Morning Gloly

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 ” Morning Gloly “ 、天に向かって、終わりの時季の夏の花が咲いています。俳句に季語で、「秋」なのが不思議でなりません。ベランダの朝顔は、葉は黄ばんで、落ち葉を見せていますが、花はしぶとく咲き続けているのです。先ほど、茨城北部を震源地とする、震度3の地震がありました。『地震だってあるんだ!』と、自己アピールをしてる様です。北関東の風は、冷たさを含んで、昼過ぎは雨になるのでしょうか。

 好い一周であります様に!

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詫び状

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 以前、一人のお母さんが、わが家に来られて、こんな話をされていました。ご主人は穏やかで、慌てたりしないのだそうです。ところが彼女は、その反対なのだそうで、どうしてもご主人に、厳しく要求をしてしまうのだそうです。ある時、彼女は、ちょっと怒りを、ご主人にぶつけた様です。その様子を見ていた小学生の息子さんに、『怒りを遅くする者は勇士に勝る、んだね!』と言われて、彼女は<ギャフン>とされたのだそうです。

 わが家は、この家族と逆で、家内は、おっとり・のんびり・ゆっくりなのに、私は、せっかちで、慌て者で、性急なのです。彼女は、ほとんど失敗とか怪我をしないのですが、私は、躓いたり、転んだり、ぶつかったりの連続で生きてきました。そう言った私を見聞きしながら、『ほら、見たことないじゃあないの!』とつぶやく様なことは、彼女はしません。

 私が短気して、家内ともめている時、わが家の4人の子どもたちは、『またやってる!』と遠巻きに眺めていて、いつでも家内の味方をしていました。それで、バツが悪くなって、私は<不貞寝(ふてね)>をしたり、車で出掛けてしまうのです。そうやって、何度も何度も子どもたちに助けられて、今があります。今は秋、叙勲の季節なので、《表彰状》を上げなくてはなりませんが、49年連れ添った《糟糠の妻》には《詫び状》を、4人には《感謝状》を上げたい思いでおります。
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 江戸の昔も、そんな夫婦がよくあったのでしょうか、《子は鎹(かすがい)》と言われていました。この《鎹》は、近代建築では使うことが、ほとんどない様です。自分たちの事務所の建設をしていた時に、大きな《鎹》を打ち込んだことがありました。きっちりと打たないと効果が半減してしまうので、なかなか難しいのです。今日日の建築物は、昔の建築にはかないません。ほとんど金属の釘や鎹などは使わずに、耐震装置のきっちり機能する木造建造物を作れたのです。

 天井裏に上るのが、私は好きで、中学の木造校舎や、農家の天井裏に上がって見たことがありますが、木と木を組み合わせるための技術には驚かされました。曲がった自然木に、鑿(のみ)で、《ホゾ穴》を彫り、そこに刻んだ《ホゾ》をはめ込んで、屋根を支えてありました。よく見ますと、何十年も、100年も経つのに、一ミリの狂いも隙間もないのです。コンピューターなどなくとも、伝来の道具を使って、それほど正確に仕事をこなしていたわけです。

 自分の人生を振り返って、どんな構造に仕上がっているのか思い巡らす必要がありそうです。そこかしこに、《ホゾ穴》が彫られたり、《鎹》が打ち込まれてありそうです。昨日は、掛かり付けの町医者に勧められて、MRI検査を大きな病院に行って撮影してもらいました。初めての様な、強い頭痛があったので、念のための検査でした。ドームの中で、ヘッドフォンから流れる曲を打ち消してしまう様に、ガンガンという音を聞かされながら、多くの人のことを思い返していました。みなさん、私の組み立てに必要な方たちだったと思わされ、感謝した時でした。

 
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 2006年10月3日、オーストラリアのメルボルンで、一人の人の葬儀が行われました。上に掲げたのは、その葬儀の一場面です。二人のアフリカ系アメリカ人が、棺を担いでいます。それがトミー・スミスとジョン・カーロスです。彼らは、メキシコで開催されたオリンピックの陸上競技200mで、優勝と第三位を獲得したランナーでした。

 そして、その棺の主は、64年の生涯を終えたピーター・ノーマンでした。彼は、第二位の銀メダリストで、スミスとカーロスと競い合った仲で、競技終了後も、強い友情で結び合わされていたのです。

