コロラド

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作詞がビリー・モール、作曲がロバート・A・キング(日本語詞が近藤玲二)の“ Moonlight On The Colorado(コロラドの月)” を、小学校の授業で習いました。

1 コロラドの月の夜 ひとり行く岸辺に
想い出を運びくる 遥かなる流れよ
若き日今は去りて きみはいずこに
コロラドの月の夜 はかなく夢は返る

2 コロラドの山の端(は)に 涙ぐむ星かげ
今もなお忘れられぬ うるわしき瞳よ
夜空に君の幸を 遠く祈れば
コロラドの山の端に はかなく夢は返る
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    Moonlight On The Colorado

1. Each night I sit beside the campfire dreaming
In England’s hills and dales across the sea
And as I watch the embers softly gleaming
I always picture in my memory;
Moonlight on the river Colorado
How I wish that I were there with you
As I sit and pine, each lonely shadow
Takes me back to days that we once knew
We were to wed in harvest time, you said
That’s why I’m longing for you
When it’s Moonlight on the Colorado
I wonder if you’re waiting for me, too.

2. Sweet heart, do you recall the night we parted
Beneath the moonlight on the river’s shore
Each time I see the moon I’m broken hearted
Just longing to return to you once more;
Moonlight on the river Colorado
How I wish that I were there with you
As I sit and pine, each lonely shadow
Takes me back to days that we once knew
We were to wed in harvest time, you said
That’s why I’m longing for you
When it’s Moonlight on the Colorado
I wonder if you’re waiting for me, too
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山の中で生まれたせいか、アメリカでも、ロッキー山脈の麓(高原)にあると言う、コロラド州(州都はデンバー)に惹かれたのです。よく、こんな大人の恋の歌を、小学校で教えていたものだと、大人になって思うのです。でも、『いつか行ってみたいなあ!』と思ったわけです。そんなマセタものにではなく、まだ小学生の私は、まだ見ぬアメリカ、〈コロラド・ロッキー国立公園〉に行きたかったのでしょう。この歌の歌詞にあるロマンチックさにとらわれてしまったわけです。

大きさや広さへの憧れでしょうか。狭い日本に住んでいて、自分の母国を知り尽くしたわけでもないのに、アメリカ兵が放り投げるのを、競って拾っては食べた、美味しいチョコレートやチューインガムやピーナッツを、ふんだんに食べられる繁栄の国・アメリカに行ってみたい、占領国の矛盾した少年の日々でした。

そんな私が、アメリカ人起業家と一緒に働き、子どもたちを、その国に留学させて、学ばせたことは不思議よりも、奇跡なのかも知れません。娘たちは、そこで出会った青年と導かれて結婚に至ったのも、大きな手の導きに違いありません。コロナ旋風に翻弄されているアメリカが、そこに住む娘たち家族が気になります。

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生を思う

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おっちょこちょいを自他ともに認める私は、膝や弁慶の向こう脛を、テーブルや机の角にぶっつけては、しゃがみ込むほど痛い思いをして生きてきました。刃物を使うと、よく手傷を負いました。無数の手傷を、いまでも手指や腕に認めることができ、ちょっとやそっとの傷や痛さは、苦にならないほどになっています。

この「痛さ」ですが、体が痛くなる感覚というのは、実に大切な感覚だということを、ある時に知ったのです。ハンセン氏病という病があります。かつて恐れられ、忌み嫌われたのですが、私の周りで、この病気の方を見聞きしたことがなかったのです。もちろんライ園やライのみなさんの施設のあることは知っていました。

この病は、その伝染性の問題で、いったん罹病されると、隔離収容さてるのです。山梨県の出身で、ライ患者のみなさんの治療に献身された小川正子がいました。この方は、「長島愛生園」で治療に当たっていて、その手記が、「小島の春」でした。そこには次の様に記されてあります。

