淡き色の桜を愛でて

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 行春や 鳥啼魚の 目は泪   芭蕉

 ここ栃木市に住み始めてから、7年目を迎えています。これまで、なんどか東京都内に所用で出掛けることがありました。東武電車の乗りますと、巴波川、永野川、渡瀬川、利根川を渡り、北千住駅に電車が止まる手前にある、隅田川を渡るのです。

 「矢立の始め」と、芭蕉が、「奥の細道」に書き始めたのが、この隅田川の下流にある「千住」でした。ここには、江戸府内に家康が架橋した「千住大橋」がありました。深川の「雛の家」を出た芭蕉と曾良は、この橋のたもとで舟から降りて、日光街道を北上して、旅を進めていきました。

 私にとって東京の玄関口は、「新宿」でした。明治22年に、この新宿から「立川」まで、蒸気機関車が開業しています。その鉄道を敷設したのが、甲武鉄道でした。途中に、「中野駅」と「境駅(今の武蔵境駅)」、そして「国分寺駅」を置いたのです。

 なぜかと言いますと、江戸の町民に水を供給した玉川上水の川岸に、江戸時代に植えられた一里半(6km)ほどの、桜並木があって、名所だったそうです。そこで、江戸府内のみなさんは、新宿で蒸気機関車に乗って、境駅で下車して、国分寺駅まで歩いて、桜見物を決め込んだ様です。

 江戸彼岸桜、ソメイヨシノなどの桜は、春を告げる花で、古来、江戸の町民の心を掴んでしまったのでしょう。日本人と桜は、切っても切れない繋がりを持ち続けているわけです。

 『お隣りの下野市の下野国分尼寺には淡墨桜があって、見事なのです!』と、思川桜の好きな私の弁を聞いて、教えてくださり、観桜の企画を立ててくださって、先日、ご夫妻と私たちで観桜に出掛けたのです。

 この淡墨桜は、日本三大桜の一つで、岐阜県本巣市根尾谷にある桜で、樹齢千五百年の古木なのだそうです。花が蕾のときは薄いピンクをしていて、満開になると白色、散りぎわになると、淡い墨色に変色するそうで、「淡墨桜」と呼ばれ、樹高16.3mほどの桜です。

 そこから株分けされたものが、国分寺や国分尼寺に植えられて、近隣の多くのフアンに愛されいる桜なのです。私たちが見たのは、七分咲きだったでしょうか、その散り際になると、押すな押すなの人盛りになるそうです。私たちが訪ねたのが、週日の水曜日でしたから、まばらにカメラを下げた数人の方がおられたほどでした。

 帰りに、ご夫妻と四人で、お蕎麦屋さんに入って、蕎麦を啜ったのです。江戸っ子たちは、蕎麦好きで有名だったそうで、花を愛(め)でては、蕎麦を食べたのでしょう。「来た春」を、親しく楽しく迎えることができました。ご主人は、タイムテーブルを、朝早くから作り上げておられ、朝一で、チャットで送信してくれていました。お心遣い満点で、感謝な春満喫の一日でした。

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タンポポや淡墨桜が咲いて

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 昨日は、近くの下野市に残されてある、県下の古代の史跡を訪ねました。親しくお交わりをさせていただいています、隣人夫妻のお誘いを受けて、春日和の一日、春の遠足を楽しむことができたのです。

 ご主人の車の安全運転で、下野国分寺跡に咲く淡墨桜、国分尼寺跡(礎石)、その尼寺に咲く淡墨桜(うすずみざくら)、下野薬師寺跡の礎石、室の八島、室の八島を訪ねた松尾芭蕉の俳句碑、下野国庁跡を訪ねたのです。

 出発前に、細かな、タイムテーブル(計画表)お作りくださって、送信してくださったのです。それにそっての訪問でした。行き当たりばったりで、行こうと思っていたのに、見逃してしまう様な私とは違って、用意周到な準備をなさっての一日でした。

 小学生に戻った様な思いで、この遠足を楽しむことができたのです。このご夫妻は、二週間ほど前に、奈良を訪ねておいでで、奥さまの弁ですと、今回と同じ様に、寺社訪問の綿密なスケジュールを作られてのご旅行だった様です。

 わが家のベランダから、ご夫妻の住まれるお宅を眺めることができ、互いに心配し合う様な間柄なのです。洗濯物が干されていないと、具合でも悪いかと心配してくださり、こちらからも、見守りを4階からすることができて、友人関係にあります。そんな出会いを楽しみながらの、こちらでの生活の一面です。

