ブラジル移民

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 移民してきた外来者に、ブラジル人が言った言葉が記録されているようです。『ドイツ人は3人集まると教会を建てる!』、日本人は何を建てたのかと言いますと、「学校」だったそうです。信仰と教育、人となるために必要なことなのでしょう。ドイツ人の場合は、教会が、教育を担っていましたから、教育と信仰は一つであったわけです。

 「日本力行(りっこう)会」という団体があります。農家の次男や三男が生きていくために、注目される働きをしてきています。貧しいけれど、向学心のある子弟のための教育支援事業を行ってきているのです。学校紹介、学費の援助、またアルバイトの斡旋などもしていました。1897年(明治30年)年に、牧師・島貫兵太夫によって、東京神田に開設されています。

 この島貫兵太夫は、仙台藩の下級武士の子で、維新後は、農業に従事した父に育てられますが、貧しくて、小学校で学ぶことができないままでいました。島貫は一念発起、14歳の時に学び始めると優秀で、卒業時には首席でした。小学校の助教になり、訓導の資格も取得します。キリスト教に反対でしたが、聖書を学ぶ内に基督者となり、仙台神学校(東北学院大学)で学ぶのです。

 救世軍の伝道をし始めますが、貧しい人たちや苦学する学生たちへの思いが強くなり、そう言った思いから、貧民救済の働きを始めるのです。そして「苦学力行」という言葉から、「力行会」を建て上げるのです。その働きが発展的に、アメリカやカナダ、そしてキューバやブラジルやアルゼンチンなどへ、国内の貧しい若者たちや家族を海外移民させる働きもしてきました。

 ブラジル移民ですが、最初の移民船がブラジルの海の玄関、サントス港に、781名が笠戸丸で着いたのが、19086月でした。それ以前に、五人の方(通訳地世話をした人たちです)が前もって調査や政府との交渉にために渡航していて、移民のみなさんを迎えています。コーヒーの栽培での成功を約束されていましたが、開墾から始め、それは重労働で、まるで奴隷のようだったそうです。

 1950年代の終わりに、家内の兄が、高校を終えてすぐに、ブラジルに移民をしています。日本で約束されたことが、現地とは食い違っていて、随分と苦労をしています。同行の仲間の自死があって、埋葬のために泣きながら土を掘ったと聞きました。アルゼンチンに行きました帰りに、サンパウロに、義兄を訪ねた時に聞いたのです。農業移民でしたが、自分で事業を興して、家族を養い、子どもたちに教育を受けさせ、立派に働きを確立していました。

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 私の訪問時に、日本のリンゴを栽培して、大成功を収めた、義兄の親友とお会いしました。3人の子をつれて、離婚されたお母さんは移民に応募したそうです。辛苦の末、リンゴ栽培を始め、その貯蔵施設を作って、出庫調整をしておられ、美味しい「ふじ」を一箱届けてくださったのです。義弟ということで、街の大きなレストランで、大判振る舞いを私にためにしてくれました。サントス港に別荘を持っていて、次回訪問時にはお連れしたいと言ってくれました。

 移民の成功者は一部で、サンパウロのリベルダージに、日本人街がありましたが、一世のお年寄りが、地下鉄の駅の前のベンチや石垣に座って、日向ぼっこをしているのを見かけました。みなさん、深いシワを顔に刻んで、ご苦労をされてきて、お子さんたちを育て上げて、移民仲間と談笑しながら、老後を過ごしていたのが印象的でした。

 ブラジルで飲んだコーヒーは、とても濃くて、たっぷりな砂糖を加えて、チビチビと飲まれるので、American に馴染んできた自分には、違った飲み物のように感じられたのです。espresso でしょうか、苦くて甘い、移民の歴史のような味でした。美味しいコーヒーは、ほとんどが日本向けに輸出されるのだそうです。

