大平山に似合う紫陽花

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 梅雨の合間に、念願の「大平山の紫陽花」を観に、連れて行ってもらいました。29歳の太宰治が、甲斐国の御坂峠の茶屋に逗留した時に、富士を背景に咲く「月見草(これは別の花ではないかとの異説があります)」を見て、霊峰富士にピッタリと似合う花だと詠んだのですが、下野栃木の国の大平山には、この「紫陽花」が殊の外似合っていました。

 人気の景勝地ですから、駐車場には県外車も見受けられ、小さな抱かれた赤ちゃんから年配者まで、人出が多くありました。昨日一昨日と雷雨に見舞われた後、今日の雨上がりの紫陽花は、格別な趣がありました。梅雨時、紫陽花となると、やはり「蕎麦」が相応しいと、昼食は「ざる蕎麦」にし、蕎麦湯をいただきました。今時は、蕎麦が似合う様です。

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アメリカ北西部に咲く

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 この写真は、外孫が、『ジイジとバアバに送りたい!』と言って送信してくれたものです。花の名前が分かりません。

 花って、どこにでも咲くもの、どんな条件下でも咲くもの、特定の条件下でしか咲かないもの、一夜だけしか咲かないもの、百年に一度だけしか咲かないもの、高地でしか咲かないもの、乾燥地でしか咲かないものなどなどがある様です。

 もう一花咲かせたい願いがありながら、燻(くすぶ)っていますが、これも独特な花の咲く様なのかも知れません。花ある人生を願いつつ、花のあるベランダの家で過ごしています。今日は、素敵な母業をされているお母さんに、梅雨の花、「紫陽花」を観に連れて行ってもらうことになっています。

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祖国の復興を願う

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 「古文」の時間に、鴨長明の「方丈記」を学んだのを、眼下に流れる巴波川を眺めながら思い出しました。

 『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。』

訳文 『流れて行く川は絶え間なく流れている。その流れる水も、同じ水ではない。川の澱みに浮かんでいる水泡は、消えては、またできてくる。そこに長く止まることなんてない。この世の中に生きている人も住居も、ちょうどこの川の流れや水の泡のようなものだ。』

 「日本文化」の講座をお願いされて、向こうに学校で教えていたことがります。日本人の心の中に刻み込まれた「儚(はかな)さ」や「無常観」についても触れてみたのです。私の中学の担任は、『かつて(鎌倉期)の日本人(武家も庶民も)は大らかで快活な国民性を持っていたのだ!』と教えてくれました。つまり、クヨクヨしたり、悲観的ではなかったことを語ったのです。仏教の「諦観」や「儚さ」や「無常」とは違ったもので、心も社会も形作られていたと言ったのです。

   私の育った父の家には、家を飛び出した父でしたから、仏壇もなければ、神棚もありませんでした。札が貼られたりもしてありませんでした。正月や彼岸やお盆などの日本文化や宗教の行事とは、まったく関わりを持たない家でした。ただ母が聖書と讃美歌を持っていて、それも礼拝対象物ではなく、壁に掛けたり身につける十字架もありませんでした。

 お世辞にも、私たちに育った父の家は、《大らか》だったとは言えませんが、大声や怒鳴り声や叫び声が溢れていたので、そうする男5人は感情表現が十二分にできていて、引き籠ったり、イジイジすることなく、世間体など気にせず過ごせたのです。だからでしょうか、悪魔も悲しみも儚さも退散して、世間体なども気にしないで、『どうにかなるさ!』な雰囲気で満ちていたのです。

 鴨長明は、不遇の人で、やがて出家し、高野川か御手洗川の流れを見て、嘆息をついたのか知れませんが、旧約聖書の預言書の中に出てくるエゼキエルは、捕囚の民でありながら、ケバル川のほとりで、《神々しい幻》を見ました(エゼキエル11節)。

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 『第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た・・・私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。(エゼキエル書114節)』

 どんな幻だったかと言いますと、青銅の輝きの中で、四匹の獣を見たのです。異象でしょうか、幻でしょうか、将来起こりうる啓示を、世界を創造し、統治する神から受けたのです。儚さや悲観など入り込む余地は、彼の思いにはありませんでした。最愛の妻を奪われ、不遇な中を過ごしますが、挫けませんでした。異国にありながら、涙ながらに祖国や民族の回復や復興を信じて、預言者としての生を全うしたのです。