 四人のお子さまがた、お孫さんたちをお持ちで、そのお名前まで知らせてくれます。私たちに次女の家族が来ましと、訪問したりしているのです。タンポポも、辛夷の花も、そして桜の花も綺麗でした。万葉の世にも、同じ様に大地は綺麗な花を咲かせていたのかと思って、時の流れを感じさせられました。

 遥か大和国、奈良から派遣されたお役人や僧侶や職人集団がやって来て、中国に倣って地方行政を行い、仏教の教えを説き、修行をし、また職人集団が寺社や庁舎を建て、日本の形が、徐々に整えられていったのを思い返すと、時の流れを感じてしまいました。

 聖書に、

『主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える。(申命記28章64節)』

とあります。中近東の地から、ユーラシア大陸の東に位置し、島々によってなる、約1万4125の島々の国、日本に、人が住み始めて、大陸から文字によって歴史が記される様になって伝えられた、私たちの国の歴史の初期の営みに触れた様に感じた、昨日の一日でした。

 紀元700年の頃のヨーロッパ、とくにギリシャでは、都市国家が出来上がり、植民主義で国の拡大が図られていた、同じ時代だと、世界史は伝えます。極東( far east )に位置する朝鮮半島や島国の私たちの地にも、国家が起こり、大和朝廷の中央集権で、地方支配が整えられて行く時期の史跡なのでしょう。

 1300年ほど前に、思川の右岸、現在の下野市に、国分寺や国分尼寺や薬師寺建てられ、そして下野国の国府の国庁が、思川に左岸に、現在の栃木市に置かれたのです。当時と同じ春の花、史跡の隅のタンポポや辛夷の花が咲いていたのが印象的でした。

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尽きない古代への浪漫が

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http://www.metmuseum.org/art/collection/search/53154 Japan, ?Flame-Rimmed? Cooking Vessel (Kaen doki), Earthenware, H. 20 7/8 in. (53.1 cm). The Metropolitan Museum of Art, New York. Mary Griggs Burke Collection, Gift of the Mary and Jackson Burke Foundation, 2015 (2015.300.258)

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 栃木県の県北の那須地方にある大田原市に、湯津上と呼ばれる地に、笠石神社があり、その隣接地に、「下侍塚古墳(しもさむらいづかこふん)」があります。そこは古墳群をなしているのだそうで、「日本考古学発祥の地」と呼ばれているのです。

 私たちが、日本史で学んだのは、アメリカ人の生物学者、E.モースが、走り始めた東海道線の汽車の中から、1877年に見付けた「大森貝塚」が、日本の考古学研究の上で、最古のものでした。モースは、明治政府のお雇い学者として、学術的に大きく貢献でしたのです。その大森が、「日本考古学発祥の地」だとされてきて来ました。

 こちらに住み始めてから知ったのですが、湯津上の地で発見されたものの方が、古いのだと聞いています。徳川の親藩、水戸藩の水戸光圀によって調査が行われたのが、1692年(元禄5年)でしたから、200年近くも古く発掘されていたのです。この墓所の築造時期は、古墳時代期の初期の四世紀末頃だったと推定されています。

 日本中どこにも、墓所があり、とくに指導的な立場の人、豪族の頭が亡くなると、それなりの葬儀が行われ、大きな墳墓に埋葬したのでしょう。土の中に、遥か昔の人が埋葬されたり、先人たちが住んだ住居跡が埋もれているわけです。

 小学校の時に、山奥から東京に引っ越して来て、住み始めた街の川のそばに、住居跡があると、級友から聞いた私は、そこに跳んで行ったのです。木切れを見つけて、夢中になって土を掘り起こすと、土器の破片や鏃(やじり)らしきものが出てきて掘ったのです。何度も、そこに通った記憶があります。

 古代人の生活に強い関心があったからだと思います。中学に入ると、高等部に考古学部があって、担任で社会科を教えてくれた教師に誘われて、発掘調査に参加させてもらったのです。それは、大人になった様に感じて、とても喜んで発掘に加わったのでs。

 夏休みになると、学校の近くにあった駅の周辺や、自分の卒業した小学校の校庭、京王線の線路脇にあった、大きなミシン工場の敷地などに出かけては、スコップや移植ごてや箒などで、発掘作業をしたのです。自分よりも遥か昔に、古代の人たちが生活をしていたことに、「浪漫」を感じたからだったからなのでしょうか。土中から、家の支柱跡や土器などのかけらを見つける喜びを味わったのです。