 義姉に、青空 market に連れて行ったいただいた時に、一世のお婆さんにお会いしましたが、とても寂しそうだったのを覚えています。ポルトガル語を話す孫やひ孫と、日本語で会話ができないからでした。長い異国での苦労が、お顔に滲み出ていました。

 (移民船笠戸丸、最初の移民の集合写真、サントス港です)

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宮城県

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 小学校一年、中耳炎になって、住んでいた街の耳鼻科にかかりました。あんなに痛かったことは初めてでした。あれ以来、時々中耳炎が起こり、何度も耳鼻科通いをしてきました。『仙台に、鼓膜再生で腕の確かな医師がいる!』と、あるblogger が教えてくれたのです。その人に連絡して、どこの医者かを聞いたのです。

 度重なる中耳炎と、教師をしていた時に、生徒とバレーをしていて、右耳にボールを当ててしまって、鼓膜を損傷してしまったのです。そんな経過があって、「杜(もり)の都」の玄関口・仙台駅で地下鉄に乗り換えて、そのお医者さんを訪ねました。もちろん前もって連絡をしてありましたので、左右両方の鼓膜再生手術は無事終わり、2日後には退院、帰宅できたのです。

 そんなことが、仙台と宮城県との自分との関わりとなりました。退院した日に、碧眼の将・伊達政宗の居城の青葉城(仙台城)を訪ねました。市内遊覧バスに乗ってでした。城壁しか残されてありませんが、ここから、ローマを中心に、当時のヨーロッパに使節団(慶長遣欧使節団)が訪ねたことを学んでいましたので、ことのほか興味がありました。

 慶長18年(16131028日)に、その遣欧船は、石巻の港から出帆しています。支倉常長(はぜくら)が団長で、実際はアメリカ大陸のメキシコに上陸し、そこから太西洋を航行して、1615130日に、スペイン国王に謁見しています。そして1620年に帰国したのです。それ以降は、キリシタン禁制、鎖国政策で、日本は内に籠ってしまうのです。

 石巻は、東北地方で有数な漁港で、10年前の東日本大震災の折には被災して、多くの犠牲者を出しています。津波が、北上川を遡上していく様子が、ヘリコプターから中継されていて、驚きのうちに、その映像をテレビで見たことがありました。下る川の勢いではなく、逆流する水の力の強大さに息を呑んだのです。

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 この仙台に、東北学院があって、進学を考えましたが、学びたい学科がありませんでしたので諦めました。また、今の東北大学医学部の前身の仙台医学専門学校がありました。そこで、中国の紹興の人、魯迅が学んでいます。魯迅の影響でしょうか、今でも東北大学には、中国からの留学生が、千二百人もいるそうです。私の教え子も、ここに留学していました。

 仙台は、伊達政宗が街作りをしていますが、特異な街作りをしていて、調べてみると興味深いものがありそうです。どなたであったか忘れましたが、この街を探索して、テレビの番組で comment しておいででした。

 宮城県は、現在、228万人の人口で、ほぼ半数の102万人が仙台市民です。最も有名な観光地は、「松島」でしょうか。芭蕉が訪ねて、感無量だったようです。

 『抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。』

と、書き残しています。中国一の景観と言われる、杜甫が「岳陽楼に登る」で詠んだ湖南省の「洞庭湖」、白居易(はっきょい)が詩に取り上げた浙江省杭p州市の「西湖」に比肩するほどの名称が、この松島なのだと言うのです。芭蕉は自分の足で、大陸を訪れたことはありませんでしたが、伝え聞いていたのでしょう。

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 私たちが住んでいた華南の街にも、人造池の「西湖」がありましたが、多くの街に作って、そう呼ぶ池があるほど美しく、有名な湖のようです。

 芭蕉は、自分では俳句を詠むことはしませんで、同行の曾良が詠んだ俳句が有名です。

  松島や鶴に身をかれほととぎす

 ここ栃木市にある大平山からの眼下の眺めが、まるで「松島」のように思えたと言う、上杉謙信の故事から、実に美しいと言われて、「陸の松島」と呼ばれています。そう見えなくはないのですが、実際の松島に行ったことがないので、「謙信平」から見下ろす風景で、想像する以外になさそうです。

