謙虚

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2011年に起こった、東日本大震災、福島原子力発電所の事故の後に、東京工業大学の原子炉工学研究所(現在は、科学技術創成研究院)の松本義久准教授が、その窮状のただ中で、『《お守り》があるんです!』と言われていました。

『今回の一連の流れの中で、2つの放射能があるんです。1つは、《本当にこわい放射能》、もう1つは、《本当は怖くない放射能》です・・・』と話され、『この《本当に怖い放射能》に立ち向かいながら、この事態を収束させようと頑張っていらっしゃる働くレスキュー隊のみなさんには、ほんとうに敬意を表します。』と謝辞を述べておいででした。

この一月以来、新型コロナウイルスによる肺炎の流行が、世界大に広がりを見せる中、人類の存続をも大きく左右する現場で、疫病に冒される危険を顧みずに、一命を賭して働かれていらっしゃるみなさんへの感謝こそ、この未曾有の世界的危機を脱するために、私たちのできることなのかも知れません。

政府や厚生省の対応の混乱、国民の怒りと戸惑い、世界中が声を上げている中、ウイルス汚染の影響を、報道ニュースは伝えていますが、最前線で、治療や貿易に当られているみなさんの健康が守られるようにと願うばかりです。
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人類は多くの危機を超え、6000年の間生き続けてきています。私たち人間の内側には、《天来の祝福》が宿っているのではないでしょうか。松本さんは、日本人の受け継いできたDNA(遺伝子)についても、次の様に語っておいででした。

『・・・恐れるあまりに大事なものを失ってきている・・・これだけは伝えたいと思います。私たちの体は、放射線から守る、すごい《お守り》を持っているんです。それが遺伝子・DNAなんです!』とです。否定的なことにだけ目を向けて、慌てふためいている日本人に、『だいじょうぶ、恐れるな!慌てるな!落ち着け!』と肯定的なとらえ方を訴えておられました。この科学者というよりは哲学者のような勧めに、大きな慰めを受けたのです。

今回もそうです。いたずらに恐れたり、不安になったりしないことです。私たちがいただき、あるいは受け継いできた、《いのち》には、驚くべき力が秘められています。何度も何度も、滅亡の危機を潜り抜けて、この21世紀にも、人類は生きています。人は謙虚になって、生かされていることを事実として捉える必要がありそうです。科学は万能ではなく、内なる《いのち》に望みがあります。

今朝も、『恐れるな!』と言う声を、私は聞くのです。『わざわいは、あなたにふりかからず、疫病も、あなたの天幕に近づかない。』と、私の愛読書にはあります。

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こわい話

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子ども心に、過去の出来事を聞いて、『こわい!』と感じたことがありました。たぶん父から聞いたのだと思います。なぜなら、日本の歴史、人物、出来事のほとんどの子どもの頃の知識は、父からだったからです。〈何でも知ってる父〉、男の子の尊敬の的だった時期に、様々なことを、父に聞いたのです。やがて父の弱さを知って、父に距離を置き、そして、再び父に敬意や感謝を払い直すと言う、典型的な父子関係の変化を通ったのです。

朝鮮半島の鉱山で、鉱山技師として働いたことのある父は、朝鮮の社会や人や習慣について、一言の悪口や軽蔑や批判を聞いたことがありませんでした。良い印象しかなかった様です。「アリラン」を懐かしそうに歌う父でしたから、良い出会いや交わりがあったのでしょう。

日本の官憲が、戦後、大韓民国の初代の大統領に就任する李承晩氏を、戦前に何をしたのかと言うのが、聞いた話なのです。独立運動の指導者でもあった李承晩氏に、酷い拷問をかけたと言う話です。それは、全ての手指の生爪を剥がすと言った、肉体的な虐待を受けたと言うのです。深爪をして痛い思いをしていた私には、それを聞いて身がすくむ思いがしました。

取調室で、そう言ったことが罷り通っていた時代だったのでしょうか。犯罪者、とくに思想犯に対して、痛さを加えて自白させたり、情報を引き出そうと言う尋問を受けた人が多かったのです。また旧軍隊の内務班でも、上級兵が新兵や下級兵を、懲罰や焼を入れるとの理由で、ビンタや、肉体的拷問を加えています。

旧ソヴィエット連邦のブレジネフという書記長をした男は、この拷問の専門職の過去があったのだったと、記録文書の中に読んだことがありました。絶対体制を維持するために、非協力者や反対者や騒擾を犯そうとする者に対しては、何でもすることがあったのでしょうか。