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 それは楽しくて仕方がなかったのです。きっと侍塚古墳を掘り進んだ光圀公の命を受けた人たちも、そんな興味を引き出されて、この古墳を、発掘班の面々は掘ったことでしょう。

 墓に埋葬された人にpは興味がありませんでしたが、長い歴史の間に、盗掘が行われて、埋葬品が散逸してしまうことが多かった様です。しかし、生活跡には、人の生きた形跡があって、興味津々だったのです。何を思い、どの様な願いを持ち、どんな会話をしながら、古代の人たちが生きていたかに興味が尽きなかったからです。

 もう暖かくなりましたので、自転車を携行して、電車で出掛けてたくて、もう何年も前から準備中なのです。壬生町に残されている「牛塚古墳」には、すでに数年前に出掛けていますので、今度はもう少し北に位置した、大田原市に出かけたく、ムズムズと虫が騒いでいるのです。『三つ子の魂百までも』、小学生の夢を、今も引きづり続けている私なのです。

実は、オリエント古代や、聖書の記述にある古跡には、子どもの頃から興味があったのに、それも果たせないままなのです。そこには、もう出掛けて行く機会はなさそうですが、映像を見る気とで済ませているんが、ちょっと残念なのです。

(ウイキペディアによる縄文土器、下侍塚興奮です)

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漫ろ歩いた街が

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 甲州街道は、日本橋から、四谷にあった大木戸を出て、内藤新宿から府中、多摩川を渡って日野宿、小仏峠にあった小仏関所を経て与瀬宿(相模湖)、大月宿、笹子峠を越えて甲府、諏訪宿に至り、中山道と合流して、京に至るのです。

 木戸は、江戸時代には、江戸にも大阪に、どこの地方都市にも、町の保安のために、町境に設けられて、町中の安全を確保lしていたのです。その町木戸は「明け六つ」(午前 6 時頃)に開けられ、「夜四つ」(午後 10 時頃)に 閉まります。江戸の大木戸は、他に、東海道の中山道の高輪(たかなわ)、板橋があり、日光街道には大木戸はありませんでした。

 甲州街道沿いの町に住んだからでしょうか、どうしても新宿を近くに感じてならないのです。ここ栃木のみなさんんは、千住とか、電車が繋いだ浅草なのでしょうか。この新宿は、江戸期にも、とても栄えた町だった様です。私の通った学校も最初の職場の本部も、都内にありましたので、ここが通過地点であり、下車地点だったのです。

 新宿の伊勢丹の近くの路地に、寄席(よせ)がありました。いえ、今もあります。そこは「末廣亭」と言い、中学生だった上の兄が、新宿に住んでいた英語教師に誘われて、この寄席に連れて行かれていたのです。家に帰って来ますと、その寄席の様子を、面白おかしく話してくれたのです。

 よく「猿真似」と言いますが、弟の私は、兄の真似をして、背伸びをしていたのです。それもあって、落語に、強い関心を持つ様になったのです。『神宮で、早稲田と慶応の試合があるってねえ!』、『そうけえ(早慶)!』とか、『隣に塀ができたってねえ!』、『へー!』と言った話をしていたのを聞いて、子ども心に面白いと思ったのです。学校に行くと、みんなの前でやったりしていました。

 子どもの頃には、ラジオ全盛で、落語や漫才や浪曲、歌舞音曲を、よく放送していました。また歌謡曲の全盛時代だったでしょうか。テレビ放映が始まる前には、耳で聞いて、想像力を働かせて理解するのですから、聞き漏らさない努力が必要でした。

 それだからでしょうか、言葉をラジオを聞いて覚え、意味が分からないと、父や兄たちに聞いたり、広辞苑を引いていたのです。そんなで、学校帰りに、新宿に下車して、この「末廣亭」に落語を聴きに行きました。同級生を誘っていったこともありました。やはり、日本の大衆文化は、洋物とは違って興味深かったのです。

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 『えーっ、一席バカバカしいお話を申し上げます!』と言った出だしで話し、口演者を、「噺家(はなしか)」と呼んでいました。座布団の上で話すのですが、そこを、「高座」と呼んでいました。もうお名前も題も忘れてしまいました。歯切れのよい「江戸ことば」を聞いて、一端の落語通になったように、笑いを誘われていたのです。