 どうして名物になったのか、「牛タン」が美味しいと言われて、入院した帰りに、お土産に買って帰ってしまいました。そのほかに「笹かま」も美味しいのですが、ただ化学調味料の旨味が強くて、自然のままのかまぼこを食べてみたくなりました。

 (石巻にある遣欧船の復元船、復興なった女川町、ミヤギノハギです)

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hug

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 日本社会の上下関係、主従関係の典型的な姿が、この写真に違いありません。織田、豊臣、徳川の時代ではなく、令和になって、まだこんな写真を見て、日本って根本的には、まったく変わっていないのだと言うことが分かります。

 江戸時代の狂歌に、「織田が搗(ひ)き 羽柴が捏(こ)ねし天下餅 座りしままに食うは徳川信長」がありました。信長の性急ぶり、秀吉の学歴や家柄の劣等感ぶり、家康の冷淡ぶり、いえ、この三人はみな、同じような〈ぶり〉の専制者だったかも知れません。総理大臣というのは、王様ではなく、国民に serve する、公僕の頭であります。

 政府の大臣のみなさんが、首相の前に、低頭している様子は、尊敬よりも、何か上下関係が露わで、好きになれません。欧米だったら握手、21世紀の日本でも、握手でいいのではないでしょうか。相手の体温が伝わってきて、平身低頭するよりは、友好的な挨拶になるのではないでしょうか。そうしないで慇懃な顔をして、それを受けている旧態依然さが、気になります。

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 私は、アメリカ人宣教師と8年間、この方から多くを学んで、共に働きました。この方は、ご自分を「先生」と呼ばせませんでした。母教会を開拓された方も、「Jack さん」と呼ばれるのを喜んでいました。もちろん教会は上下関係ではなく、友愛の横関係であって、互いが、赦された罪人同士で、兄弟姉妹なのであって、握手やhug をし合うのです。

 何かの落度があって、ビンタをされた若い方が、『牧師先生は僕を愛してくださっているからだ!』と思ったそうです。彼は、お父さんから関心を寄せられなかったのでしょうか、父的なものを、その暴力で感じてしまったのです、そう思わせたなら、ビンタした者は牧者ではなく、相当なおまけをして言っても調教師、訓練士、そう愚か者ではないでしょうか。オリンピックでしたか、馬術で、走らない馬の横っ面を殴ったことが、大きな騒ぎになっていました。馬だって愛は感じなかったに違いありません。

 いやー、教会の中に鉄拳や平手がとんでしまうとしたら、それは日本の旧軍隊やタコ部屋、さもなければ博徒の集団に間違われそうでなりません。平和と赦しや和解の世界にあってはいけないことが、かつての一部の教会では、弟子訓練の名で、まことしやかに行われていました。まさに愚の骨頂です。まさか今はないでしょうね。

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 それは日本精神、上位下逹の慣行が、愛にすり替わって入り込んでしまっています。私は中学の運動部で、鉄拳制裁を、教師や上級生、OBから受けたことが何度かあります。〈ヤキを入れる〉、〈制裁〉、〈連帯責任〉ででした。今は人権問題になってしまいますから、ないと信じています。

 弟子のペテロが、剣を抜いて、耳を切り落とした記事が聖書の中に出てきます。血気盛んなとか、若気の至りとか、正義感からとか言って、その行為を弁護できるでしょうか。イエスさまは、ペテロの剣を収めさせて、耳を治されています。「平和の君」でいらっしゃるからです。

