ポカンとしている私

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 「社会的弱者」、「経済弱者」、「買物弱者」、などと言われる人たちがおいでです。そう言ったみなさんに、その社会、国家、集団などが、どのように援助していくかが問われています。

 病気や障害や事件、天候などの天変地異の出来事によって、損害や損失などをこうむった人たちに、どう接していくかが問われるわけです。そのような立場、環境にある人たちが、社会的に、経済的に、身体的に健康であるように援助していことが求められます。

 イスラエルの社会の中で、とくに経済弱者であった、寡や孤児や外国人への配慮や援助が、神によって定められていました。

『汝他國の人または孤子の審判を曲べからず。また寡婦の衣服を質に取べからず。汝誌ゆべし。汝はエジプトに奴隸たりしが汝の神ヱホバ汝を其處より贖ひいだしたまへり。是をもて我この事をなせと汝に命ずるなり。汝田野にて穀物を刈る時、もしその一束を田野に忘れおきたらば、返りてこれを取べからず。他國の人と孤子と寡婦とにこれを取すべし。然せば汝の神ヱホバ凡て汝が手に作ところの事に祝福を降したまはん。 汝橄欖を打落す時は、再びその枝をさがすべからず。その遺れる者を他國の人と孤子と寡婦とに取すべし。また葡萄園の葡萄を摘とる時は、その遺れる者を再びさがすべからず。他國の人と孤子と寡婦とにこれを取すべし。汝誌ゆべし汝はエジプトの國に、奴隸たりしなり。是をもて我この事を爲せと汝に命ず。(文語訳聖書 申命記24章17〜22節)』

 イスラエルの主なる神さまは、社会的弱者に対して、格別な配慮をし、この寡(やもめ)、孤児、在留異国人のみなさんの食べたり、飲んだり、着たり、住んだりすることについて、共に住む他者に責任を果たすように、イスラエルの民に命じたのです。

 聖書を学んだ学校で、この箇所をテキストに、退職して帰国する外国人教授の最終講義がなされたのです。旧約聖書の研究をされてきた学究派の聖書教師でした。社会弱者を顧みられる神さまを、学徒に語りたかったのでしょう。淡々と、時に昂りを見せながら話されたのです。

 非生産的、非貢献的な人間への神の顧みということ、寄るべなき者を、決して見捨てられない神さまがいて、人にも、寄るべない者を顧みるように要求する神がいらっしゃることに、まさに聖書が知らせる神さまのご性質の最もはっきりしたことではないでしょうか。

 生きていたって役に立たないと思われている人たち、価値も意味もないとしている人間社会に、そう言った人々と共に生きるために、心を配り、物を分け与えるように願う神が、聖書の示すお方なのです。強者だけが生き残れるような人間社会に、弱者保護規定を設けられたお方を、神だと知ってから、わたしは、自分の生き方が変えられたのです。

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 今も「弱者」がいますが、最近身につまされているのが、「情報弱者(デジタル弱者)」です。デジタルの世界の驚くほどに進歩し、変化し、その日進月歩の現実についていけない、われわれ世代が、その動きの中で、ポカンとしてしまっているわけです。

 日本語の会話の中に、カタカナ語が混じると、何が何だかチンプンカンプンで、ついていけないと言うか、拒否反応が出ているのと同じです。ラジオのニュースの中で、カタカナ語が出てきますと、英和辞書で字引きをするのですが、日本語化されている英語は、spelling がわからず苦労してしまうのです。

 今や、家内も私も「デジタル弱者」なのですが、携帯電話を持たない、キャッシュカードを使わない、車を持たないなど、旧態依然とした生き方をしている方が、時々いらっしゃいます。上の兄は、頑なに携帯電話を持ちませんし、近所の家内の友人も、家に黒電話を置いてるだけなのです。