 この末廣亭が、どんなところかの記憶はありましたが、今日、Youtubeで、「桂米丸追悼興行」を観たのです。お弟子のヨネスケ(桂米助)さん(落語界では師匠)が、その会を企画し、開催していて、寄席前の通りに出られて挨拶をしている、末廣亭の映像は、全く変わらないのです。高座も客席も、全くお同じ様子で、六十年前と変わっていなかったのです。改築なしで、椅子席のシートは張り替えられているでしょうけど、驚きました。

『わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ』と言った。(新改訳聖書 エゼキエル16章6節)』

『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(伝道者12章1節)』

 あの級友は、北海道が故郷で、卒業式に、ご両親が見えらていたのです。『楽しい経験をさせていただきました!』と、お礼を言われてしまいました。札幌に仕事を見つけて、彼女は帰って行かれました。それっきりになってしまったのです。

 まさに、「若い日」、「血に染まった」、「わざわいの日が来ないうち」の様な時を過ごした「場所」でした。私の「青春の譜」の一頁が、この新宿でもあったのです。あの伊勢丹の裏の通り道を、懐かしく思い出しています。

 その興行に呼ばれた噺家さんたちは、当然、総入替されておいでで、若い頃に馴染んだ方々は、お亡くなりになり、名の知らない若手が多くなっておいででした。江戸期に始めれた寄席は、今や人気で、若い人たちの支持を得ている様です。

 出し物も、「発泡スチロール芸」なんてものもあるのです。あの有名な「笑点」のメンバーも知らない方々に代わっていて、われわれ世代は、ほとんどおいでにならない様です。昭和は時と共に、過ぎて行ってしまい、この街を、新しい世代の人たちが漫(そぞ)ろ歩いていることでしょう。

(ウイキペディアの末廣亭、広重の内藤新宿図です)

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謙遜であれ

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『謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。(新改訳聖書 箴言22章4節)』

『同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。(1ペテロ5章5節)』

このクリスマスローズの頭を垂れて咲く姿に、驚かされます。バラが、頭をあげて咲くのと違って、謙って咲くこの花は、「主を恐れること」と「謙遜」 には、深い関わりのあることを教えてくれます。

(ウイキペディアのクリスマスローズです)

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文明開化の音がする

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Landing of Commodore Perry, Officers and Men of the Squadron, to Meet the Imperial Commissioners at Yoku-hama, Japan, March 8th 1854

♩ ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする ♬

 これは明治の初めに、日本中で歌われた歌の一節です。明治になると生活は伝統的なものから、欧米的、近代的なものに急速にかわっていきました。日本が、260年にも及ぶ、徳川幕府の封建的な社会から、近代化して行く時期が、その後の日本の歩みにとって、実に大切な節目であったのが、幕末と明治維新でした。

 ペリー率いるアメリカの艦隊が、1853年に、浦賀に現れたことは、当時の社会にとって、衝撃的な出来事でした。その前年の1852年に、中国大陸の上海に、長州の高杉晋作、薩摩の五代才助、佐賀の中務田倉之助らが訪ねています。そこで目撃したのは、列強諸国の植民地支配の現状でした。それに、太平天国の乱で、清朝中国は大騒動の渦中でした。日本も同じ様な植民支配を被るのではないかとの脅威を痛烈に感じたのです。

 対アメリカとの間で、不平等な日米修好通商条約を、幕府は締結をし、ついで、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約、「安政の五か国条約」を結ぶのです。押し迫る欧米諸国との関係に、国中で議論が沸騰していきます。幕府の一方的なやり方に反対する勢力が起こるのです。

 当時の清朝の状況は、欧米列強の植民化政策で、中国の惨状は目も当てられない状況だったのです。それを留学生として上海に学んだ高杉晋作らは目撃して、次は自分たちの国の番の様に、危機感を痛烈に覚えて、帰国しているのです。

 高杉晋作は、漢学塾や藩黌(校)の明倫館に学び、やがて松下村塾に学んだ人でした。この松下村塾は、吉田松陰が、1857年に、長州藩の子弟、50人ほどを集めて教えた私塾でした。松蔭は何を教えたのかと言いますと、高杉と共に学んだ、久坂玄瑞(くさかげんずい)と、松蔭との往復書簡の中で、次の様に久坂に、松蔭は返事を出しています。

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 『今や幕府は諸外国と条約を結んでしまった。それがだめだといっても、我が国から断交すべきではない。国家間の信義を失うことは避けなければならない。外国とは平穏な関係を続けながら、我が国の力を蓄え、アジア、中国、インドと手を携えたのちに欧米諸国と対峙すればいい。あなたは一医学生でありながら空論を弄び、天下の大計を言う。あなたの滔々と語る言説はただの空論だ。一つとしてあなたの実践に基づくものはない。すべて空論である。一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめよ。』