 今度の首相には、顔を見合わせ、微笑みながら、ねぎらい合いながら、歓迎し合いながら、hug や握手をして欲しいのです。できるかなの十月です。

 好い指導者を私たちは願うのですが、私たちも好き国民、部下、学生でなくてはなりません。

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登山

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 先週の土曜日は、散歩で登山してきました。市内が標高40m、その錦着山は80mですから〈40m登山〉でした。山の西側には、永野川が流れていて、この地の歴史は、川の氾濫が繰り返されたようです。

 その防護堤の工事に、尽力した市長さんの顕彰碑と胸像が、この山の頂きにありました。この街(村)でも、梅雨や台風の時期の川の増水で、洪水になったり氾濫があって、農業に痛手を被っていたのでしょう。一昨年秋の19号台風の洪水で、罹災した経験から、川の容量を超えるほどの雨とは、どんなに護岸工事が近代化した技術で作られても、耐えられないのでしょう。

 今年から、五カ年計画ででしょうか、一昨年、決壊した散歩道の脇を流れる永野川の護岸工事が行われています。江戸時代、どこの藩でも、護岸工事は一大 project だったようです。好い為政者は、そのために尽力したそうです。自然は、近代社会にも容赦なく〈シッペ返し〉をしてくるようです。

 自然を破壊してきた人間が、刈り取っていることなのでしょう。もう何年も《共生》が言われてきていますが、乱開発、自然の秩序の破壊、もう壊れ切ってしまったのでしょう。江戸時代にたびたび発生した飢饉ですが、近年、私たちの国では起きていません。異常気象が続いているのに、最近では米の凶作などの話を聞きません。

 米に頼らない食習慣に変わったからでしょうか。それとも私たちの国では、輸入に頼り切っているので、食糧不足に悩まないのかも知れません。でも、学んだ日本史を思い出すと、江戸時代の凶作、飢饉、米騒動など、生まれてこの方、中国や北朝鮮、アフリカなどから聞くだけで、とんと聞きません。

 輸入先の生産国も、冷害や大雨によって田畑が流されて、穀物や野菜や果物の生産が不足することもあり得ます。山の上から自分の街を見下ろして、やはり農業が盛んにすること、後継者を育てることが必要なのでしょう。お金になる近郊農業、園芸だけではなく、基幹作物の生産を上げていく必要を感じています。

 でも、今後、こんなに自然が狂い始めてきていますから、天候不順、日照不足で、農作物が実らない年がありそうです。大雨も、暴風も、竜巻も、いまや人の所業の結果です。世界中で、森林面積が激減し、砂漠化は由々しき問題なのですが、専門家は警告していても、物で満ち足りた、この時代の私たちは関心さえ示さないのが、問題なのかも知れません。
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月空星空

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 昨日の夕方7時頃の南の夕空に、月と星が見えました。この写真には映っていない、もう一つの星が月の右に、微かに見えたのです。iPad の撮影ではとらえられませんせした。その二つの星のどちらかが「土星」なのだそうです。天体望遠鏡があったら観たかったと思うこと仕切りでした。秋の夜空は幽玄で、趣があります。多分観る気持ちが、そう言った気分にされるからでしょうか。

 南宋の蘇軾は、「赤壁賦」を詠んだのですが、性格が豪放であったそうで、たびたび人生の危機、政治的な憂き目に直面するのですが、楽天家でしたので、くよくよしないで、夜空を見上げて月や星を、鋭い感性で詠み上げた詩人でした。

 『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。(詩篇836節)』

 夜空を見上げると、邪心が洗われるような思いにされ、創造の世界に引き込まれていきます。創造の神は、無限の星の一つ一つに、名をつけ、その名を呼ばれるお方です。「ウエストミンスター小教理問答」に、『神とは、どんな方ですか?』の答えに、『神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。』とあります。

神さまは、まさに《無限》、《永遠》、《不変》です。

※ 写真を Click すると、左上に星が映り込んでいます!