 人類史上、歴史の時々に、語り継がれる「名場面」がたくさんあります。この写真は、その表彰台の場面を記録したものです。星条旗が掲揚される中、若き日のスミスとカーロスは、黒の手袋をして、それを天に向かって突き上げ、黒人差別に対する反対の拳(こぶし)をあげたのです。
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 ノーマンは、白人ながらも二人の行動を支持しました。それで、同じ表彰台で「人権を求めるオリンピック・プロジェクト(Olympic Project for Human Rights 略称:OPHR)」のバッジを胸に着けて表彰台に上がったのです。彼は、『肌の色など関係ない。人間はみんな平等なんだ。それを忘れてはいけないよ!』と、父に言われて大きくなった人でした。

 1964年当時、アメリカでは、アフリカ系の人たちが、まだまだ酷い差別を受けていたじだいで、それへの抗議のための示威行動でした。その行為が、「オリンピック憲章」に抵触し、その後の選手生命や、その後の活躍を封じられる結果を招きます。最も手ひどい仕打ちを受けたのは、白豪主義のオーストラリア選手のノーマンでした。二度とオリンピック選手に選ばれることなく、オーストラリア政府の公務員として奉職しますが、その俸給だけでは生きていけず、その他にアルバイトをしなかればならないほどでした。

 そんな境遇に耐えながら、一信仰者として64年の生涯を生き抜きます。ノーマンの死後、6年が過ぎた日に、オーストラリアのオリンピック委員会は、1972年に開催されたミュンヘンオリンピック大会に、13回も参加標準記録を挙げたノーマンを出場させなかったことなどの不当な扱いを、公式に謝罪しています。

 私たちの国にも、原住民のアイヌのみなさんへの差別、部落の人たちへの偏見と虐待、ハンセン氏病のみなさんへの不当な扱いなど、多くのことがあり、今だに残されています。

 子育てをした街の高校で、アフリカ系アメリカ人のご婦人が、私たちの事務所においでになられていました。日本人の偏見に悩まされていることを話してくれました。私たちの家においでになったり、食事に招かれたりの交わりの中で、偏見のない私たち家族に会うと慰められたとおっしゃっておいででした。

 オレゴン州ポートランドなど、アメリカの多くの街で、警察官の射殺事件への抗議が行われ、暴動にまで発展しているニュースを見聞きして、思い出した言葉があります。『先ほど通り過ぎて行った人が、白人であったか黒人であったかを思い出せなくなる時の到来こそが、人種差別の終わる日です!』と言っおられらのを聞いたことがあります。そんな時が、間も無くやってくるでしょうか。

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潔い人

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 誰でも叩くと、埃が立つのですが、立場をとると、ああでもない、こうでもなくと色々言われてしまう様です。退任される安倍晋三首相に、心から『ご苦労様でした!』と労を労(ねぎら)いたい思いでおります。

 中国にいました時に、よく学生さんたちに質問されたのは、『日本の総理は、どうして変わってばかりいるのですか?』でした。中国は、一度、総主席が決まると、8年の任期をし通します。今の主席は、終身総主席になっていますが、テロや政変がない限り、立場を堅持し続けます。

 でも、自分たちが領導を選ぶことのできないジレンマで、日本の政権の短さを、そう言ったのです。ところが、安倍首相は、七年有余、歴代最長の任期を遂げたのです。それでも、アメリカは、一般的に八年、今の中国が終身なのに比べると、短期です。私は、第52、53、54代を務られた、鳩山一郎首相を覚えています。新聞で、子どもの目で見た温厚なお顔が印象的でした。

 今回、新しく菅首相が選任されることになりましたが、新しい首相が選ばれるごとに、私は、思い出してしまう方がいます。それは、第32代内閣総理大臣をされた広田弘毅氏です。戦時中の首相を務められ、戦後の東京裁判で、A級戦犯で裁かれ、文人で唯一死刑の判決を受け、処刑された方でした。ものの本でしか知りませんが、その名の如くに、その《毅然さ》に驚かされたのです。