 それでいて、生活に困ったり、不便を感じていないのです。文明の力に操られないで、人として、ごく自然に生きているわけです。でも、ITとか AIとか言う時代に、だんだん生きにくくなってしまっています。そんな私たちを「アナログ世代」とか言うそうですが、昨日も、家内の通院に付き合い、薬局で投薬を受けました。

 保険証の代わりに、マイナンバーカードで顔認識をされていました。テレビドラマの中にあった、なんだか犯罪者の面通しのように見えたのです。初めての職場は、出社や退社時には、名簿の記入でしたが、その内にカードに変わり、今では、顔認識、眼球認識(虹彩認識: Iris recognition)になっているそうです。何か、人が物扱いされているようで、怖いのです。

 一枚のプラスチックのカードの挿入、さらに眼球認識に目をのぞかれると、個人情報が悪用され、昔、宣教師さんに、終わりの時代に、「世界政府」ができて、そこに全人類の情報が管理されると、聖書研究で聞きましたが、そんな時代の到来なのだろうかと、とても心配で仕方ありません。でも、主のおいでの前触れでもありそうです。

(Christian clip artsのイラスト、ウイキペディアによる眼球です)

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フタリシズカ

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 この花は、「フタリシズカ」と言う花だそうです。呉市の山間部に咲いている様子を写した写真で、昨日送信していただきました。源義経の夫人だった静御前の名に因んで命名されています。「吾妻鏡(あずまかがみ)」に記された故事によるのでしょうか。

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陽の匂いがして

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 ある子どもの頃の光景を覚えています。母が、父と男四人の息子たちの食事の世話を終えると、お釜の底に残ったおこげを、しゃもじでこそぎ落として、お茶を入れ、それを茶碗に注いで、食べていた姿です。十二分に食べさせてくれたのですから、母は、自分の食べるご飯なんか、おかずも同じで、少なかったのでしょう。後片付けのついでに、自分は残り物を食べて、台所に立っていたのです。

 余ったご飯は、清水で洗って、竹ザルにとって、日に干して、保存していました。「糒(ほしいい/干し飯)」と言います。一粒のコメでさえも無駄にしなかったのです。ザルの米を手で掬って、頬張った記憶があります。陽の匂いがして美味しかったのです。

 その家事万端の片付けを終えると、聖書と聖歌を手に、駅裏の教会に出かけて行ったのです。その頃、毎晩、集会があったのです。聖書を学び、祈るためにです。十四で教会に連なり、ずっと信仰を持ち続けていたのです。

 週日は、家族を送り出すと、夢中で子育てをしてくれていた時代には、part-timer などという言い方はなかったのですが、少しでも美味しい滋養のある食事を作って、育ち盛りの子たちに食べさせるために、駅の向こう側の菓子工場で働いてくれていました。

 それで受け取ったお金を手にでしょうか、時々、新宿のデパートに買い物に行っていたそうです。もう私たちが独立した頃になって、母が話してくれました。都会の空気を吸ったり、息抜きにというお出かけだけではなかったようです。確かに、母にも、その変化の時が必要だったのでしょう。

 男の子たちは、母のことなんか考えずに、食欲に任せて満腹になっていたのです。その母が、四十歳になる前に、その通勤時に、交通事故に遭ったのです。早めに学校から家に帰っていた私は、母の事故を聞いて、担ぎ込まれた病院に行ったのです。

 怪我した両足に応急措置をした後に、じっと痛みと闘いながらベンチに横になっていました。手に負えなかったのか、隣町の共済病院に入院するようになりました。重症で、両足の化膿で切断の危ういところにあったのです。それ以降10ヶ月近く入院したままでした。

 兄上の兄は、静岡県の会社の工場にいましたし、次兄は千葉県の運輸関係の会社で働きながら、大学で学んでいました。父は、毎日、野菜スープを作って、私にバスに乗って持って行くように言って、それに、私は従っていたのです。中学生の弟との三人、どうにか交代で家事を手伝いながら、母の入院の間を過ごしたのです。