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コスモス

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 散歩道の脇に池があります。先週も、総合運動公園への道を、少し course に変化をもたせて、警察署の脇にある池で、一人の釣り人が竿を垂れて、水面を眺めていました。ああやって魚がかかるのを待つのも、老いの生き方の一つなのかと思うのですが、一所に座り込んで、半日を過ごすよりは、川辺や庭先に咲く、季節の花を眺めながら、歩く方が良さそうです。

 3週間ほど前からは、コスモスが目立って、どこにも咲いています。もうずっと前のことですが、子どもたちが帰郷した時に、〈コスモス街道で満開!〉というnews を聞いていたので、ちょっと距離があったのですが、みんなを誘って、その街道に出かけたたことがありました。

 秋の信州は、生まれ故郷に似て好きで、時々出かけたのです。その日、「コスモス街道」に着きましたら、三つほどの畑に、コスモスが咲いていました。延々と街道沿いに咲き誇っているように期待したのですが、一郭に植えられてあっただけで、あっさりしていました。そこにテントが張られて、私たちのように、コスモス目当てに来た観光客に、食べ物が提供されたていたのです。

 コスモスへの期待は裏切られたのですが、時あたかも《食欲の秋》でもありましたし、朝食もそこそこ食べただけでしたから、その地の農家のみなさんの炊き出しで、みんなでお昼をいただくことができたのです。子どもの頃に通学路の脇に咲いていたコスモスと同じ、淡いピンクの花は歓迎してくれていました。

 この花は、赤道間近の中米が原産で、スペインに持ち帰られてから、世界中に種子が広く行き渡り、日本には、明治12年(1890年)にやってきたのだそうです。ギリシャ語の κόσμος (調和、秩序、宇宙といった意味です)を、「秋桜」と書いて、コスモスと読ますのですが、こういった当て字を、当てた方は、感性が豊かだったのでしょう。

 洪水にあう前に住んでいた家の庭に、種を蒔いて、コスモスの花が咲き始めましたら、それを見た小朋友のお嬢さんが、家に来るたびに、その花を欲しがったのです。家内は刈って、柔らかな紙に包んであげていました。さあ花を愛でる心が、大きくなあーれ!

(散歩道に咲いていた路傍のコスモスです)

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山形県

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 戦時中、自分が生まれる前に、両親と兄たちは、山形にいたようです。鉱山関係の仕事をしていた関係でです。父は、戦時中のことについて、子どもの私たちには、ほとんど話しませんでした。国策の仕事に従事した人たちや軍関係者は、戦時下のことに口をつぐんでいたのです。父然りでしょうか。ですから憶測する以外にありません。

 この県も訪ねたり、旅行をしたことはありませんが、学校の同級生が、この県(本庄市)の出身で、机を並べて一緒に学びました。穏やかな性格の人で、自分とは違ったものを持って生きていました。何度か手紙のやりとりのまま今になってしまっています。

 山形県には、江戸期には、鉱山があったそうで、金や銅などの採掘が行われていたそうです。父が戦時中に働いていた軍需工場の会社名が分かっていますので、戦前、戦時中に操業していたのは、山形県下で2箇所ほどありました。きっと、そのどちらかの鉱山で仕事をし、戦火が激しくなった段階で、国策事業の従事で、鉱石の増産のために中部山岳の現場を任され、赴任したようです。

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 この山形県は、芭蕉が歩いていまして、ここには芭蕉の弟子が多かったそうで、芭蕉を囲んで句会が多く開かれたようです。芭蕉自身も旅の途上で、多くの俳句を読んでいます。最上川の大石田を訪ねた時には、次のように詠んでいます。

 五月雨を集めめて涼し最上川(五月雨を集めて早し最上川)

 芭蕉が訪ねた大石田と言う村は、私たちが今、住んでいる家の横を流れる巴波川と同じ「舟運」が盛んで、その「河岸(かし)」があって、賑わっていたそうです。最上川の流れを利して、同じように物資の輸送が行われていたそうです。北前船が運ぶ荷を、酒田の港で、小型の舟に載せ替えて、最上川を登って、新庄、米沢と物資を運んでいたのです。下りは、米や紅花や青苧や大豆などが、京都や大阪、年貢米は江戸にまで運ばれたそうです。

