『手術が終わって、目を開けると、僕の体に《くだ》がいっぱいついていた。僕は、もう死んでしまうのかな~と思った。ほんとうに、ぼくは今、死んだら天国にいけないかも知れないと思った。だって、わがままだし、時々うそをついちゃうし、成績の点ばかり気にしちゃうし、そして、すぐにうぬぼれちゃうし、あ~あ!』、そんなことを言っていたことがありました。
そう言った次男に、家内が、『○○ちゃん、イエスさまは、○○ちゃんの罪の身代わりに十字架について下さったのよ。罪を悔い改めて、イエスさまを信じれば、天国に行けるのよ!分かる?』と言ったのです。すると彼は、『うん!』と答えました。『じゃあ、お祈りしましょう!』と家内が言って、家内と息子と三人でお祈りをしたのです。祈った後に、『気分がはればれした!』と彼が言った日がありました。
これは、小学校5年の時の私の次男の信仰告白の様子なのです。彼は、小学校5年の夏休みに、帝京大学病院で手術を受けました。全身麻酔で、10時間近い手術だったでしょうか、それ以降、学校の夏休みや春休みを利用して、5回ほどの全身麻酔手術を繰り返して来ました。『体力的に大丈夫だろうか?』と心配でしたが、大手術を、超えて行くことができたのです。
当時、彼が入院していた病院の小児病棟には、小児がんや白血病や人工透析の治療中の小児患者が沢山いて、一緒に集まっては、子どもなりの交わりを楽しんだり、同病相憐れむなのでしょうか、大人が入っていけないような、互いをいたわり合うような交流が、そこに見られました。
キモ・セラピーを済ませて帰ってきた同室の病友が、嘔吐している姿や髪の毛が抜け落ちていく様を、そばで彼は見ていたのです。死に逝こうとしている、病と闘っている、上級生を身近にしていたわけです。
そのような少年期を過ごして、ハードなIT業界で、寝る間を惜しんで、好きな仕事をしていましたが、健康が支えられていたのです。日曜日も出勤の時がありましたが、通常は、礼拝讃美の中で、ドラムスやパーカッションの演奏の奉仕をして、礼拝を守っていました。彼はオレゴンやハワイに行きましたが、結局は、日本に戻って来て、親元を離れた東京で、IT業界人としての多忙な日々を過ごしていたのです。
そんな彼が心から尊敬している牧師さんが、ホノルルにいたのです。その教会には、「聖書学校」がありまして、『ここで学ぼうかな?』と言っていたことがありました。ハワイの語学学校で学んでいた時に、『私は、○○さんのためにはなんでもしてあげます!』とその牧師さんが言ってくださったのです。それは決して、リップ・サーヴィスではありませんでした。この方が、長男と次女とを高校時代にお世話くださっていたのです。実によく二人をお世話くださったので、彼への感謝は尽きません。
幼かった次男は、私と一緒に、トラクト配布に出掛けたことが、何度もありました。小さなリュックに、母親の作ってくれた弁当を入れては、一軒一軒、戸別に訪問しては、福音文書を手渡したり、ポスティングしてくれたのです。私たちの住んでいた街、彼の育った街に、時々、彼が帰って来ますと、駅前でギターを弾き、トラクトを前に置きながら讃美伝道をしていたのです。
母教会の隣の街の駅前でも、同じようにしていた時、じっと聞いててくれた人から、コンビニで飲み物とスナックを買って、差し入れがあったのだそうです。どう生きていくかと考えていた頃のことでしょうか。社会人として、クリスチャンとして、さまざまな痛い経験を通過した人間として、どう生きていくかを楽しみにしていました。
そんな彼が、今月には45歳になるのです。老いた二親が心配なのでしょうか、たびたび実家に帰ってきてくれます。昨日も、休みだからと言って訪ねてくれました。自分と兄の近くに越してくる様に、今、家を探してくれているのだそうです。今秋には、どうかと言っているところです。
思ってみることのなかった今を迎えた私たちは、6年も、ここで生活をしてきているのです。時には、救急搬送されたり、入院したり、手術したりしている現実に、黙っていられないのでしょう、四人を代表して、銘菓を持参して訪ねてくれました。家内とウクレレを弾いて賛美していたのです。
(“いらすとや”の「ウクレレ」、「IT土方」です)
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