 弟は学校を出て、寮にある団体に勤務し、ある時から、三男の私だけでした。両親と一番長く過ごしたのは、転職して都内に勤務していた次兄で、父の家に帰って来て、父と母の老後を、義姉とみてくれたのです。家族で一緒にいる時間は短いなと思います。私たちにも四人の子どもがいるのですが、上の息子と次女は、中学を出て、十五で親元を離れましたから、共に過ごした時間は短かかったようです。

 最近、動物の中で、チスイコウモリという蝙蝠の生態を知ったのです。熊やライオンは、子育て中、餌の豊富な時には、子どもたちに餌を分けるのですが、餌の不足の時は、自分だけ食べ、子を死なせることもあるのだそうです。ところが、このコウモリは、食べられない仲間に、餌を分けて上げると言うのです。

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 アフリカ大陸に、ケニヤやタンザニアに居住するマサイ族という種族がいます。この人たちは、身体能力の優れた人たちで、民族の結束力が強固なのだそうです。マサイのお母さんは、『食べ物があるなら、それを一人で食べるのではなく、それを仲間に分かち合うように!』と教え、それをマサイの子は守って生活をしてきたのです。

 この人たちだけが、あの奴隷商人の手から免れて、奴隷に売られることがなかったのだそうです。集団で、行動を合い、集団を守ることを身につけていたからなのです。幼い日に学んだことが、種族を守ったわけです。

 母は、聖書を教えてくれましたし、聖書を買ってくれました。宣教師さんの教会の特別集会があると、よく誘ってくれました。何よりも祈ってくれたのです。子ども頃に、母の両足の間に抱え込まれて、両手で抱いて祈ってくれたのを、昨日のことのように覚えています。

(ウイキペディアによる田植え風景、マサイ族です)

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神を求めて生きる

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『ヱホバかくイスラエルの家に言たまふ。汝ら我を求めよ。さらば生べし。(文語訳聖書 アモス書5章4節)』

 巴波川の浅瀬の流れに、勢いよく飛んで来たかと思うと、水の中を潜って、1、2メートル泳いでる間に、小魚を咥えたのでしょうか、流れから出て、嘴(くちばし)に魚の光る背腹を見せていましたら、たちまち飲み込んでしまったのです。その川鵜の捕食している様子を、先日、巴波川の流れに観ていました。その素早さと、捕食の巧みさに驚かされたのです。

 岐阜県の長良川に行かなくても、川鵜の生態を眺められたのは感謝でした。陸の王者のライオンが、獣を脱兎の勢いで、獣を追い続けて、ついに獲物を獲る様子を思い出したのです。

 自然界、とくに肉食動物の世界は、捕食の世界に違いないのですが、河川から流れ込む海に、プランクトンが養われ、それを小魚が食べ、大きな魚が、それを捕食しながら、命が保たれるサイクルを、創造者が定められたのでしょうか。

 生きていくため、生き抜くためには、この弱肉強食は致し方がないのでしょうか。この川鵜やライオン以上に、人を喰って、人を犠牲にして生きていることの多いのが、この人の世でもあります。人間は、本来、助け合いながら生きてるのだと思いたいのですが、そうではない現実が多くあります。

 『この故に若しキリストによる勸、愛による慰安、御靈の交際、また憐憫と慈悲とあらば、 なんぢら念を同じうし、愛を同じうし、心を合せ、思ふことを一つにして、我が喜悦を充しめよ。(文語訳聖書 ピリピ書2章1-2節)』

 人は、慰められ、憐れみや慈悲を必要としています。それを家族や兄弟姉妹、同信の友、隣人のみなさんとの間で与え合うのです。生きるために、私たちは、助け合いながら、ここまで生きてきました。創造者でいらっしゃる神さまは、人を、そのように造られておいでです。そんな助けがあって、今日まで過ごしてくることができました。

 その上、この私に、《神のいのちで生きる》ことを教えてくれたのが、母でした。と言うよりも、母自身が、そのように生きていたからでもあり、その生きる姿を見続けて、育ててくれた恩恵を、今にして思うのです。