 江戸期から明治まで、日本中で、河川を利用した舟運が盛んでした。在華中、友人が誘ってくださって、ユネスコの世界遺産である「武威山(wuyishan)」に行った時に、竹で作られた筏で、川下りをしたことがありました。船頭さんは、竹の竿を流れに竿さして、巧みに操ってくれたのです。日本の川と違って、流れが緩やかなので、悠長に流れる中を、静か下ったのです。船頭さんに、舟運について質問しておけばよかったと悔やんでいます。

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 芭蕉も、大石田から、川を利用して降ったのでしょうか。「出羽三山」と言われる羽黒山、月山、湯殿山が有名です。また米沢は、名君と謳われた上杉鷹山(治憲)の城下町でした。名君の葬儀が行われた時には、その死を悼む領民の葬列が、延々と続いていたほどだったと聞き、どれほど慕われていたかが分かりました。

 この山形県には、「飛島(とびしま)」という島嶼部があるそうで、今や人気の移住地になっているのです。漁業の行われる島だそうで、人気の観光地となっているのです。観光と住むこととは分けなければなりませんが、いくら美しい島でも、生活が成り立たなければ意味がありませんね。

 古来、紅花染が行われています。中近東原産の紅花が、日本には、3世紀ごろに入ってきて、栽培が徐々に盛んに行われてきています。山形では室町時代の終わり頃に植え付けが始まって、栄えていきました。芭蕉も訪ねている大石田は、この紅花の集積地だったようです。

 県人口が、100万人ほどの県ですが、政治家の緒方竹虎、法学者の我妻栄、軍人の石原莞爾、写真家の土門拳、作家の藤沢周平、歌人で医師の佐藤茂吉などの方々が世に出ています。

 口は重いのですが、勢いを得ると一気に話すような感じです。東北人は、訛りが強いので、話す時、それが出ないように、一瞬戸惑うのでしょうか。最上川は、NHK連続テレビ小説「おしん」の舞台でもありました。おしんが船頭の漕ぐ舟で、家を離れる場面には泣かされました。

(庄内平野の鳥海山、大石田付近の最上川、紅花染です)

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魅力度?

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 「地域ブランド調査2021」の enquête(アンケート)結果から、47都道府県の魅力度ランキングの結果が出ています。父と母の生まれ育った県、生まれた県、育った県、働いた県、老後を過ごしてる県、行きたい県、住んでみたい県など、様々です。それぞれに思い出や、肝入りがあっていいので、魅力度を図って、ranking を決めてしまうのに、賛成しかねます。

 満遍なく訪ね、そこに住む人々に接して、長い生活の跡を見てからでなくては、何も言えないのではないかと思うのです。北海道から始めて、沖縄まで、思うことを記してみたくて、ブログの題材に取り上げていますが、前回最下位の栃木県に住み始めて3年近くになりますが、生まれた県、育った東京よりも、《身の丈に見合った生活》を楽しみ、感謝することができて、家内と二人にとっては、とても魅力ある県なのです。

今回最下位の茨城県、隣の県です。子育て中に、海の家に行きました。じつに楽しいひと時を過ぎしたのです。弟の教え子の経営する海浜のホテルに、泊めていただき、海の幸で溢れるほどのおもてなしを受けたことがありました。東日本大震災の後でした。そのホテルも津波で被災していました。じつに素敵な思い出があります。水戸の偕楽園のお土産を、水戸出身の方から何度かいただき、ほっぺが落ちるほど美味しかったのです。

