母の物入れが、押入れの行李(こうり)の中にあったように覚えています。そこに桐の小箱があって、自分の名前が記してあって、何か黒ずんだ物が、木箱の中に入っていました。何と「臍の緒(へのそのお)」でした。
私たちの子どもたちにも、同じように、町の助産所から退院する折りに頂いて家にあったと思いますが、引っ越しを繰り返す間に、どこかに行ってしまったようです。自分の母親から出て、お母さんから離れて、独り生きていく記念として、大事にされれるべきものでしたが、わが家は不注意でした。
何かの初めての経験をする時に、『臍の緒を切って初の・・・!』と言う言い方をよく聞きました。一人歩きができるようになることの大切さを、だれもが感じるのでしょうか。
母が、小さくなっていくのにつれて、子が大きくなっていくのは、親としては寂しさを感じたことを思い出します。
一度だけ、通院の折に、車から、ちっと距離があった時に、母をおぶったことが、行き帰り二度ありました。軽かったのです。あの頃自分は、80kgくらいありましたが、母は40〜45kgしかなかったのではないでしょうか。あれから、30年も生きて、少女期に得た信仰を全うして、創造者のもとに帰って行きました。
小さな母が生きた時代は、大正期の中頃に、山陰の出雲で生まれ育ち、小学校を出て、グンゼで働き、父の事務所で事務職をし、父の嫁になったのです。父の子を4人産んで、戦時時下を忍び、戦後の物不足にヤンチャな男の子育てに明け暮れたのです。大怪我をし、子宮がんを患いを克服し、95年の一生でした。
何度も、人に[マザコン]と言われたことが、自分にありましたし、善意と好感とで[お母さんっ子]とも言われました。小さい時に、悲しそうにしていた母を、心配して声をかけた時に、『✴︎✴︎ちゃんは!』と言って、『娘だったらよかったのに!』と言ってくれました。4人の男の子の母親で、寂しかったこともあったのでしょうね。
上の3人は、戦争中の生まれですから、3人も国を守り兵隊さんになれる子を産んだのだと、「皇国の母」で、表彰されたのでしょうけど、母は戦争は嫌いで、「平和の君(イザヤ9章6節)」である、救い主と出会って、キリスト者となって「平和主義者」だったのです。
父と出会う前に、広島の江田島にあった海軍兵学校に入学した、凛々しい学生が、自分の「おっかさん(江戸時代の母への呼びかけだったようです)」は好きだったそうで、秘蔵ののアルバムに写真を残していたのです。戦時下の乙女の憧れは、兵学校の学生だったのでしょう。そんな青年期のことを話してくれた日がありました。「母恋し」、歳を重ねた私の思いです。
(ウイキペディアの「大正期の女学生」、〈いらすとや〉の母親です)
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