 厳しい星の下に、母は誕生したのですが、両親に愛されて育った自分には、想像することもできない。〈父無し子(ててなしご)〉の現実の中で、父を求めて、本物の父に出会えたのは、何にも増して母には、幸いなことであったわけです。

 聖書が伝える神は、「父なる神」であります。「父性を担われる神」と言うのが的確な表現かも知れません。創造者としての神さまでいらっしゃるからで、自分自身が、この神のみ手によって創造されたことを信じられたです。こんなに優れた人間が、偶然の積み重ねによって作り上げられることってあるでしょうか。

 ベランダの鉢に真っ黒な土を入れ、そこに種を蒔くと、真っ白い花が咲くことに、大人になった今でも驚くのです。赤や黄色やピンクなどの様々な色彩の葉弁をつけた花々が咲く様子に、意図されて造られた創造の美が際立っているのは、一体どこに起因しているのでしょうか。

 さて川鵜は、水中で捕食するだけではなく、隊列を組んで、空を飛翔して、渡りと言う長距離を移動する習性も持っているのです。泳げて飛べるなんて、ちょっと羨ましいものです。しかも仲間の無事を願いながら、先頭飛行を交代しながら行くのだそうです。

(ウイキペディアによる、川鵜の映像です)

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昭和情緒

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 家内が、初めて入院した時に、帰国して、次男の家に居候していたことがありました。GUNZE製の下着を好んで着用していたので、それを買って上げようと、次男に話しましたら、『巣鴨が好いよ!』と言ってくれたのです。

 JR山手線は、池袋より向こうには、あまり出掛けたことがなく、不案内でしたが、東急東横線で渋谷に出て、山手線に乗ったのです。巣鴨駅からしばらく行ったところに、放射線状に行く商店街があって、そこが「巣鴨商店街」なのです。

 昔から、地蔵信仰で参詣客が多くて、その道筋に市が立って、大変ににぎわっていたのだそうです。江戸彼岸桜と大島桜との交配で咲き始めた「染井吉野」で有名で、その桜の発祥地が、「染井」で、この巣鴨の近くなのです。

 その街が、「おばあちゃんの原宿」と呼ばれていると、次男が言っていました。東京の街には、商店街の名所が多くあって、下町情緒のあふれる店が軒を連ねている風情が残されています。それでもスーパーマーケットの勢いに押されながらも、それでも地域に密着した商店街は、商いを続けているようです。

 私たちの住む地域も、昔話を聞きますと、かつては押すな押すなの人で溢れかえっていた商店街だったそうです。江戸、明治、大正、昭和と、時代は変わりながらも、栄えていたのですが、車社会になって、大型スーパーが郊外の沿線道路脇に出店してから、どこの街も、その様相は一変してしまったようです。

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 駅からの道筋に、何軒かの喫茶店が、近所にあって、年配者のお客さんが、コーヒーを飲みながら、昔語りをしておいでなのでしょうか、時を過ごしている様子が、窓ガラス越しに伺えます。

 昨日は、友だちが届けてくれたと言われて、近所のご婦人から美味しいイチゴと新玉ねぎをいただきました。先週末には、お隣の群馬の出身の方が、小玉スイカが届いたと言って、お持ちくださったのです。そんな、《昭和のやりとり》が残されていているのです

 時が静かに流れていき、昔を思い出しながら、共通の思い出を語りながら、ここには交わりが残されています。みんな若い日があり、楽しい思い出も辛い過去もお持ちなのです。それで今があります。その巣鴨商店街で、冷やし中華を食べたのを思い出しました。これも昭和の味覚でしょうか。

(ウイキペディアの巣鴨商店街、冷やし中華です)

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先生

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 明治から大正にかけて活躍した、添田唖然坊という演歌師が歌って、大変人気を得た「のんき節」に、「先生」が歌われています。先生は「偉い」のですが、それよりも、「えらい(『たいへん!』という意味で)」が、甲信地方でおもに使われますが、仕事をしたり、生きたりする大変さで、言うのかも知れません。