 その松蔭は、安政の大獄で捕えられ、処刑されてしまうのです。荒れに荒れた時代の只中で、徳川幕府の政治に反対して、天皇を中心にした政治を行うことを主張した「勤皇派」と、幕府の動きに同調する「佐幕派」とに分派して争いが苛烈になっていき、幕末の騒乱が繰り広げられました。

 近代化、欧米化の動くは止めることができないで、「王政復古」、徳川幕府は倒れ、天皇を担いだ長州藩や薩摩藩や土佐藩などの勢力によって、明治維新政府が誕生するのです。そして日本は、「文明開花」が展開していきます。1959年には、ヘボンが来日し、開港の地、横浜の神奈川宿で、医師として施療所を、お寺の中に設け、施療を開始し、1863年には、「ヘボン式ローマ字」のヘボンによって、「ヘボン塾」が開校し、聖書と英語が、青年たちに教えられていきます。

 その欧化政策は、怒涛の様に行われて、明治の世が展開して行くのです。日本の歴史の中で、一番大きな変化の時期だったわけです。明治の動きは、ここ栃木県下にも及んでいて、維新に大きく関与した明治の元勲という人たちが、那須地方の開墾や発展に貢献しているのです。栃木県の県令(第三代)には、元薩摩藩士の木島通庸が任命されています。誰も止めることのできない時代の大きなうねりでした。

(ウイキペディアのペリーライコウの図、松下村塾です)

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矛盾ではなく事実として

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 文化勲章を受賞した堀辰雄が、「エマオの旅びと」と言う作品を残しています。次の様な短文です。

 「我々はエマオの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。」これは芥川さんの絶筆「續西方の人」の最後の言葉である。「我らと共に留れ、時夕に及びて日も早や暮れんとす。」

さうクリストとは知らずにクリストに呼びかけたエマオの旅びとたちの言葉はいまもなほ私たちの心をふしぎに動かす。私たちもいつか生涯の夕べに、自分の道づれの一人が自分の切に求めてゐたものとはつい知らずに過ごしてゐるやうなことがあらう。彼が去つてから、はじめてそれに氣がつき、それまで何氣なく聞いてゐた彼の一言一言が私たちの心を燃え上らせる。

 いま、「西方の人」の言葉の一つ一つが私の心に迫るのも丁度それに似てゐる。例へば「クリストの一生の最大の矛盾は彼の我々人間を理解してゐたにも關らず彼自身を理解出來なかつたことである。」――これまで私たちは芥川さんくらゐ自分自身を理解し、あらゆる他の人間の心を通して自分自身をしか語らなかつたものはないやうに考へがちであつた。

 しかし、いまの私にはそれと反對のことしか考へられない。芥川さんもやはり自分を除いた我々人間を理解してゐたばかりである。我々に自分自身が分かるやうな氣のしてゐたのは近代の迷妄の一つに過ぎない。」

 あの中学校時代の国語の教科書に載せられてあった、「杜子春」を書いた芥川龍之介を敬慕していたのが、この堀辰雄でした。芥川の最晩年の作品が、「西方の人」、「続西方の人」で、そこに取り上げられていたのが、エマオへの道を行く、イエスの弟子たちとのやり取りの記事なのです。

 十字架で、贖いの死を遂げたイエスが、蘇られて、エルサレムから11kmほどのエマオへの道を行く、二人の弟子たちに顕われ様子が、聖書(ルカの福音書24章)の中に記されてあります。旧約聖書にも預言されています。

 まさかイエスだと気づくことのなかった弟子のふたりが会話をしているのです。前代未聞の「復活」は、旧約聖書に預言されていました。人が生き返ることほど、それを受け入れるのが難しいことはありません。

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 キリストの教会は、そのキリストが蘇られた「復活」の上に建てられたのです。墓と死とを打ち破って、マリヤや弟子たちに現れたのがイエスさまでした。その目撃者として「ekklēsia エクレシア」として教会を形作った群れが誕生したのです。

 イエスを見捨て、逃げてしまった12人の弟子たちが、キリストの教会の「首石(かしらいし)」となったのです。もうイエスさまを否むことはなくなりました。生涯をかけて、信仰を持ち続けたのです。イエスさまの母マリアも、マグダラのマリヤも、それを信じ、キリストの教会の一員とされています。