そんな時代を知らないと、私には言えません。集団ビンタや、長距離走や、いわゆる、運動部の〈やき〉を受けたことがあるのです。そして、下級生に〈やき〉を入れた経験もあります。実に恥ずかしい過去です。会って、『ごめんなさい!』と言いたいほどです。そんなことが受け継がれてきていたのです。この21世紀には、決してあって欲しくないことです。

(大韓民国の国花の「木槿(むくげ)」です)

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栃木山

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今もそうですが、相撲の本場所が終わると、地方の相撲愛好家のために、巡業相撲が興行されています。また協会運営にも必要もあって行われます。小学生の頃に、私たちの通う小学校の校庭に、土俵が作られて、その「巡業相撲」が行われたことがありました。そこに、二所ノ関部屋一門のお相撲さんが、実際に相撲をとって、観客を湧かせていたのです。

当時は、ラジオ中継がなされていて、贔屓(ひいき)のお相撲さんがいたのです。それで、地方巡業のおかげで、玉の海や琴ヶ浜と言った関取のフアンになってしまいました。あの当時の小学生男子にとって、お相撲さんとプロ野球選手は、憧れの的であったのです。そう、まだサッカーは、人気が出る前だった様です。

栃木県の県南に、以前「赤麻村(現在は栃木市藤岡に当たります)」がありました。渡瀬川遊水池で有名な地です。巴波川や思川が合流する、貴重な植物が分布していることで有名な池なのです。

この村の近くに、「万葉集」に詠われた「三毳山(みかもやま)」があります。

しもつけぬ みかものやまの こならのす まくはしころは たかけかもたむ

『下野の三毳山のコナラの木のようにかわいらしい娘は、だれのお椀を持つのかな(だれと結婚するのかな)』と言う意味です。

その村から、希代の横綱、「栃木山(1892年2月5日 – 1959年10月3日)が出身しています。第二十七代横綱で、抜群の人気を誇った関取でした。『相撲の型を完全に身につけた力士は、この栃木山が最後だろう!』と言われるほどだったのです。

春秋、年二場所の時代に、優勝を九場所もし、『もう五年は横綱をとれる!』と言われたほどの力と人気を残しながら、絶頂期に引退しています。何しろ親方になってからも、現役力士を凌ぐ成績で、「全日本力士選手権(1925年/大正14年)」の第一回で優勝して、世間を驚かせたそうです。華のある内を、〈引き際〉として、それを実行した大横綱でした。

出身地は、足尾鉱毒事件で取り上げられた渡良瀬川の流域にあった村でした。貧しさの中から体一つで立ち上がって、相撲界を盛り上げています。引退後は、相撲協会に尽力し、多くの力士を育成し、私の知らない大正や昭和初期の相撲界の栃木市出身のスターでした。

(三毳山公園の「万葉庭園」です)
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月遅れ

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近所に、氷や和菓子を商っている店があります。おばあちゃんと息子家族で経営しておいでなのです。お父様、お爺さまの家業を継いでいる若店主と、お店の前の通りで、ばったり会って、『暮れについてもらったお餅が、とても美味しかったです!』と話しかけましたら、にっこりと笑い返していました。下の息子くらいでしょうか。

それで、『またお願いできますか?」と言ったら、『いつまでですか?』と言うので、『なるべく早めに!』と答えたのです。そうしましたら、『ちょっと待ってて!』と言って店の仕事場に入って行かれました。私も店に入って、三十分ほど、おばあちゃんと話していましたら、つき上がった餅を持って出て来たのです。

ある市役所に、〈すぐやる課〉と言う部署があるそうですが、まさに〈すぐつく餅屋〉で驚き、家に帰って、遅い昼ごはんに、それで、「お雑煮」を作ったのです。買い置きの鳥肉と小松菜で、醤油味でした。家内が餅が好きで、海苔餅や黄粉餅も大好きなのです。月遅れのお餅を美味しくいただきました。

どこの民族にも独特な食べ物がありますが、日本人の好む「餅」は、《保存食》として優れた食べ物だなと感心してしまいます。ただし、〈切り時〉があるのです。つきたての餅を切ると、包丁についてしまって大変です。ちょうど良い硬さになった時に、綺麗に切れるのです。

もちろん、杵(きね)と臼(うす)でついた餅ではないのですが、その店の餅は、独特に美味しいのです。そう言えば、華南の街に、日本企業の社長の奥様からいただいて、何度も使った「電気餅つき機」があったのですが、どさくさの帰国で、置き忘れで帰って来てしまいました。私たちに後に住み始めた、中国人の若夫婦は、使っているでしょうか。申し訳ないことをしてしまいました。