群馬県も、明治の興業期の富岡製糸場があって、日本近代化を牽引したのを忘れてはなりません。今夏、水上で2日間過ごしたのですが、自然は美しいし、人は親切ですし、食べ物も美味しかったのです。埼玉県民であったこともあります。日本有数の古墳群の「さきたま古墳」があり、日本の歴史の中では重要な学問的な価値を持っています。親切で、垢抜けた人が多い県なのです。島根鳥取、コロナ感染者が少ない県でしたし、母は出雲今市小町でした。近県隣県、どこも素敵です。ranking に惑わされずに、魅力を発揮して欲しいものです。どこの県にも、素晴らしい優点や歴史や営みがあります。

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岩手県

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 今日は、岩手県について記そうと思いますが、先ずを。長野県の南信、南アルプスの山際に、大鹿村があります。長野県では二番目に山奥に位置する村だそうで、人口907人(202191日現在)で、林業の村です。この村は、「榑木(くれき)」という屋根材になる木材を産出してきて、江戸期には〈年貢〉として納めていたそうです。村は財政的に豊かだったので、文化的な活動の「村歌舞伎」が行えるほどだったそうです。映画化もされていました。

 次女の夫が、飯田市付近の県立高校の英語教師をしていた時、誘われて「大鹿歌舞伎」を観劇したことがありました。この大鹿歌舞伎は、1767(明和4)年にはすでに上演されていたそうで、私たちが見たのは、歌舞伎の定番、「藤原伝授手習鏡〜寺小屋の段〜」の演目でした。

 主君のために、家臣の子が犠牲になって死んでいくと言う、じつに悲しい内容でした。でも、〈田舎芝居侮るなかれ〉、素晴らしかったのです。村人に真似て〈投げ銭〉をして、歌舞伎観劇気分にひたり、景気付けをしたのです。観終わって、『武士とは難儀な身分だ!』と強烈に思わされたのでした。

 日本人の精神的な支柱こそが、「武士道」だと、新渡戸稲造が、本を著しました。1890年に、アメリカのフィラデルフィアの出版社から英文で出版されました。『愛、雅量、他者への情愛、同情、憐れみは、常に至高の特として、すなわち人間の魂の性質中、最高のものとみられてきた・・・』と、武士道の本質がどこにあるか、心の中にあることを示したのです。この人は、盛岡南部藩の武士の家に生まれています。札幌農学校に学び、東京帝国大学に進学し、アメリカのジョンズ・ポプキン大学を卒えています。

 札幌時代に基督信仰を持ち、人が変わって穏やかな人にされたそうです。生涯、信仰を堅持しました。国際連盟の事務局次長を務め、第一高等学校、東京女子大学、東京文化経済専門学校の学長を務めました。彼のような真の国際人を、岩手県は産んだのです。

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 岩手は「ニッポンのチベット」と言われていました。山が多くて、貧しい県だったからです。でも素晴らしい人材を、日本や世界に輩出してきた県なのです。今日日、大活躍をしている大リーグの大谷翔平が、県下の花巻市から出ています。その play が、孫のように気になり、一喜一憂してしまった一年でした。

 「雨にも負けず」の宮沢賢治を、岩手は産んでいます。彼の生涯で出会った一人に、花巻の人、斎藤宗次郎がいます。この二人の間には、友情関係あって、賢治の勤め先の農学校を訪ね、一緒に蓄音器でレコードの音楽を聞いたり談笑していたそうです。禅宗の仏門に生まれた人でしたが、聖書を読み始め、内村鑑三の著した「キリスト信徒の慰め」を読んで、痛く感動し、内村の言う《非戦論》に共鳴して、納税拒否や兵役拒否をして、官憲から mark されていました。

  岩手師範を出て、小学校の教師をしていましたが、彼の主義主張のゆえに失職してしまいます。それで、新聞配達をしながら生きていくのです。教え子や近隣の人々に支持され、慕われたそうです。やがて内村鑑三のもとに行き、弟子として仕え、内村の最後を看取った弟子でした。しっかりとした子育てをした方と言われています。彼の基督信仰はハガネのように強固でした。