學校の先生は えらいもんぢやさうな
えらいから なんでも教へるさうな
教へりや 生徒は無邪氣なもので
それもさうかと 思ふげな
ア ノンキだね

 でも、「好い先生」がいてくれて、柳の若枝のように柔軟な小学生や中学生、高校生や大学生の私を教えてくれた、学校の先生に出会い、教えられて今日があります。

 蛍狩りに出かけて、捕ってきたホタルを、『どうしても担任の先生に見せたい!』と、小学生だった次男が言って、一緒に先生のお宅を訪ねたことが、わが家の子育ての出来事の中にありました。喜んで持っていきましたら、先生は、とても喜んでくれたのです。

 そんな話を、family chat に、先日送信しましたら、自分の担任の先生のことが話題になって、とくに娘たちから、にぎやかな応答があったのです。

 田舎から転校してきた私を、小学校2年の2学期から担任してくださった先生でした。幼稚園も行かず(山奥に住んでいてなかったからですし、入院したりでしたが)、病気がちで登校日数の極めて少なく、井の中の蛙(かわず)の私は、登校した日には、じっとイスに座ることができずに、立ち歩いては同級生にちょっかいを出していました。どうも世間知らずで、しかも多動性の問題児だったのです。

 国語の授業の時でした。教科書の記事の擬音、『ガタカタ、ゴットン!』だったと思うのですが、その音を、『電車の線路の切り替えの分岐する箇所で起きる音です!』と私が答えたのです。それを聞いて、『よく分かったわね!』と、先生は褒めてくれたのです。それから自分が変わったのを覚えています。褒めるって、褒められるって、すごいことなのだと、今でも思い返すのです。

 学校に行き始めて、叱られたり、立たされたこと(いろいろ思い出して、教室の後ろ、廊下、校長室の他に、校庭、自慢ではないのですが林間学校でお寺に泊まった時に、墓のそばの山門に夜中に立たされことまでありました)などばかりなのに、一度だけほめられたことは、大きな生きていく励みになったのです。

 これまで、〈立たされ坊主〉なのに、二度、教師の仕事をさせてもらいました。信じられなかった同級生たちに、『俺が確かめ役に選ばれた!』と言って、学校に訪ねてきたことがあったのです。会ってすぐに、『準、お前、本当に先生やってるんだな!』と、目をマンマルくしていたのです。

 よい先生に出会ったのですが、自分は良い教師ではなかったようです。それでも、恩師の真似をしたことがありました。中国の教室は、掃除が行き届いていなかったので、朝イチに行って、教室の床や机の中のゴミを拾ってゴミ箱に入れ、学生用机や教卓をティッシュペーパーで拭いて、学生さんたちの来るのを待っていました。

 もう一つは、みなさんに挨拶をする時は、中学の三年間、担任をしてくださった先生が、朝礼終礼、授業の初めと終わりに、教段から降りてしておられたのに真似て、それをしたのです。あのようになさった教師は、他にはいませんでした。

 この先生は、先生でありながら、無言で、そんなことを教えてくださったのです。また社会科の授業を担当されて、読むべき本の紹介をホームルームで紹介されたり、どう大人と関わるかなども教えてくれたのです。恋愛のチャンスの捉え方まで教えてくれました。教師になりたいと願っていた私の前に、その機会が開いてくれたのです。

 教会の中で、牧師さんを、『先生!』と読んでいるのですが、私たちの宣教師さんたちは、その呼称を呼ばせなかったのです。ご自分を、ジャック、チャック、ジョージと呼ばれるのを、喜んでいました。偉さではなく、謙遜さで、人は測られ、呼ばれ、関わるのです。キリストのゆえに、罪を赦されて、教会の主に選ばれ、任じられて主の御用に当たっておられた宣教師さんたちは、ご自分のタイトルに、reverend を使われませんでした。