なぜか、育ったわが家には、「杵」がありました。山奥から越してくる時に、引越し荷物の中に紛れ込んでいて、しばらく物置に置いてありました。父の記念品にしては、合点がいかなかったのですが、何時の間にかなくなっていました。また、饂飩やそばを粉から作るための平板と延べ棒もありました。母が、饂飩を、時々作ってくれたのです。

台所用品も様変わりで、べんりなものが多くあって、欲しい物もあるのですが、狭いアパートでは、置き場所に困るわけです。豆腐でも、味噌でも、漬物も、「餅屋は餅屋」なのでしょうか。米寿のおばあちゃんが切り盛りしている、街中の惣菜屋さんを見つけ、何種類も買ってしまいました。私には、そんな料理は作れないし、家内に食べさせて上げたいからです。でも感謝なことに、最近は、家内が台所に立つ様に回復しております。

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足尾銅山

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ここ栃木県には、「足尾」と言う村がありました(現在は日光市)。日光、中禅寺湖から、バス路線で行くことができますし、群馬県桐生から、「わたらせ渓谷鉄道」でも行けます。渡良瀬川の上流に位置し、江戸時代のピーク時には、1200トンもの銅を産出しています。明治期の富国強兵、殖産興業で、銅山開発が本格的に始まり、20世紀初頭には、日本の銅産出の40%をしめていました。まさに日本の近代化に寄与した鉱山だったのです。

しかし、過酷な労働が、鉱夫たちに強いられました。さらには精錬のための鉱毒が流れ出て、渡良瀬川の流域の農地を汚し、洪水も引き起こし、多くの人々を死なせ、苦しめたのです。いわゆる〈足尾鉱毒事件〉が引き起こされます。それは産業公害の日本のはしりだったのです。

そんな状況下で歌われた、長岡鶴蔵の作詞、啞蟬坊の作曲の「足尾銅山ラッパ節」があります。どんな過酷な労働がなされていたかが、歌われています。

欲という字に眼が潰れ 人たる道を踏み躙(にじ)り 
平民の歎(なげき)の叫び声 知らぬふりする穀潰し(ごくつぶし)

古川さん(※創業者)かご主人か イエイエあいつは違います 
弱き我らを踏み倒す  義理も情けも知らぬ鬼

足腰立つうちゃこき使い 病気や怪我をした時にゃ 
南京米が二升五合 ご主人呼ばわりしゃらくせー

哀れ撰工(鉱)の女工さん 朝は早くて晩は五時 
長い時間を働いて 貰(もろ)おたお金銭(あし)は十二銭

足は冷し腰は冷え 腰は縮むし皮は剥げ 
爪はなくなり肉は出て 撰鉱女はつらいもの

役人さんや監督は 手足あっため腰をかけ 
寒さや痛さは知らぬとも 少しは女工を思いやれ

腹が立たぬか鉱夫さん 年が年中働いて 
春や正月きたとても いつも変わらぬボロ着物

人夫引等にだまされて 来てみりゃビックリ下飯場 
荷物みなあずけられ 飛ぶに飛ばれぬ籠の鳥

籠の鳥なる食物(くいもの)を よくよく吟味するけれど 
我等堀子(ほりこ)の食物は 塩の混ぜたる空けつ 

毒と知りつつ精錬で 臭き煙に責められて 
死ぬほど稼いで三十二銭 之がほんとの生き地獄

上席良き顔せんために 我々共をコキ使い 
飯食う時間もやかましく 今に見ておれ此の犬め

好きでダルマ(淫売)をするでない 嫁に行かれず飯食えず 
と云うて仕事もない故に 涙こぼしてこの苦労

ダルマすれども心まで まさかダルマになりません 
思う殿御(とのご)があるなれば 必ず操(みさお)を守ります

我々この歌うたうのは 面白おかしでするでない 
心のそこの血の涙 割って見せたい腹の中(うち)

この歌は、youtubeで聞くことができます。栃木県佐野出身の国会議員の田中正造は、反対運動を指導しています。悲惨な出来事が、日本の近代化の歴史の中に、多く隠されているのです。

(足尾銅山の鉱夫のみなさんの古写真です)