 そして21世紀に生きる私も、そう信じて、“ The  Church ” と言われる、時間と地理的な違いを超えて、形成されている「教会」に加えられているのです。お隣の国にいました時にも、たくさんの信仰者のみなさんにお会いし、いっしょに賛美をし、聖書を読み、説教を聞き、聖餐に預かりました。このみなさんも、その構成者なのです。

 この救い主でいらっしゃるイエスさまを、もっと知りたくて、みなさんは礼拝に集います。讃美し、礼拝し、人々に宣べ伝えるために生きるのです。すでに召されたみなさんと、あい見(まみ)える日がくると信じている今です。そして、「復活のキリスト」であるイエスさまにお会いできるのです。

 遠い「西方の人」は、私の内にいますお方でいらっしゃいます。「矛盾」ではなくて、「事実」として信じることができているのです。「迷妄」ではなく、「確信」して生きることでしょうか。このイエスさまは、私たちを迎えに来ようとされておいでなのです。「マラナタ」、主よ来てください。

(Christian clip artsによるイラストです)

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線路の向こうに春を見たい

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 子どもの頃に住んでいた父の家から、旧国鉄の線路を走る電車を見ることができました。その線路と道路の交差地点には、遮断機を上げ下げする踏切があり、上り下りの電車の行き来は、今の様に激しくない時代だったのです。この踏切の脇には、踏切番小屋があって、おじさんが常駐していました。

 また、その奥の方には、鉄道線路の保線区があったのです。電車や汽車に乗る人に切符を売り、駅の業務に携わる駅員がいて、それを動かす運転手と車掌がいて、その電車や汽車の安全走行を確保するための保守点検、修理ををする人もいたわけです。

 信号器は、手旗からカーバイドのガスを燃やす炎での手信号の「カンテラ」に代わっていました。その燃えかすが、保線区の脇に捨てられていたのです。それを拾っては、小川に投げ込むと、そのガスで、鮒やハヤの小魚が浮いてきて、それを手で掴んで家に、持ち帰ったのです。それを母が醤油と砂糖で煮て、佃煮のおかずにしてくれたことがありました。

 保線区の中には、線路の整備の道具類がきちんと整理されて置かれていました。スコップやツルハシ、背丈もある様なバールや、金属の切断機などがあって、珍しく眺めていました。あの整頓された作業場に入らせてもらうことができたのです。『邪魔まだ、あっちに行ってろ!』なんて言われなかったのです。友人のお父さんが、国鉄職員で、その職場だったからでもあったからでした。

 決まった鉄路区間を、そう言った整備で管理されていたのです。どんなに昔の日本の現場の仕事が、十二分に注意深くなされていたかが、今になると分かり、感心させられます。汽車が走っていた頃、事故を起こさないための「愚直な努力」が積み重ねて行われていた時代だったのです。不注意の許されない専門集団でした。

 父は、旧国鉄に納品する部品を作る会社で仕事をしていました。電車や汽車の車輪を制御ブレーキのパーツでした。そんなこともあって、動く電車や汽車には、関心が自分にはあったのです。よく、国鉄職員になろうと思わなかったなと、今になると不思議なのです。

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 今住んでいる家からも、駅に出入りする、始発と電車の姿を見ることができます。今は、駅の近くは、高架になっていますので、この四階から、眺められるのです。朝一番の電車が暗闇の中を抜けてくるのが眺められます。もう少し暖かくなったら、この電車で、会津若松に行ってみようと思っているのです。

 JR両毛線で小山に出て、東北本線で郡山に行き、そこから磐越西線で会津若松に行けます。帰りは、会津若松から会津電鉄、野岩鉄道会津鬼怒川線(東武鬼怒川線)、東武日光線で戻ることができるのです。もう少ししましたら、爛漫の春を感じに、電車に乗り継いで行くことにしましょう。

(ウイキペディアの線路、会津五桜〈石部桜(いしべざくら)、薄墨桜(うすずみざくら)、虎の尾桜(とらのおざくら)、杉の糸桜(すぎのいとざくら)、大鹿桜(おおしかざくら)〉です)

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単純に信仰を継承して

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 聖書、新約聖書の多くの部分を書き記したパウロは、ユダヤの律法を学んだ人でした。ナザレ人イエスと、キリストの教会を迫害する者から、イエスの十字架の死と復活とを、心から信じる者に変えられた人でした。