 政界、実業界、教育界、官界、有名無名の素晴らしい人材を、岩手県は産んでいます。小学校の事業で、リアス式海岸を学んだのですが、ノコギリのようなギザヒザな岩手県の海岸線に行って見たかったのですが、いまだに、その願いは叶えられずにいます。寡黙で辛抱強い県民性が言われていますが、地勢や気候によって、人間は強く影響を受けるのでしょう。消極的だと言われますが、行動派の人も多くいるようです。東北人、好きです。

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政(まつりごと)

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歴上の人物は、小説に描かれる時に、ずいぶん脚色されて、つまり作者の思い入れが強くなって「実像」からかけ離れてしまって、「虚像」が描かれるのです。読者へのもてなし、ご機嫌取りなのです。幕末に活躍した坂本龍馬も、土方歳三も、司馬遼太郎が描いたのですが、やはり小説龍馬、小説歳三になってしまっています。

私の同級生に、土方くんがいました。武士以外が、苗字が許されたのが、明治になってからであって、その時に作り出された姓が、多くの人の私たちが使っている物です。山奥から東京の郊外に越してきて、土木工事に携わる力仕事人を「ドカタ」と読んできていますが、それを〈ヒジカタ〉と読む「土方」には、驚かされました。” Dokator “ なら格好いいのですが、『♭ 朝の四時半だ、ベント箱下げて家を出て行く土方の大将 ♯』と言う戯れ歌を、歌ってた小学生の私には、おかしかったのです。

この土方歳三は、江戸から離れた、多摩川と浅川の間に位置する石田村の出身で、裕福な農家に生まれたそうです。喧嘩が強く、利発だったそうです。家は、「石田散薬」を製造して販売していたので、青年期には、これを背に担いで行商をしていたそうです。時間があると剣術の稽古に励んで、天然理心流の腕達者だったのは事実です。

栃木県下の壬生の城下の剣術道場で、腕自慢の萩藩士の高杉晋作が、壬生剣士に打ち負かされて、一本も取れなかったと言う実話を聞き、土方歳三と戦う機会があったら、どちらが強かっただろうかといらぬ心配をしてしまいます。

幕末の京都の防備のために結成された新撰組の副長として、幕府側の任務に当たったのです。美男子だったそうで、洋装の写真が残されています。時代の流れに抗することができず。蝦夷の地、函館まで転戦して行っています。途中、宇都宮では、負った怪我の治療のために停留していたそうです。

2017年の秋に、函館を訪ねた時に、五稜郭前で、市電を降りて人を訪ねたことがありました。函館戦争の激戦地だったのですが、その雰囲気は全くしない、平和な佇まいでした。土方歳三は、任務に忠実で、部下思いの指導者であったそうです。激戦の末に、戦死して行きます。百姓の子が、旗本になる夢を追いかけて、34年の生涯を終えています。

激変していく時代の只中で、多くの若者が、主義のために、任務にために散って行ったのです。歴史とは面白いもので、今回の指名で、岸田文雄氏が、第100代の内閣総理大臣となりましたが、第1代は伊藤博文でした。この人が選ばれた理由が、然るべく就任を期待された逸材が、担うべき器が、みな騒乱の中で、また病気で死んでいなかったから、と聞いた時、人や国家の歴史、人の選出とは実に不思議で、面白おかしいものを感じてしまうのです。

多くの人が願い、期待する人物が選ばれずに、消えていくのですが、これは時の運では片付かないものがあります。「公明正大」、「謙遜」な人ではなく、人や組織の思惑で選ばれるのは、釈然としません。いつでも同じなのですが、でも私の個人的な願いは、

『主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6章8節)』の聖書を体現できる人なのです。

そして新しい、政治指導者のために、私ができることがあります。『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(1テモテ2章1節)』、神を恐れて政(まつりごと)をしてくださるように、神の祝福を願い、知恵と判断力とを、神が指導者にくださるように祈ることです。

(“goodday hokkaido ” の函館五稜郭です)

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