 『じゅんさん』と、牧師さんの孫で、今年小4になったお嬢さんは、私を、そう呼んでくれます。そう呼ばれて、実に、いい気持ちなのです。天国に行ったら、多くの人たちに会うのですが、グレシャム・メイチェン、バクストン、竹森満佐一のみなさんを、きっと〈先生なし〉で呼ぶのではないでしょうか。

 呼ばれたみなさんが、ただ《罪赦された》ことの感謝でいっぱいだから、きっと抵抗なしに聞いて、お互いに感謝し合うのではないでしょうか。

 そういえば、〈信徒訓練〉で、教会では、〈先生〉と呼ばせるのだと言っていた若い伝道者の顔を思い出しています。そう呼ばせて、教会の中で、秩序を保つためだとも言っていました。キリストの教会には、そんな秩序が必要とは驚いたのです。でも、天国で、父や母と再会した時に、『おとうさん!』、『おかあさん!』と呼んでしまいそうで、どう呼びかけるのでしょうか。

(Christian clip artsによる、人に目を明けられたイエスさまです)

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[人]研鑽し合ってきた仲間たち

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同じ伝道者の道に導かれた方たちと、交わりがあって、何度も一緒に集まっては、交流会を持ってきました。「仲間」と呼ぶのがいいのではないかなと思うのです。互いに励まし合いながら、緩い決まりの中での切磋琢磨の交流でした。

 テキサスの街の教会で、定期的に持たれていた “ conference “に、多くの若者がやって来たそうです。日本から戻って、そこで日本宣教の報告を聞いて、啓発されたようです。そこで出会って、同じような vision に立って、学び合い、励まし合った宣教師さんたちが、日本にやって来られたのです。

 みなさんは、大きな宣教団体には属さないで、母教会の応援で、地味に宣教をされておいででした。戦後のしばらくした時期に、来日されて始まった東京の教会で、奉仕をした後に、日本の各地に出掛けて行き、福音宣教をされたみなさんだったのです。ヨーロッパから来られた宣教師さんも、その交わりの中に加えられていたのです。

 各地に建て上げられていった教会で献身し、または、その宣教師さんたちを慕ってやって来られて、献身したみなさんが、長く交わりを続けてきていました。そに他には、宣教師さんのご子息たちもおいででした。宣教師さんたちの母教会の牧師さんたちや、神学校や聖書学校の教師のみなさんが、よく訪ねて来られると、seminar が開かれ、主の務めを志した方たちが集っていた、素晴らしい交流会だったのです。

 そう言ったみさんと研鑽し合いながら、自分も挑戦されながら歩んできました。ある時、その宣教師さんの中のお一人が、『あなたがたmatureな働き人は、自分の城を築き上げるのではなく、若い兄弟に務めを任せて、新しい地に出て行きなさい!』と言われたのです。

 自分が、宣教師さんたちと同じような奉仕ができるなどとは思いませんでしたが、教会の主が、導いてくださって、私と家内も隣国に出かけて行ったのです。そこへの門戸が、目の前に開かれたわけです。一般社会では定年年齢の六十になってからでしたが、これ以前に出て行こうとすると、怪我をしてしまったり、様々な必要があって行けず仕舞いだったのです。

 大きな怪我をし、手術をした後でしたが、2006年に、ある団体で、隣国で奉仕された方の勧めもあって、出掛けますと、そこで出会いがあって、道が開かれて行ったのです。結局十三年間、そこにいさせていただいて、家内が病んだ段階で帰国したのです。

 それから時が過ぎて、6年目になりました。宣教師さん方は、主の元に帰られ、一緒に交わった兄は引退をしたりで、あの交わりから疎遠になってしまい、思い出ばかりになってしまいました。個人的には、ある方と交わりは続いていますが、一緒に学び合い、話し合ったりした日々が懐かしいのです。