 この方は、いわゆる秀才でした。石屋の子として生まれ、石屋になるように、親に願われていましたが、周りの人の勧めで、上級学校に進学して行きます。子どもの頃から、『日本のためになろう!』という願いをうちに秘めていたそうです。当時は、軍国主義が勢いを増していた時代で、軍人志向が強かったのですが、この方は、優れた「外交官」になろうと考えていました。

 父からもらった名は、「丈太郎」でしたが、論語の『士不可以不弘毅(士は弘毅ならざるべからず)』という教えに感銘を受けて、「弘毅(度量が広くて意志が強いこと)」に変えています。「高等文官試験外交科」に主席合格するのですが、名門の出ではないとの理由で、冷遇されてしまうのです。それで重要国でないオランダに赴任しますが、その時、こんな句を詠んでいます。

 風車 風の吹くまで昼寝かな

 そんな待遇に中、昼寝ではなく、読書三昧(ざんまい)で時を過ごした人でした。結婚も、家柄がよく、出世の助けになるような女性ではなく、無名の人の娘を、郷里の福岡から、妻に迎えて、生涯愛し続けています。結局、敏腕な外交官でしたから、戦局が拡大して行く中、手腕を買われて、外務大臣の職を任せられます。そして、総理大臣の重責を負います。後に問題とされた、「満州事変」や「南京攻略」の時の「虐殺事件」の時期に政権の最高責任者であったのです。

 その責を問われ、裁かれ、死刑判決を受け、処刑されたのです。法廷では、自分に有利な証言をするように、弁護人に勧められても、他の被告の不利にならないようにと勧められますが、泰然自若、助命嘆願など一切しないで、慌てふためくことなく自己弁護を一切しませんでした。驚くことに、広田弘毅氏が亡くなる前に、静子夫人は、自死されます。

 妻を愛し、子を愛した人でした。一番は、「自ら計らぬ人」であったことでしょうか。私は、自分の祖父の時代人である広田弘毅が、「潔(いさぎよ)い人」であったことに感じること大であるのです。それで、私のペンネームは、「広毅」なのです。名門出でない新首相に、広田流の「潔さ」を求めたい秋の朝です。

(福岡市の市花の「芙蓉(ふよう)」です)

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味覚

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 この季節は、いつものこと「郷愁」とか「旅愁」を感じさせられます。これまで出会った人や過去の出来事が懐かしく思われて仕方がありません。今住む家の近くに、観光客用の店があって、無花果(いちじく)や栗などの秋の果物が出回って、店頭に並べられてありました。『そろそろ栗が出てくる頃かな?』と思っていましたので、躊躇することなく、無花果と栗を買ってしまいました。

 華南の街で、毎週水曜日の夕べに訪ねたお宅で、日本では見掛けない小粒の栗を、この時季に茹でて出してくれました。私が目を丸くして、美味しそうに食べてから、毎年、この季節に、何度も何度も茹で栗で歓迎してくれたのです。その小さな栗には、剥きやすいように、包丁で切り込みが入れてありました。

 無花果は、小学校の帰り道を、少し外れると、庭先から通りに枝を伸ばした無花果がなっていて、何度失敬して頬張ったことでしょうか。あんなに甘くて美味しい果実には、その後出会いません。好きなことを知った母が、いちじくの苗を買って家の庭にも植えてくれた実も、あれと同じく美味でした。

 そろそろ出てくるのが、柿でしょうか。華南の街でも、柿が売られていて、時々買って帰りました。子育てをした街の近くに、皇室御用達(ごようたし)の「御所柿」があって、これが、実に美味しかったのです。青果商組合の責任者をしていた父の知人から、『準ちゃん、食べてみるかい!』と言われて、一箱頂いたきりでしたが、あの味は忘れられません。
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 みんな郷愁を感じさせてくれる果物で、海外種にはない、素朴な味わいがして、幼い日を思い出させる味覚であります。その味を懐かしく思い出させてくれるのが、三木露風が作詞し、山田耕作が作曲した、「赤とんぼ」の歌があります。

1 夕焼小焼の赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

2 山の畑の桑の実を
小かごに摘んだは まぼろしか

3 十五でねえやは嫁にゆき
お里のたよりも 絶えはてた

4 夕焼小焼の赤とんぼ
とまっているよ 竿の

 幼い日、露風は姐やにおんぶされたことを思い出しているのでしょう。姐やの肩越しに見たのが、竿の先に止まっている赤とんぼでした。その姐やと、どどめ(桑の実)を摘んだりしたのは、6月頃でしょう。その姐やが、15歳でお嫁に行ってしまって、幼い恋(?)が終わってしまったのを、幻のように感じて、作詞をしたのでしょうか。