『・・・この山中に十年、二十年と病み住めば男といえどもどうして山を下れよう。ましてや家には純朴な一徹な無智善良な肉親と周囲があって伝染ということさえ知らずに同じ炉を囲んで朝夕。そして悲劇は何時の日までも果てしなく続けられていく。(中略)母に寄り添って立っていた十一歳という女の子、まととない愛くるしい顔、背中の二銭銅貨大の痛みのない赤い部分、白い跡はおできのあとと母親はいうのだが、水泡を疑うのは非か。七つの子をあやしつつ、いぶかしいと思うところをつついてみると痛くない。(中略)病人のほかに二人とも異常があることになった。私は言い出す術をしらなかった。強いて微笑んではきたけれど、すべてが「手遅れ(ツーレート)」であった。』

ここに「痛みのない赤い部分」という箇所があります。この病の大変さは、〈痛みが無い〉ことにあるのだそうです。痛みが無いことで、外科的に指が欠けても、分からないのです。痛い思いを繰り返してきた私にとっては、それは驚きのことでした。それで、痛い思いをすることに、感謝の念を覚えられる様になったのです。

私の生涯で、耐えられない痛さの経験が二度ありました。一度は、その年の暮れに40になろうとしていた夏の終わりに、腎臓の摘出手術をした後のことでした。手術が終わって目覚めたのは、強烈な痛みによってでした。麻酔が切れて、痛さの感覚が突如として戻ってきたのです。体の底の底からくる、耐えられないほどの痛さだったのです。とっさに、私の顔を覗き込んでいた看護婦さんに、『痛み止めを打って!』と言ったほどでした。

その痛さを和らがせ、忘れさせた出来事が、数年経った頃にやってきたのです。その長島愛生園のライの施設にいらっしゃる方たちが、私の「腎移植」の話を、何かの経路でお聞きになって、感動したと言って、八万円ほどを募金して、送金してくださったのです。もったい無くて使えず、病んで入院していた恩師の治療のために差し上げさせてももらいました。あんなに嬉しく感動したことはありません。

もう一つは、右肩の腱板断裂の縫合手術をして、手術を終えて目覚めたのが、右腕を上げた状態で、ベッドに括り付けられていた時でした。これも麻酔が切れた時でした。2日ほど、その状態が続いたのです。傷の痛さと体を固定された苦痛とでの激痛でした。『自殺者がいたほどの痛みがある!』と聞かされていたものでした。

今年になっての〈コロナ禍〉は、心痛む現象です。世界中で、不安と恐怖が満ちていて、心が爆発寸前です。感染して死を恐れることだけに、もはや人の心が捕らえられてしまっています。でも冷静に見ますと、感染したら死んでしまう確率は低いのです。もっと怖いことは、人を憎んだり、否定してしまう方が、人を死に追いやる要因で、恐るべきことかも知れません。実は、私たちは、いつも死と対峙しながら、今を生きているという事実です。今落ち着いてこの状況下で、自分の《生》を思う時にしたら好いのではないでしょうか。与えられたこの一日と、残された日々とを生きようと思う、4月1日です。

(瀬戸内海に浮かぶ島です)

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あの一年

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家内と私は、2006〜2007年のほぼ一年間、天津の街で過ごしました。真冬になると、人工池から流れる運河でししょうか、水路がパンパンに凍ってしまい、近くの大学の学生たちが、その上で遊んでいる光景を眺めていました。

その街で、春先になった頃のことです、柳の木から「柳絮(りゅうじょ)」と言う綿が、まるで雪が降る様に、ふわふわと飛び交うのです。日本でも見られるそうですが、あんなに大量に浮遊し、吹き溜まりには、大きな風船の様に塊ができるほどの珍しい光景を見て、驚いてしまいました。

中国に、「柳絮の才」と言う話があります。

『晋の時代、謝安が急に降り始めた雪を見て、この雪は何に似ているかと聞いたところ、甥の謝朗は「空中に塩を蒔いたようだ」と言い、姪の謝道韞は「白い綿毛のついた柳の種子が風に舞い散るのには及ばない」と答えた。謝安は姪のことばに感心し、「柳絮の才高し」と言ったという。』

