭典であるオリンピック大会にも、戦後しばらくは日本の参加は認められなかった。そういう国際的評価の厳しさを嘆く前に、そういう酷評を受けなければならなかった、かつての日本の独善的な民族主義や国家主義については謙虚に反省しなければならない。そのような状況であったから、世界の経済機構への仲間入りも許されず、日本も日本人もみじめな時代があった。そのころの体験であるが、国際性とは何かを考えさせる話があるので書き記しておきたい。

一九五七年、私はパリで大学の講師を勤めていた。しばらくはホテルにいたが、主任教授の紹介状で下宿が見つかり、訪ねあてたところ、そこの主婦は、私が日本人だと知るや、「夫の弟がベトナムで日本兵に虐殺されているので、あなた個人になんの恨みもないけれど、日本人だけはこの家に入れたくないのです。その気持ちを理解してください。」と言い、私が下宿するのを断った。しかたなく、大学が見つけてくれた貧相な部屋のホテル住まいをすることになった。

そのころの話である。私は平生は大学内の食堂でセルフサービスの定食を食べていたが、大学と方向の違う国立図書館に調べに行くと決めていた土曜は、毎晩、宿の近くの小さなレストランで夕食をとるほかなかった。その店はぜいたくではないがパリらしい雰囲気があり、席も十人そこそこしかない小さな手作りの料理の店であった。白髪の母親が台所で料理を作り、生っ粋のパリ美人という感じの娘がウェイトレスと会計を受け持ち、二人だけで切り盛りしていた。毎土曜の夕食をそこでとっていたから、二か月もすれば顔なじみになった。

若い非常勤講師の月給は安いから、月末になると外国人の私は金詰りの状態になる。そこで月末の土曜の夜は、スープもサラダも肉類もとらず、「今日は食欲がない。」などと余計なことを言ったうえで、いちばん値の張らないオムレツだけを注文して済ませた。それにはパンが一人分ついてくるのが習慣である。そういう注文が何回かあって気づいたのであろう、この若い外国生まれの学者は月末になると苦労しているのではあるまいか、と。

ある晩、また「オムレツだけ。」と言ったとき、娘さんのほうが黙ってパンを二人分添えてくれた。パンは安いから二人分食べ、勘定のときパンも一人分しか要求されないので、「パンは二人分です。」と申し出たら、人差し指をそっと唇に当て、目で笑いながら首を振り、他の客にわからないようにして一人分しか受け取らなかった。私は何か心の温まる思いで、「ありがとう。」と、かすれた声で言ってその店を出た。月末のオムレツの夜は、それ以後、いつも半額の二人前のパンがあった。

その後、何ヶ月かたった二月の寒い季節、また貧しい夜がやって来た。花のパリというけれど、北緯五十度に位置するから、わりに寒い都で、九月半ばから暖房の入るところである。冬は底冷えがする。その夜は雹が降った。私は例によって無理に明るい顔をしてオムレツだけを注文して、待つ間、本を読み始めた。店には二組の客があったが、それぞれ大きな温かそうな肉料理を食べていた。そのときである。背のやや曲がったお母さんのほうが、湯気の立つスープを持って私のテーブルに近寄り、震える手でそれを差し出しながら、小声で、「お客様の注文を取り違えて、余ってしまいました。よろしかったら召し上がってくださいませんか。」と言い、やさしい瞳でこちらを見ている。小さな店だから、今、お客の注文を取り違えたのではないことぐらい、私にはよく分かる。

こうして、目の前に、どっしりしたオニオングラタンのスープが置かれた。寒くてひもじかった私に、それはどんなにありがたかったことか。涙がスープの中に落ちるのを気取られぬよう、一さじ一さじかむようにして味わった。フランスでもつらい目に遭ったことはあるが、この人たちのさりげない親切ゆえに、私がフランスを嫌いになることはないだろう。いや、そればかりではない、人類に絶望することはないと思う。

国際性、国際性とやかましく言われているが、その基本は、流れるような外国語の能力やきらびやかな学芸の才気や事業のスケールの大きさなのではない。それは、相手の立場を思いやる優しさ、お互いが人類の仲間であるという自覚なのである。その典型になるのが、名もない行きずりの外国人の私に、口ごもり恥じらいながら示してくれたあの人たちの無償の愛である。求めるところのない隣人愛としての人類愛、これこそが国際性の基調である。そうであるとすれば、一人一人の平凡な日常の中で、それは試されているのだ。

(今のパリの裏町の風情です)

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