 わが家のベランダの朝顔は、実をならすことはありませんが、四ヶ月も、勢いよく咲き続けて、やっと終わろうとしています。四種類の花弁の花を、色とりどりに咲かせてくれました。華南の街の七階、二階、沼和田の一階で鉢植えし続けて、今年も満ち足りた感謝で、今朝、秋の気配の中に咲いた朝顔は、ひときわ美しいかったのです。

 

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 今も、ベランダで、秋風が晩期の朝顔の葉を揺らすのが見えます。風を感じるたび思い起こす諺や言い回しが、いくつもあります。『風を起こす(新しいことを始める事、新風を起こす事など)』、『風を集める(人の協力を得て一つになる事)』、『風に逆らう(時代の風調に逆らって生きたり存在したりする事)』、『風に靡(なび)く(みんなに同調する事、附和雷同)』、『風に任せる(時流に乗ってしまう事、その時代の傾向に沿って生きること)』などと言います。

 これは、自然界に吹く「風」ではありません。世の中には、頬を撫ぜたり、髪をたなびかせたり、葉を揺らせたりしない、目に見えない風ですか、意識上に感じられる「風」が吹いている様です。どんな「風」が吹いているのか調べてみました。

風雪⇨父は風雪五十年の苦労人です(風や雪に耐えて生きた事)、
風化⇨もう風化してしまった、
風雅⇨あの方は風雅(ふうが)な人だ、
風格⇨社長は風格のある立派な人です、
風雲⇨何か風雲急を告げる様だ、
風雲児⇨彼の事を時代の風雲児と言っている、
風紀⇨最近、学校の風紀が乱れています、
風采⇨おれは風采が上がらない男だ、
風習⇨それはここの風習なのです、
風俗⇨ここは田舎とは風俗が違います、
風潮⇨最近の風調なのでしょうか、
風調⇨宋詩の風調が染みており、
風体⇨怪しい風体(ふうてい)をした人、
風土⇨中国の風土に似合った文化がたくさんあります、
風物⇨ここの風物なのです、
風物詩⇨この地域の風物詩です、
風貌⇨独特な風貌(ふうぼう)をした人です、
風味⇨豊かな風味を持つ和菓子です、
風流⇨祖父は風流な人だった(風流人)、
風穴⇨あの方が時代に風穴(かざあな)を開けた人です、
風情⇨秋の風情(ふぜい)が感じられます、
風評⇨最近は風評被害が多い様です、
風塵⇨風塵(ふうじん)に帰す、
気風⇨彼は自分と気風の合った人です、
今風⇨今風に言うと(昔風)、
俺風⇨俺風に言わせてもらうと、
日本風⇨これって日本風なんです、
家風⇨嫁は家風に合っています、
画風⇨これは狩野派の画風です、
学風⇨学風を感じさせる作品です、
社風⇨これは我が社の社風です、
悪風⇨どうも最近は悪風が立っている様です、
古風⇨この趣味って古風です、
新風⇨彼がきて新風が吹き込まれた様です、
作風⇨この絵は独特な作風です、
威風⇨威風堂々とした人です、
順風⇨順風満帆な人生を送っている、
旋風⇨彼の作品は旋風(せんぷう)を起こした、
逆風⇨このところ逆風が吹き始めている、
美風⇨こういった習慣は美風なのでしょう、
手風(てぶり)=風習、習俗の事、

 日本や中国のみなさんも、いえ欧米や東南アジア、アフリカや南北アメリカ大陸やオーストラリヤ、島々の国も、みんな様々な風に、身を任せたり、逆らったりしながら、人は、そこで生きて来たのでしょうね。その時代や起こった事件、出来事などと共に、強く弱く吹いてきて、身の回りに「風」を起こして、そして通り抜けて行ったわけです。その繰り返しに吹いては去って行った「風の集積」が、人を鍛え、形造ってきたのでしょうか。もう「一風」、「新風」を吹かせて、風車(かざぐるま)に乗ってみたいものです。

 オレゴン、カリフォルニア、ワシントンに三州が、山火事が起こって、強風と雨の降らない天候で、大変な被害を巻き起こしています。今朝の娘からのメールによりますと、風向きが変わって、週初めには雨が降るとの予報が出ているそうです。「掌(たなごころ)に風を集めるお方」は、ちょうどよく風の向きも変えられるのでしょう。

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守り

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 緑と水の流れが綺麗なオレゴンの街が、延焼し続ける火事で、こんな降灰の有様です。風が止み、雨が降る様に願っています。物は失っても、また持つことができますが、大切な命が、この災害の中で保たれます様に!