 そして、地中海世界からローマに至るまで、「良きおとづれ」である、「福音」を宣べ伝える「異邦人への使徒」と変えられるのです。自分の生涯を、福音宣教のために捧げ、神の教えやご計画を書き残す務めに任じられ、最後にはローマで殉教の死を遂げたと歴史は伝えています。

 「使徒の働き」の中に、そのパウロを殺そうとした40人が、イスラエルにいたと記してます。律法に背いて、パウロを打つ様に命じた、その当時の大祭司アナニヤを、「白く塗った壁」と、パウロが言いました。

 その殺害計画を、不思議な方法で、パウロは免れます。そして、福音宣教の働きを継続するのです。教会の歴史の中には、パウロの語る福音への反発があって、「パウロの教え」への攻撃が繰り返されてきています。まさにそれは、「パウロの教えの抹殺」と言えるのかも知れません。

 イエスさまを十字架の上で殺害したのは、当時のユダヤ宗教の指導者たちで、彼らのイエスさまへの憎悪によるものでした。イエスさまは、訴える者に対して何一つ申し開きをすることはしませんでした。彼らにご自身をまかせたのです。そして十字架の上で死なれたのです。

 その十字架によって、信じる者たちを救われる父なる神さまは、罪を犯した人を赦すために、イエスの十字架を彷彿とさせようとしてでしょうか、預言するかの様に、奴隷の家にあったイスラエルの民を、その立場から解放し、荒野に連れ出される前の晩に、驚くことをなさったと、「出エジプト記」は記しています。

 屠られた小羊の血を、家の門口の鴨居と二本の門柱に塗るように言われたのです。滅びの使いが遣わされ、エジプト中の初子を打った時、その血の印のある家を、滅びの使いが通り過ぎて行ったのです。それを「過越と言います。

 その民族の歴史的な事実を記念して、イスラエルの民は、「過越の祭り」を、今に至るまで、守り行ってきているのです。イエスさまは、まさに「過越の小羊」 でいらっしゃると言うのが、聖書の使信のことばです。漢字の中に、「義」があります。漢民族は、その奴隷の家を脱出する前の晩の出来事を知っていたのでしょうか。神の前で正しいとされる者の「義」が、奴隷の家を脱出した晩の出来事を伝えるかの様に、「羊」と「我」に解字することができるのではないでしょうか。古代中国人は、そのことを知っていて、漢字で、それを認めたのです。

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 聖書の記す真理を攻撃することは、たびたび起こったことでした。救いとか、贖いとか、義認などと共に、神の救済上のご計画が曖昧にされています。救い主を、十字架で殺した様に、教会が守り続けてきた教え、真理を否定する者が、たびたび起こっては消え、起こっては消えてきて、「真理」を曖昧にし、否定してきています。

 万人救済論、新神学、セカンドチャンスの教えなどは、その最たるものです。神中心から、人間中心のヒューマニズムは、聖書の記述を、ある部分を信じられないままでいます。万物を創造する部分を神話だとしたりしています。神の偉大さを信じられずに、人間の思考の水準に引き落としてしまいます。もちろん十字架の贖罪の死も、死からの復活も、最後の審判も信じないのです。

『しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神のが示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神のであって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしにと認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身のを現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 それは、今の時にご自身のを現すためであり、こうして神ご自身がであり、また、イエスを信じる者をとお認めになるためなのです。(新改訳聖書 ローマ3章21〜26節)』

 難しい「義認」とか「贖罪」などを、パウロは、そのいくつもの書簡によって教えているのです。そう言ったものの意味をぼかしたり、曖昧にしたり、転向させたりしてしまって、「聖書の真理」を曲げたり、消したり、抹殺してしまう時代が、再びきている様に思えてしまいます。

 2000年も前のパウロの殺害計画は、今も、「パウロの教え」を葬り去ろうとする傾向と重ねられている様に、私にも思われれなりません。歴史は繰り返されるのでしょう。罪を曖昧にして、重大視しない傾向に、そう言ったものが窺えてなりません。聖書の記述を信じられず、真理を曖昧にする傾向は、止まない様です。

 母の信仰する、その信仰を生きている姿を見続けたり、育ててくださった宣教師さんたちの教え、読んだ書籍で学んだ正統の教えを、ただ単純に信じてこられて、この上もなく感謝な思いにされる、今の私なのです。

 末の子が3歳くらいだったでしょうか、『イエスさまは痛かったんだね!』と、長岡照子さんの朗読する、カセットテープの聖書のお話を聞いて、涙を流して、そう言っていた日がありました。自分のために、イエスさまが十字架にかかって死んでくださったと聞いて信じたのです。今や、もう40になっている彼が、まだ、そう思い続けているかなと、思ったりしているのです。そんな単純に、祖父母、両親の聖書信仰を継承をしているのかも知れません。実事嬉しいことです。