 教会の主が、出会わせてくださった交わりであって、人が作り出したものではなかったと思うのです。編み物の横糸と縦糸が編み合わされるようにされた交わりだったのでしょうか。時が過ぎ、歳を重ね、健康状態も変化し、様々の要因で、その交わりも変化するのでしょうか。どうしても人として寂しさを託(かこ)つ今日この頃であります。

(  Christian clip arts のイラストです)

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初夏の道端で

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 「万葉集」に、

浅みどり 染めかけたりと 見るまでに 春のやなぎは 芽(も)えにけるかも

とあります。

 「浅緑」が芽生えていく様子を、そう詠んだのです。晩春の季語の柳ですが、「立夏(五月五日)過ぎの今は、もう夏なのでしょう。散歩道の川に流れ込む池の淵に、芽吹きの時期は過ぎてしまいましたが、この柳の木があります。万葉人の感性に驚かされ、鳥の鳴く根も、芽え出る若芽や若葉に感動したように、自分の心にも、その感動が残っているを感じて、春をほめたたえ、夏を歓迎する今であります。

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[街]清里

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 信州と甲州の境に「八ヶ岳」があって、その南麓に、「清里」という高原があります。70年代から90年代にかけて、若い女性誌の “ an-an “ や “ non-no ” に特集されて、脚光を浴び、とくに若い女性で大変賑わっていたのです。JR小海線の清里駅の周辺には、芸能人の店などが出店して、春や夏や秋、冬でさえも、大変な賑わいを見せていました。

 それは “ boom ” でした。まるで『高原の原宿だ!』と称されるほどだったのです。その80年代、バブル期の社会現象でした。この周辺の公的施設で、牧師会や教会学校の夏季キャンプ、ハイキングなどを、よくしたのです。

 ここに「清泉寮」を中心に、農場、研修所、宿泊施設などがあります。「キープ協会(Kiyosato Educational(清里教育実験計画)の頭文字 )」が、1938年に開設されたのです。これに先立つ1934年には、東京の奥多摩に、小河内ダムが建設されるに当たって、そこの住民が、集団で移住して入植した地でもあったのです。

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 戦後の日本の酪農業を牽引し、この地に若者たちを集めて、研修が行われたのです。その清泉寮の近くにキープ教会の記念館があり、開設に力を注いだポール・ラッシュの過ごした家も残されていて、一般公開されています。そこには、農業開拓史の様子が分かる資料も残されているのです。冬季の生活は、ことのほか厳しかったようです。

 私を指導してくれた宣教師さんが、この清泉寮の売店で売られている soft cream が好きで、これを食べていた姿が懐かしく思い出されます。American taste だったのでしょうね、大好物で、一緒に訪ねるたびに、ダブルで食べていたこともありました。

 家内は、この近くの宿泊施設に、二人の上の子と、お腹の中の赤ちゃん(次女です)とで、ちょっと内々の事情ででしょうか、内緒で出掛けたことがあって、そこで泊まったのです。翌日は、気を治して帰って来て安心した日もありました。その子たちが、もう五十代前後になっているのですが、わが家の珍歴史の一ページであります。

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 その清里が、ゴースト・タウン化して、多くの年月が過ぎています。日本中で、一時期の繁栄を見せた街、温泉街、観光地が、以前の姿に戻っているのです。栄枯盛衰、きっと今住む、ここ日光例幣使街道の栃木宿、江戸を結ぶ舟運の河岸で栄えた商業の街も、われわれ世代の年配者の多く住む町になって、静かな佇まいを見せています。子どもたちの姿が見られないのが寂しいのですが、静かに住むには快適なのです。

 もうしばらく訪ねていない清里ですが、中国から帰国した時に、一度、懐かしくて,家内と一緒に清泉寮に一泊したことがありました。学校の冬休みでした。それにしても、あのソフトクリームは、実に美味しかったのです。もう一度、思い出しならら頬張ってみたいものです。

(ウイキペディアの清里の街風景、清泉寮、ソフトクリームです)

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