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大いなる意思

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 ジューネーブの住人だったジャン・カルヴァンが、こんなことを書き残しています。

 『天気について語るときでさえ、晴れであろうと雨であろうと、われわれは◯の主権の前に立たされている。◯が悪い天気を下すとき、それがわれわれが自らの罪や悲嘆を省みて、悔い改めるために、◯の怒りを気付かされる審判者としての自己を開示されている。◯の前に謙虚になるどころか、罪を犯して◯の怒りをかったり、われわれが互いに他者を軽蔑しあって憤慨しあうなら、天気は当分回復しないだろう、と考えるのは妥当なことではないか。われわれは◯のもとに立ち帰ることをせず、◯に罪の赦しを求めようともしない。そうした状況がいたるところで蔓延している。』

 こう言った考えは、中世的なもので、ちょっと偏りすぎていて、飛躍だと考えるでしょうか。天気は、昔から、単に偶然に、気まぐれの様に変化するのだと、人は考えていますが、この方は、創世の昔から、とてつもない《大きな意思》が働き掛けて、天気でさえも決めていると言うのです。

 急に空が暗くなって、稲光が走り、雷鳴が轟き、ものすごい雷雨が降る、そんな天気に、今年は、私の住む北関東も見舞われています。これまでにない勢力の台風が、さらに勢力を増し加えて、日本列島の沖縄、九州、朝鮮半島を、先日も襲いました。未曾有のエネルギーを擁していましたが、どうも《制限》がかかったに違いありません。

 これまでは、《制限》があって、《限界》が定められていました。傲慢な人類への憐みによってでした。それで灼熱が地を打ったり、豪雨で田畑や住まいが流されたり、落雷が街を焼き、海の水が海外線を超えて内陸を侵しても、ギリギリの線で、最小程度の被害ですんでいたのです。ところが近年、その限度を、世界中で超え始めているのを感じてなりません。

 《警告》が、《審判》に変わりつつある様に感じるのは、私だけではなさそうです。古の書に、「大洪水の記録」が記されてあります。次の様にあります。

『・・・地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。』とです。造物主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められたのです。水で地を滅ぼさざるを得なくなり、ノアに、「方舟」の造船を指示します。
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 造物主は、罪を警告し、行いを悔いて、立ち帰る様に願ったのですが、人は行いを改めようとせず、大いなるお方を侮りました。その結果、造物主は、断腸の思いで四十日四十夜に及ぶ雨の降るのを許し、天地の水門を開いて、大洪水の起こさざるを得なかったのです。乗船した八人だけが、「方舟」によって水の難から救われたのです。

 この話は、中国の西に住むミャオ族の口誦伝説にも残されていて、古の書の記事と、ほとんど一致しています。作り話ではなく、考古学者も、その事実の痕跡を発見しています。アルメニヤにアララト山がありますが、その氷河の中に、「方舟(はこぶね)」が埋没されているのが確認されているのです。

 地球の地軸が、約24.3度傾いているのが、偶然なのでしょうか。地球と太陽や月との距離が定まってることも、偶然でしょうか。春一番が吹くのも、寒冷化しないのも、また地表が燃えたり凍ったりしないのも、地球を自転させ、太陽の周りを公転させている総力は何なのでしょうか。星が降って、地球を壊滅させていない抑止力は何でしょうか。大いなる意思があって、そう定められているのです。

 もちろん自然科学上、最近の異常気象の原因や理由を知ることができますが、それ以上に、《倫理的な理由》があるのだと、カルヴァンは言っているのでしょう。怒りを示して、反省したり悔い改めることを、造物主は、21世紀の私たちに問うておられるに違いありません。