(Christian clip artsのイラストです)

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一件が落着して

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 鳥を捕獲するための仕掛けに、「かすみ網」がありました。今でも使われているのでしょうか。ちょうど野球場のバックネットの様に、とても丈夫素材で作られて、かすみの様に細い糸で編まれた網なのです。鳥がかかりやすのでしょうか。いつ頃か、勝手にこの仕掛けは使用することが鳥獣保護法で禁止されているそうです。

『主よ。私を悪者の手から守り、暴虐の者から、私を守ってください。彼らは私の足を押し倒そうとたくらんでいます。 高ぶる者は、私にわなと綱を仕掛け、道ばたに網を広げ、私に落とし穴を設けました。セラ 私は主に申し上げます。「あなたは私の神。主よ。私の願いの声を聞いてください。(新改訳聖書 詩篇140篇4〜6節)』

 一昨日、一通のメールがありました。

『「電力サービス]先月分電気代未払いにより、数日中に停電いたしますのでご注意ください。』と言うものでした。これを読んで、最初に思いにやってきたのは、数年前に、自動振り込みのガス代が未払いで、「ガス供給停止」が突然起こったのです。「引き落としがない!」との連絡があって、支払っているのに、突然の出来事でした。

 最初は、故障だと思ったので、連絡しましたら、三ヶ月ほど、引き落としがなかったのだそうです。クレジット会社からも、銀行からも、その連絡がなかったのです。1週間近くガスなしの生活があって、炊事は、卓上コンロで間に合わせましたが、風呂とシャワーが使えなかったのです。コックをひねればガスが出て、スイッチを押せばお湯が出るのに、闘病中の家内に不便をかけました。

 瞬間、あのパニックが思い出され、『今度は電気の停止が!』と思ったのです。そのメールに記されていたサイトにアクセスすると、「TEPCO」と言う名で、振り込み情報を記入するように誘導されたのです。3400円ほどの金額の不足でした。

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 実は、2年ほど前に、ガスと電気代を抱き合わせで支払うと、電気代がセーブできると言うことで、新しい契約に代えたのです。それもあってクレジット会社からの支払いに変えていたのに、『あれ!』と思いながらも、フラッシュのように、ガスの一件が思い出されて、所定の項目に、個人情報を書き込んで、送信しでしまいました。

 やはりおかしいので、次男にメッセージを送ったのです。すると息子からは、『ダメ!絶対入力禁止。あと、返信したらダメだよ。フィッシング詐欺というやつです・・・・』と返事がありましたが、後の祭りで、まんまと騙されたわけです。

 『明日の朝9:30に、クレジット会社に電話して!』と言われて、何度やっても、自動音声の電話の言うように従ったのですが、こちらの状況を伝えられず、要領を得なかったのです。そうこうする内に、隣町の友人に聞いたり、息子の言うようにしたのですが、どうもラチがあきませんでした。けっきょく息子が代わって手続きをしてくれて、クレジットの一時停止にこぎつけたのです。

 『クレジットカードの悪用はされてないみたい!』と、息子から知らせがあって、やっとホッとすることができたのです。「縄文人」、あの時の自分は、まさにそう感じてしまいました。ネット社会の流れに乗り切れない古代人のような、狐につままれたような自分を、痛烈に感じたのです。世の中の動きに、ついていけない時代遅れの年寄りでした。

 ただ、『◯◯ガスの勧誘で、電気代の支払いを、ガス代と一緒にすることにしましたが、その後に連絡がないまま今日に至っています。未払いは、どれほどでしょうか?どう支払ができますか?一方的な、停電の言葉で驚いています。』と言う文言を、メール相手に添えて書き込んでおきました。それも、何か作用して、網を逃れられたのかも知れません。

 まさに、バッサリの罠にかけられたスズメや鰻獲りの仕掛けにかかった鰻、かすみ網にひっかかった野鳥、釣竿の先のフィッシングの針にかかった小魚でした。でも、次男の助け、友人の助言、そして電話していても、オロオロしている自分を励まして、祈っていてくれた家内の激励があって、罠と仕掛けと針から逃れられ、まさに、詩篇140篇5節のにある末尾にある「セラ」、一件落着の「小休止」をすることができたのです。

(ウイキペディアの休符、電球です)

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