 私も、儚んだり悲観的になって生きていません。同じ預言者であるエレミヤが言う様に、《将来と希望を与える計画(エレミヤ2911節)》を信じて、生きてきました。これからの残された月日も生きていくつもりでおります。巴波川の流れの泡にではなく、立ち登る正気に満ちた潤いを身に、心に感じて、生まれ育った国の霊的な復興を願って、生きていく覚悟です。

(巴波川とバビロンの庭園の想像図です)

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お手上げ

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 最近、市内の無信号の横断歩道に立つと、車が止まる様になってきています。この県は、県警によりますと、横断歩道で人を見かけたら、停車しないので有名を馳せているそうです。それで他県から乗り入れる運転者に顰蹙(ひんしゅく)を買っていると聞いています。欧米では、そうすることは、運転者の義務ですから、日本では守られていないのを知って、彼らは驚いています。

 華南の街では、歩道を車が走ったりしていましたから、道路を渡る時は、横断歩道で手を上げて、『俺、これから道路を渡るよ!』と合図していました。そんなこと誰もしないので、『アッ、日本人!』だと分かるのだそうです。手を挙げることですが、〈お手上げ〉と言う言葉があります。中二の私の担任は、思春期の危うい不安定の真っ最中の私を見て、〈お手上げ〉だったのです。

 細かなことは省略しますが、中学入学と同時に、ご自分と同じ大学進学を期待してくれて、激励してくれたのに、期待に背いて、あちらこちらでワルをしている私に、担任は、渋い顔を向けていました。ところが、中三の最後の通知表の「行動の評価」欄に、『よく立ち直りました!』と書き込んでくれたのです。

 高等部に上がることを祝福してくれたのです。その高校の全国レベルの運動部に入って、受験勉強をほとんどしませんでした。母が、輪禍にあって一年近く入院してしまい、その部活も休部を余儀なくされてしまったのです。でも無事に卒業でき、大学にも入り、卒業と同時に、学校長が理事長をしたことのある研究機関に就職したのです。

 さらに教師になったのを驚き、また伝道者に、私がなったのを知った担任は、『そうですか、お母さんと同じ道を歩んでいるのですね!』と、上の息子をつれて挨拶に行った時に、言ってくれました。息子を見た担任、『君は大丈夫そうだね!』と言っていました。私が〈お手上げ〉をしていないからでした。

 「手を挙げて」ですが、横断歩道で、挨拶をして、ちょっと頭は下げて、感謝も添えて渡ると、こちらも、そして相手も気分が良さそうです。これまで、台湾、韓国、シンガポール、マレーシアのアジア圏の車のマナーを眺めましたが、アメリカやカナダやアルゼンチンなどと、” motorization “ を比較してみると、早く車社会になった国々とは、運転の manner に大きな違いがあります。ただし、シンガポールは例外でした。

 この県も、運転の manner が改善されつつありそうです。〈お手上げ〉の私が、横断歩道で手を挙げているのを知ったら、私に〈お手上げ〉だった担任は何を思うのでしょうか。もう他界されておいでですが、感謝しながが思い出しております。

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孤舟を漕ぐ

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 私が働いた二番目の職場は、大正デモクラーシーの中で、女子教育に一石を投じた学校が母胎になっていました。「経済」は男子だけのものではなく、女子も経済感覚を身につけ、社会の中で経済活躍する必要があるという趣旨で、専門学校として始められたそうです。戦後、新制の短大と女子中高校として再出発しています。

 私が勤めていた頃には、短大の他に、幼児教育、初等教育、中高教育を、一つの流れの中でしていました。最初の職場に、週二日ほどの勤務で来られていた研究員がいました。その方は、以前、その高校の教師でしたが、その短大の教務部長になっておられていたのです。中高部の教員に欠員があると言うので、私が紹介を受け招聘されたのです。

 働き始めた時、創設者の孫にあたる方が、学長、校長をされていましたが、ご病気で、主事一名、副主事二名の体制で職員構成ができていました。その学校の実力者は、男子教員のほとんどを家に集めてしまうほどの女性の副主事でした。何やらおかしな[空気」が漂っていました。一度、この副主事の家に、いつの間にか、新任の私は連れて行かれたことがありました。そこでの話題は、主事や体制批判でした。

