価値

 

 

人のほとんどの部分は、水分なのだと知った時、だから、私たち日本人は、産まれるとすぐに「産湯(うぶゆ)」に浸かり、よく水を飲み、お風呂や温泉に浸かりたくなったりするのかな、と思ったのです。人は水分でできていても、もう少し価値がありそうですね。イスラエル民族には、独自の人の価値を、値踏み算定する方法が定められているのです。

『なんぢの估價はかくすべしすなはち二十歳より六十歳までは男には其價を聖所のシケルに循ひて五十シケルに估り。女にはその價を三十シケルに估るべし また五歳より二十歳までは男にはその價を二十シケルに估り女には十シケルに估るべし。また一箇月より五歳までは男にはその價を銀五シケルに估り女にはその價を銀三シケルに估るべし。』

この例外規定で、『また六十歳より上は男にはその價を十五シケルに估り女には十シケルに估るべし。』と、年配者の価値が定められています。これは材質や能力によるのではなく、「労働対価」としての価値の様です。ところで、私は、とうに「六十歳」を越えてしまいましたから、成年期の、およそ三分の一になってしまい、男孫たちと比べて、彼らよりも低くなり、家内は女孫と同等なのです。

ちょっと寂しくなってしまいそうですが、それよりも、この規定に感心させられたり、納得しているのです。鏡を見て、つくづく思うのですが、髪の毛が白く薄くなり、肌のハリもなくなり、腰や膝が痛くなったりして来ていますが、このイスラエル民族には、『老人の前には起あがるべし。また老人の身を敬ひ』と命じられているのです。

私は、よく公共バスに乗るのですが、屈強な青年が、私を見ますと、起立して、自分の席を譲ってくれます。時には肩を叩いて、『どうぞ!』と言ってくれることもあります。まだ立っていても大丈夫なのですが、この方の敬意の表明に対して、感謝して座ることにしているのです。降りる時、その方がまだ乗っていましたら、会釈したり、言葉で感謝することにしています。彼らは漢人であって、ユダヤ人ではないのですが、実に《ユダヤ的》なのです。

でも人は労働力をもって、国や社会に貢献できるから、価値があるなしが決められるのでしょうか。この民族には、『あなたは高価で尊い。』と言う言葉があります。生きている限り、人は価値と尊厳があると言うのです。しかも、「高価」だと言っています。社会的身分や財産や身体状況の高低有無良不良にはよりません。

生きているだけで意味や価値があるなら、生きながらえられる日の間、今日も明日も、生き続ける義務が、人には課せられているのです。

(古代カルタゴの通化の「シケル」です)

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