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都会の音

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「都会の音」があるそうです。港町なら汽笛、農村なら耕運機のエンジン音、森林ならチェーンソウ音ですが、都会を代表する音は、〈地下鉄走行の音〉でしょうか。いいえ、〈サイレン音〉なのだそうです。あの消防車、救急車、警察車両、路上をゆく時に発する音です。

私たちの住む街は、ご多分にもれず、静かな街で、年配の観光客がそぞろ歩く姿が見られます。江戸期には、「例幣使街道」と言う主要国道が、街の中心を走り、明治期には、栃木県庁が所在していたのです。近所の古老によれば、「みつわ通り」は、路線バスが行き交い、人通りが溢れ、道沿いの商店は、栄えていたのだそうです。ところが、今や〈シャッター街〉に変じてしまっています。

何年も前に、倉敷に行った時、街中を歩いてみました。倉敷駅近くの道は、まさに、そのシャッターが降りたままの商店が連なっていて、目をつむると、人の波や下駄や草履の音が聞こえてきそうでした。伯備線の発着駅ですから、沿線の住民の多くが利用して、商いがかつては栄えていたはずです。

1960年代に、日本の多くの街に、仕事で出かけた頃は、どの街も元気で潑剌としていましたが、今や地方都市の中心都街が、勢いを失っているのです。新幹線、高速道路、市外のバイパスができてから、その傾向は強くなったそうです。

近所のお客様を相手にして、子を育て、教育を受けさせ、文化的な生活をしていた商家の人たちが、大型スーパー攻勢に抗しきれずに、廃業してしまったのです。その反動でしょうか、聞くところによりますと、アメリカでは、大型店では買わないで、地元や近所の店で買い物をして、彼らを支えていこうとする運動があるのだそうです。

同じように、農家を支えていく運動もあります。有機栽培、低農薬栽培をする生産者が自営できるように、支えていこうとしています。私たちが住んでいた華南の街でも、40ほどの家庭が、購入の約束をして、野菜を購入するなら、生産者を支えていけるからと、誘われていました。残念ながら、そんな動きの中で、帰国してしまったわけです。

かつての賑わいを、戻せるでしょうか。後継者が、都会に出て行ってしまって、家業を継がない、継げない現状もあります。近くに八百屋さんがあって、前には買ったのですが、値段が高いのがネックになって、足が遠のいてしまっています。この辺に、〈ジレンマ〉がある様です。

かつては県庁のあった街ですが、仕切りに〈都会の音〉が頻繁に聞こえてきます。市役所や消防署のある主要道路沿いに家があるので、とくにそうなのです。きっと、高齢者の方が、サイレン音を立てながら、搬送されているに違いありません。わが家でも、携帯電話の連絡先のトップに、《消防署》が入れてあります。これも私たちの現実であります。

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開花予報

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今年の桜の開花予報です。

情報提供者 ぽんぽんやま(PPY)@京都@mt_pompon_ppy
2月13日
2/13時点 ウェザーニュース満開予想

五稜郭公園4/27
弘前公園4/23
桧木内川4/27
北上展勝地4/18
高田公園4/8
高遠城址公園4/11
千鳥ヶ淵3/29
嵐山4/5
吉野山上千本4/9

この街の桜の名所をお聞きしましたら、「大平山」だそうです。去年は、慌ただしい中、壬生町の東武日光線・国谷駅の古木の桜を、家内のお見舞いの途上、蕾が膨らんでいく頃から、開花、落花、桜吹雪まで、車中から見続けました。まだかまだかの開花を追った日々でした。今春は、若き友人が、家内と一緒に、大平山にお連れくださるとのことです。楽しみにしているこの頃です。

(大平山の桜です)

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切なる願い

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〈憎しみ〉が、人の心を占領しています。
〈争い〉が、人と人、集団と集団、国と国の間に入り込んでいます。
〈主義〉と〈主義〉が、衝突しています。
〈価値観〉と〈価値観〉が譲り合っていません。
〈戦争〉でもないのに、〈飢饉〉でもないのに、どうしたことでしょうか。
〈罵り合い〉、〈殴り合い〉、〈奪い合い〉もあります。
どうしたのでしょう不協が連鎖しています。
最高傑作の人が、期待に応えられていません。
〈恐れ〉、〈不安〉、〈期待外れ〉を越えていきたいのです。
〈どうにもならないこと〉は、どうにもならないのです。
相手を思いやれる様になって欲しいのです。
切なる願いです!