 そう言った、[群れること]のが大嫌いな私は、二度と訪ねることはありませんでした。その様な集まりからでしょうか、「職員組合」を作ることになったのです。待遇改善、つまり給料を上げるための圧力団体の発足でした。40人ほどの教員と講師がいたでしょうか、この私にも、この組合に入る様にとの誘いがありました。私は、そう言った種類の圧力を加える団体には加わりたくなかったのです。そうした個を認めない[空気]に逆らったのは、私一人でした。

 『授業が終わったら会議があります!』という中、3人の主事と平教員の私の四人で、職員室に残り、残務を行なって、時間が来たので、『お先に失礼します!』と帰宅してしまいました。同調しない独りの立場で、私は平気でした。自分は、この学校に、生徒を教えるために招聘され、課せられた授業に集中したかったので、学校経営者への圧力を加えたくなかったのです。

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実は、私の給料は、早稲田や津田塾を出た、同年齢で、学卒で就職した觜、五人の教師たちよりも、高い額を支給されていたのです。それが、東京都からの補助金の金額表が、職員室の掲示板に掲出されて、それを見た早稲田組から文句が出たのです。私立学校ですから、給料は経験を加味されたり、経営者側の考えで決まって当然なのですが、高い給料の私に彼らはねじ込んできたのです。

 『そんなことで争いたくありませんので、私の給料の基本額を、彼らと同じにしてください!』と、法人の事務長に言って落着しました。その時の津田塾出の女教師が、後に校長になっていました。あんな狭い世界にも、女副主事組に加わる様に、[同じ空気]を吸う仲間への誘いといった[同調圧力]が掛かっていたのです。

 私は、数年後には、その短大に移って、そこの教師になるレールに乗らせていただいたのです。その学校にお誘いくださった教務部長の恩師が、ある大学の名誉教授でした。この方は、その教授の一番弟子でしたから、そんな縁故で、その大学でも講師として働く将来が、私にもあったのです。

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 それも自分で獲得した機会ではありませんでしたから、別に惜しいとは思いませんでした。母がお世話になっていた教会の宣教師が、新しい地に開拓伝導をするに当たって、私を助手に招いてくれたのを機に、そこを退職しました。

 日本という「空気」を読んで、するりと生きていけばよかったかも知れませんが、生き方を変えてしまったのです。そのまま、流行らないキリスト教伝道者の道に分け入り、人生の一番良い時期を生きて参りました。日本人で生きるよりも、その枠を出た世界で生きる道を辿ってきて、自分の信念を揺るがさずに来れたのは、「孤立(独り)」でもへっちゃらで生きれた母の感化であり、五十年私を理解してくれた家内がいたからでしょうか。

 こんなことを書いていたら、巴波の流れに、白鷺がたった一匹で、水面を眺めて餌を探しています。群れを離れても、彼(彼女)は、『独りでいられるんだ!』と言っている様です。空気の読めない白鷺の様で、自分が重なります。今も、[重い空気]が日本社会を覆っているようです。

 人は、[群れ]たい、いえ[群れ」ないと、日本人は生きていけないのかも知れません。群れを離れることの怖さを知って、[日本人]の枠を出ない様に、人の目を気にしながら、この狭い、そう言ってもけっこう知らない土地が多くありますが、そこで生きてきたわけです。それが日本という社会なのでしょう。その枠に収まりたくない私は、それでも寂しくも孤立も感じませんでした。孤舟を漕ぐ様な年月でしたが、気心の知れた友がいて、愛する家族がいて、何よりも《神ありき》で、とても満足な年月だったと、越し方を思い返しています。

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空梅雨に思う

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こちらは「空(から)梅雨」でしょうか、あのジメジメした気分がしないのも、何か足りなさを感じがしてしまう様です。毎年、梅雨の時期を過ごしてきたので、それを感じないのは違和感を覚えるのかも知れません。大正期に流行った、作詞が野口雨情、作曲が中山晋平の「雨降りお月さん」の歌を思い出します。

雨降りお月さん 雲の蔭(かげ)
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
一人で傘(からかさ) さしてゆく
(からかさ)ないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン 鈴つけた
お馬にゆられて ぬれてゆく

いそがにゃお馬よ 夜が明けよう
手綱(たづな)の下から チョイと見たりゃ
お袖(そで)でお顔を かくしてる
お袖はぬれても 乾(ほ)しゃかわく
雨降りお月さん 雲の蔭(かげ)
お馬にゆられて ぬれてゆく