 昨年の19号台風で、住んでいた家が床上浸水したのですが、一階の客間に水が溢れ、スリッパが浮遊していたのを見て、ノアの時代の「方舟」の有様を、まざまざと想像してしまいました。

 『わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない・・・わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。』と、造物主は言われたのです。

 先日の大雨の後に、西の空に「虹」が出ていました。それを見て、二度と水で人類は滅ぼされないことを思い出したのです。でも、主権者で全地の統治者は、この暴虐と裏切りと頽廃に溢れた地をご覧になられて、何を思われておいでなのでしょうか。
人に必要なのは、悔いた心に宿る「謙虚さ」です。

(「ノアの方舟」のイラストと台風被害の人吉市の毎日新聞の写真です) 

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降雨待望

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 この写真は、オレゴン州の州都セーラムを襲った山火事の燃える様子を撮ったものです。[9日のロイターの記事]に次の様にあります。

 『 米オレゴン州のブラウン知事は9日、過去最大規模の山火事によって州内の5つの小さな町がほとんど焼き尽くされたと明らかにし、過去最大の死者が出る恐れがあると警告した。

 同州ではニューヨーク市の2倍近くに相当する広範な地域で少なくとも35の大規模な山火事が発生。最大風速22メートルの強風で被害が急速に広がり、数百軒の家屋が破壊された。

 米西部全体では100近い山火事が発生。カリフォルニア州では28の大規模な山火事の被害が広がっており、当局者らによると、6万4000人がこれまでに避難した。』

 強風が止み、雨が降る以外に、鎮火する可能性がないとのことです。必要な所に、雨が降る様に願っています。孫たちが家族で、近くの高校に避難してきた方たちへ、物資を配給するボランティアをしてると、娘が言ってきました。

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今頃

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 先日、チラッとですが、赤トンボが飛ぶのを見ました。厳しい暑さが残っているのに、秋風が吹き始め、茹で栗が食べられるような季節がこようとしています。この季節に、私が一番食べたいのが、「ソフトクリーム」なのです。街中のスーパーの店頭売りのものではありません。八ヶ岳山麓の清里にある、《清泉寮》特製のもの、ジャージー種の牛乳をふんだんに使ったと謳う名物ソフトクリームなのです。

 よく、暑い夏が終わった頃、清里の宿泊施設をお借りして、師や友人たちと二泊三日ほどで、交流会を持ちました。一段落して休憩になると、だれ誘うともなく、みんなの足、いえ口が、清泉寮のソフトクリーム・ショップに向いてしまうのです。それを、ニコニコしながら、頬張っている一葉の写真が残っています。

 もう恩師が亡くなって18年になります。アメリカには、もっと美味しいものがあるのでしょうけど、少年の様に屈託なく、9歳違いの恩師の頬張る姿が、そこに写っているのです。ただ甘いだけではなく、芳醇な香りとか、懐かしさなどが感じられる味なのです。

 こんなことを書いていると、清里に飛んで行きたい気持ちになってしまいました。そのソフトクリームを、一緒に食べた方たちが、ほかにも何人もいます。アラブ人とギリシャ人の血を引く、ニューヨークの学校で教えていた教師で、私たちの婚約式に来てくれて、奨励をしてくれた方も一緒に食べました。上の兄のテニス仲間に、運動不足の解消と交流会に誘って頂き、毎春、毎秋、清里に行きました。彼らも、ソフトクリーム仲間でした。

 そう、わが家の子どもたちも大好きで、よくキャンピングに出掛けては、寄り道をしては食べたものです。札幌に入院して手術を終え、リハビリが終了して、家内の待つ華南の街に帰ろうと、札幌の空港で搭乗待機している折に、美味しそうにソフトクリームを食べていた外人がを見かけたのです。そこで、つられて食べてしまいました。

 あの清里の清泉寮のソフトクリームを食べたことのある私には、やはり札幌空港のそれには物足りなさがあって、美味しいのですが、あの味ではないのが不足感があって仕方がなかったのです。《美味しさ》とは、味だけではなく、時と場所と心に関わる味なのでしょうか。きっと原宿あたりで食べたものの方が美味しいかも知れませんが、宣伝料をもらったわけではないのに、清泉寮製が、やはり美味しいのです。食べたい、今頃です。

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