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試練

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隣国、中国に、私たちの思いを向けましょう。混乱、恐れ、不安が、中国のみなさんの心を満たしています。一昨日の夕べ、武漢からは、だいぶ遠い華南に住む友人と話しました。外出制限がしかれ、食料の買い出しも、配送業者に任す以外ないそうです。大学の授業も、ネットでしようとしています。

春節で実家に戻っていた友人は、政府の許可を得て、授業の資料を取りに、大学街の家に出かけたと言っています。様々まな面で、不自由をしています。それでも、募金をして、武漢への援助をし続けているそうです。中華人民共和国の開闢以来の最大の試練の時にあります。

13年過ごした中国は、家内と私の《第二のふるさと(老家laojia)》何です。友人たちがたくさんいて、困難に直面しています。ぜひ覚えていただきたく、お願いをいたします。終息し、元の様な生活に戻れる様に、とくに、患者さんの治療に当たり、重症化を防ごうとしている医療従事者、円滑の業務ができる様に、市の責任者のためにも覚えてください。

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ことば

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forest glade with blooming flowers

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「物を言う」時、どう言うかによって、随分と、聞く人の応答が違ったものになります。とくに若者の行動や言動を注意する時に、どう言うかによっては、攻撃的に反逆してきたり、あるいは素直に受け入れるかで違うのです。

私は、言葉で失敗したことが多くありました。言ってはいけないことを言ってしまったり、言い方が正しくなくて、相手を怒らせたり、落胆させたりしてしまったのです。それは私だけではなく、多くの人が失敗している様です。ガリラヤ湖の漁師だった方が、こんなことを言い残しています。

『私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。』とです。この方の経験か、周りの人を観察しての経験でしょうか。ことばは、燎原の火の様に、焼き尽くすものを飲み込んでしまいます。唇や舌の世界は、〈火の世界〉だと言うのです。

1953年(昭和28年)2月28日のこと、時の総理大臣、吉田茂が、衆議院予算委員会で、社会党の西村栄一と質疑応答の後、席に戻ろうとして、小声で『バカヤロウ!』と言ったことで、衆議院が解散してしまいます。その時の質応答の記録が残っています。

西村「総理大臣が過日の施政演説で述べられました国際情勢は楽観すべきであるという根拠は一体どこにお求めになりましたか」
吉田「私は国際情勢は楽観すべしと述べたのではなくして、戦争の危険が遠ざかりつつあるということをイギリスの総理大臣、あるいはアイゼンハウアー大統領自身も言われたと思いますが、英米の首脳者が言われておるから、私もそう信じたのであります。(以下略)」
西村「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる。イギリス総理大臣の翻訳を承っておるのではない。(中略)イギリスの総理大臣の楽観論あるいは外国の総理大臣の楽観論ではなしに、(中略)日本の総理大臣に日本国民は問わんとしておるのであります。(中略)やはり日本の総理大臣としての国際情勢の見通しとその対策をお述べになることが当然ではないか、こう思うのであります」
吉田「只今の私の答弁は、日本の総理大臣として御答弁致したのであります。私は確信するのであります」
西村「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか。
吉田(無礼なことを言うな!)
西村 何が無礼だ!
吉田(無礼じゃないか!)
西村 質問しているのに何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。(中略)翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が無礼だ! 答弁できないのか、君は……
吉田(ばかやろう……)
西村 何がバカヤローだ! バカヤローとは何事だ!! これを取り消さない限りは、私はお聞きしない。(中略)取り消しなさい。私はきょうは静かに言説を聞いている。何を私の言うことに興奮する必要がある」
吉田「……私の言葉は不穏当でありましたから、はっきり取り消します」
西村「年七十過ぎて、一国の総理大臣たるものが取り消された上からは、私は追究しません。(以下略)」

この両者の確執は、以前からあった様ですが、小声の囁きが、大事を引き起こし、吉田茂の政治生命を終わらせてしまうのです。でも、西村議員の事後処理法を学ばねばなりませんね。

その〈ひと言〉を言ったばかりに、大喧嘩になることがよくあります。関東人の〈バカヤロウ〉と、関西人の〈アホ〉とは、意味が同じでも、言葉の重さが桁違いに違っていそうです。

ことば上の失敗の経験を見聞きし、経験して学んだことが、一つあります。それは、《事実》だけを言うことです。叱ったり、注意したり、否定したりせずに、その現実を、感情を交えずに言うことです。良し悪を判定しないことで、聞く人が、自分で決めさせるのです。そう私がし始めてから、人間関係は円滑になってきています。

(ガリラヤ湖畔に咲く花です)

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