 お嫁に行かせる両親も、見送る祖父母も、そして本人も、迎える婿殿も家族も、雨の降らないことを願ったのでしょう。でも雨が降るのだとするなら、それは梅雨時のお嫁入りだったのでしょうか。

 山里の田舎に住んでいたことがありましたが、そこで嫁入り風景を見た経験はありません。婚礼の前の日に、田起こしに使った馬を、綺麗に水で洗って、鈴や赤白の紐で飾って、嫁入りの晴れやかな舞台に役立つ農耕馬も、晴れの舞台を迎えて気取りがちだったのでしょう。

 そうやって健全な家庭が、この国の中に作られてきたのは、素晴らしいことです。その家庭で子どもが誕生し、育ちます。外で活動し始めた子どもたちの無事を願い、祈る親がいて、様々に傷ついても、帰って来られる家庭があると言うのは、子どもたちにとっては救いだったのです。そこで傷が癒やされ、生きる力を得て、また出ていくことができたからです。

 《帰って行ける家庭があること》、どんなに駄目でも、どんなに酷いことをしても、『親だけは、俺(アタイ)を家で待ち受けてくれている!』、たとえ何年も音信が不通であっても、そういった空間、場所、避難所があるなら、人は必ず回復することができます。

 あの弟息子が、誇りを打ち砕かれ、恥な人生の土壇場で、『こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。(ルカ1520節)』と、決断するのです。「父」を思い出し、父のもとに帰ろうと決断したわけです。恥を引っ提げて、あの懐かしい家を目指すのです。

 『ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(ルカの福音書1520節)』、人生には逆転劇があり、それを生み出すのが、条件付きでない《父性愛》なのです。不肖の息子を、《可哀想に思う思い》、《走り寄って近づく行動》、《抱きかけて迎え入れる受容》、《愛の証明の口付け》を、この父親はするのです。

 『子どもはカスがいい!』と、〈カス〉のままの子を受けとめ、育て、愛したお母さんも思い出します。「鎹(かすがい)」にはならなくとも、カスをカスとして受けとめたお母さんの度量の大きさです。そうされたカスが、社会の中で確りと生きているのです。

 嫁に行き、夫の子を産んだ母親が、自分の子が、こんなカスになるとは思っても見なかった現実の中で、子育てを諦めない《したたかさ(漢字では「強か」と書いて、そう読ませています)》が、人を作り上げるのでしょう。自分の母親を思い出し、四人の子を育てた家内を思うにつけ、執念深さや強情さがあったのを思い当たります。神が母親に与えた特質を、そういう言葉で言うのかも知れません。

 そんな母親を支持している父親がいて、自分も生きてきたのを、この空梅雨の今、思い出しています。それでも、今日は午後には雨だと予報が伝えているのです。

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オットッと

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International Peace Day illustration in paper cut style for culture unity around the world. Dove bird cutout with diverse people crowd. EPS10 vector.

 

 『道路の端を歩くとドブに落ちるから、注意!』と言った矢先から、私の娘は、『オットッと!』と言いながら、ドブにハマりました。そう言った父親の私も、教師やおじさんやおばさん、そして父や母に、〈注意勧告〉されながら、聞かなくて失敗の連続の子供時代でした。

 今、『危ない!」と警告している方がおいでです。日本の社会は、〈曖昧社会〉ですから、『ノー!』も『イエス!』にも偏らないで、マアマアのどっちつかずでやってきた社会です。あの対米英戦争だって、『負けるから!』と、軍事を知り尽くした専門家が警告していたのに、ズルズルと始めてしまって、負けたのです。

 やらない方が良い理由が分かっていても、政治的な理由、経済的な理由、国威の発揚、いえメンツ、連戦連勝で勝ってきた過去の光栄ある実績によった経験が忘れられないで、時が移って変化している状況に、冷静な科学的な状況判断をしなかった結果、『今度も大丈夫!』、『だろう!』で始めて、数え上げられないほどの犠牲を与え、自らも、それを被ったのです。

 戦争でお父さんを奪われた級友たちの憂いに満ちた目、父のいる私への羨望の眼差しは忘れられません。「粛軍演説(1936年5月7日年)」や「反軍演説(1940年2月2日)」を、国会でした斉藤睦男の警告を聞かなかった結果です。

 また、矢内原忠雄は、「非戦論」の立場を、終始守り通していました。その姿勢を、南原繁は、次の様に書き残しています。

 『暗黒時代の中で、たとい現実に戦争を阻止する力を発揮しえなかったにせよ、敢然(かんぜん)と侵略戦争の推進に正面から反対した良心的な日本人が、少数ながら存在した事実のみがかろうじて一すじの救いの光として、私たちの心をなぐさめてくれるのである。 ・・・ 矢内原忠雄氏の個人雑誌は、そうした数少ない貴重な良心的活動の中でも、もっとも卓越した一つである。戦争勢力の暴虐(ぼうぎゃく)に対し憤(いきどお)りの念をいだきながら何一つ抵抗らしい抵抗もできず、空しく祖国の破滅(はめつ)を傍観(ぼうかん)するの他なかった私は、自己の無力を顧みて悔恨(ざんき)の念にさいなまれると同時に、このような勇気にみちた抵抗を最後まで継続した人物の存在を知ったときには、驚きと畏敬と、そして日本人の良心のつなぎとめられた事実に対するよろこびの念のわきあがるのを禁ずることができなかった。(南原繁編「矢内原忠雄-信仰・学問・生涯」263-4)」

 良心を売ってしまわないで、冷や飯を食っても、節を曲げない日本人がいたことは、救いでした。斉藤睦男は議員を除名され、矢内原忠雄は教壇を追われてしまいました。ハッキリものを言う人は、圧力が掛かって、職や責任ある地位を追われるのです。

 もう誰も、『ノー!』と言えない、〈イエスマン〉たちが過ちを犯してしまうのです。今回の新型コロナ騒動も、同じ筋書きで終わるのでしょう。悔やんでも〈後の祭り〉です。新型コロナで失うものは大きいのですが、今の損得ではなく、将来の益のために、賢い良心的な決断をしていただきたいものです。

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夕陽

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 夕陽のホノルル、飛んで行きたい気分です。潮風が気持ちよさそうで、その風に当たったら、いっぺんに気分が晴れそうです。今、みなさんが閉塞感を感じておいでです。散歩して、「路傍の花」や、庭先に咲く花を眺めると、一生懸命生きているのを知って励まされます。

 ここ栃木市は、「路傍の石」で有名な山本有三の生まれた街なのです。目抜き通りで呉服商を営む家に、生まれ育ちますが、子どもの頃から文才があって、たくさんの書を著しています。その生家でしょうか、「ふるさと記念館」になって、コロナ禍でも観光客が訪れて賑やかです。有三は、栃木市の名士です。

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 本を読んだり、散歩をしたり、買い物に出かけたり、行動範囲は狭いのですが、閉塞感に押しつぶされることはありません。でも、この騒動が終束したら、飛行機ではなく、大海原を行くハワイ航路の船に乗って、ホノルルの夕陽を眺められたら、爽快になるでしょうか。夕日は明日につながるので好きです。

 晴れた夕方、大平山に沈んでいく夕陽も、とても綺麗です。朝な夕な、四階からの眺めに心満ち足りております。もう果物屋の店頭には、スモモや西瓜が出回っているのですね.

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ナウマンゾウの里で

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この写真は、大正時代の栃木市の目抜き通りを写したものです。市の北部に、寺尾という地域があり、そこにある鍋山に「石灰」が採掘されていたそうです。それを両毛線の栃木駅に運ぶために「鍋山人車鉄道」が敷かれていました。

 この軌道が、この写真の右に見えます。大正時代に撮影されたものです。人も乗ったそうで、人力だったのですが、後に蒸気機関車が使われています。去年でしたか、星野遺跡に行くために、市の「ふれあいバス寺尾線」に乗って出掛けた地でした。

 並行して道路があるので、ちょっと何だろうと考えていたことがありましたが、軌道があったことを知って納得したのです。この鍋山ですが、石灰の採掘会社があって、驚くべき物が発掘されたそうです。それを伝える記事があります。

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 『平成1年,栃木県栃木市鍋山町の吉澤石灰工業株式会社大叶鉱山三峰地区の裂罅 堆積物中より、「ゾウ化石」が採集された.ほとんどの骨は方解石の結晶に包まれていた.プレパレー ションの結果,10点ほどの部分骨を得た.多くの骨は不完全で部位の同定に止まる.臼歯のエナ メル環にはナウマンゾウのHolotypeのような明瞭な菱形歯突起(loxodontplica)はない.  共産した小型哺乳類はAnourosorex属やShikamainosorex属など絶滅種を含み,絶滅率は50% 越えない.最小個体の数は2頭である.既知の標本の中では最も小さい雌と判定した.

 そこでもナウマンゾウの骨や歯の化石が見つかったのです。長野の野尻湖、北海道の幕別、山梨市の相川などで発見されていますが、ここ栃木県にも住んでいたのを知って、旧石器の時代が身近に感じられています。小動物ならともかく、大きなナウマンゾウも、猟で捕らえて、食料とした様です。

 男体山や筑波山や富士山が見られて、人もナウマンゾウもいて、この自然の中で、さまざまな営みを繰り返して今があるのですね。人は、木の実などの採取生活だけではなく、麦や米などの穀類や芋などを栽培し、貯蔵し、計画的に生きてきたのではないでしょうか。

 『そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。(創世記323節)』と、エデンの園を追われたアダムは、土を耕して、食物を得る様になっていたと記されてあるからです。人は、耕す様にされているのでしょう。

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 今、アパートのベランダで、家内が種を蒔いたミニトマト、茗荷、紫蘇が育っています。ナスもインゲンも育てたいのだそうですが、場所が手狭で、どうも無理です。こうなると、家庭菜園があったらいいなと思うのです。裏庭に畑のある家に越して、土を耕す人になってみたい願いが、フツフツと湧き上がってきます。

 子育て中に住んでいた街で、ナスやもろこしや落花生やスイカまで育てたことがありました。宣教師が植えたジャガイモを、留守中に、子どもたちと収穫して、けっきょく、ほとんどをわが家で食べてしまったこともありました。芋掘りって楽しいのです。もう一度、畑のやれる家に引っ越しできるでしょうか。ナウマンゾウの狩はできなくても、野菜栽培は、見様見真似でできそうです。

(軌道の古写真、ナウマンゾウと歯、ミニトマトです)

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華やかさの陰で

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 この写真は、次男が撮影した、オリンピック東京大会の主会場です。近代建築の工法を投入した、隈研吾の設計による競技場です。

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 これは、古代オリンピックが行われた、オリンポスの丘の聖域を復元した図です。ギリシャの国内から集められた競技者たちが、競技した地です。

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Vue du stade panathénaïque d’Athènes pendant les Jeux Olympiques de 1896, en Grèce. (Photo by API/Gamma-Rapho via Getty Images

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 この写真は、近代オリンピックの第一回大会が行われたアテネの競技場です。こんなに素朴な競技場だったのです。思い出すのは、クーベルタンが語った言葉です。教会の礼拝の中で、『このオリンピックで重要なことは、勝利することより、むしろ参加することであろう。』という説教が、牧師によって語られました。

それを聞いていた、当時のIOC会長のクーベルタンが、『勝つことではなく、参加することに意義があるとは、至言である。人生において重要なことは、成功することではなく、努力することである。根本的なことは、征服したかどうかにあるのではなく、よく戦ったかどうかにある。』と語ったそうです。スポーツはもとより、どのようなことも、「努力すること」に意味があり、奨励されるべきことなのです。

思い出すのは、アメリカ映画「炎のランナー ” Chariots of Fire ” 」で取り上げられた、一人のランナー、エリック・リデルのことです。1924年のオリンピックのパリ大会で、400mを世界記録で優勝し、輝かしい勝利を得た後、宣教師として中国に赴きます。戦時下、日本軍に捕らえられて獄中で病死しています。

彼と同じ収容所にいた、宣教師の子がいました。この人の両親は、雲南省で福音宣教と医療活動をしていました。日本軍に捕えられた時、リデルと出会ったのです。戦後、青森県下で伝道した、OMF(国際福音宣教会)の宣教師、スティーブ・メティカフ師が、その人でした。中国で残虐を繰り返す日本兵をも、「敵を愛しなさい(マタイ5章44節)」と、収容所内で持たれた聖書研究会で語るリデルのことばに従ったのです。

『「きっと自分にはやるべき仕事が残っているんだ。神様、もし僕が生きて収容所を出られる日が来たら、きっと宣教師になって日本に行きます。」という祈りであった。その祈りの通りに、25歳になったスティーブンは宣教師として日本にやって来た。』と、〈弘前福音キリスト教会通信〉で、彼の決心が語られています。

華やかなオリンピックの陰でなされた、驚くべき働きがあります。そんな目立たない働きを通して、この日本列島の中には数えきれないキリスト教会が建て上げられてきているのです。

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