たった一年の滞在でしたが、夕日の大きさ、土地の広大さ、お菓子屋さんでも御殿の様な目を見張るほどの門構えの大きな建物、冬季の寒さ、春節の喜び、爆竹の炸裂音、天津名物の麻花の美味しさ、広く雑然とした菜市場の賑わいなどに驚かされたのです。そういえば、果物屋によく行ったのですが、外国人への特別に高い値段で買っているのを、級友に教えられ、行かなくなったこともありました。中心街に、伊勢丹があって、その8階の日本料理店で、日本人のスタッフと日本語交流ができたので、何度か出かけました。また子どもが多いはずなのに街中で、登下校時にしか見かけない様子、何から何まで見慣れない光景が満ちていました。でも社会全体に、活気が満ち溢れ、旺盛な生命力を感じた一年でした。.
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家内と自転車で駆け巡り、同じ語学学校のイギリス人、アメリカ人、ブラジル人、スイス人などの学生たちとの交流が楽しかったのです。日曜ごとに市の中心街に出かけました。茶菓を持ち合っての交わりを持ち、夕食を招きあったり、学校帰りに市内見学に行って迷子になりかけたり、ある時は、「IKEA」が出店すると聞いて、バスをチャーターして、北京にも大挙して出かけました。生気あふれる若いみなさんの仲間に入れてもらって、大いに刺激された一年でした。アメリカ人のご主人と台湾人の奥さんとお嬢さんのご家族に、昼食に招かれたり、イギリス人家族に招かれたりでした。

学校帰りの道では、自転車を降りては、通りすがりのみなさんに、習いたての中国語で話しかけ、ちんぷんかんぷんな顔をしているので、身振り手振りで話しかけていました。アッ、そうです、「吉野家」があって、留学生たちに人気で、『ここ日本の店!』って自慢したこともありました。

あの同じ外国人語学学校の同級や上級生たちのみなさんは、あれから十数年経ちましたが、どうされているのかな、と時々思い出します。学校の老師やブラジルから来ていた若い同級生が、わざわざ華南の街のわが家を訪ねてくれたこともありました。また戻って、あそこで生活をしてみたい思いがしてまいります。

(柳絮の舞う様子と天津の紫金山路の天塔に付近の風景です)

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雪の日

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雪の降った日、ベランダの手すりに、一羽の小鳥の訪問がありました。しばらくの間、毛づくろいをしていたのです。よく巴波川の川面をすれすれに飛んでいるのを見かけていました。ベランダにも春の到来です。

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たらちねの

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昔の小学校は、尋常小学校と高等小学校とからなっていて、尋常小学校は義務教育で、1886年に四年修業で始まり、1907年に六年修業になっています。義務教育を終えると、ほとんどの子どもが社会に出たり、家業を手伝ったりしていた時代です。

その後、四年修業の高等小学校(後に二年制)に行く人と、男子は中学校(五年制)、女子は高等女学校(五年制)に進む人もいました。男子が中学校に進学するのは10から20%、女子の高等女学校への進学は5%(1925年頃には10%)ほどだったそうです。

豊かではなかった養父母に、義務教育を終えた母は、進学を持ち出すことができなかったのでしょう。色がすこし黒くても《今市小町》と言われた勝気な母は、グンゼの女子工員になったのです。そんな生活の中で、母の一生涯に、強い影響を与えるカナダ人家族との出会いをします。その両親と娘たちの家族を眩しく眺めていて、その優しい交わりに、時には招かれたのでしょう。

この写真は、上は島根県の県花の「牡丹」、下は母が育った町内にあった高等女学校の写真です。母の年代に撮られたもので、学びたくても学ぶことのできなかった母は、女学生たちの生活振りや袴姿を、どんな思いで眺めていたのでしょうか。高校生の私が、いつも難漢字を教えてもらった母は、高等女学校生に負けたくない思いで独学した様です。

結婚して父の4人の子を産んで、育てて、みんなが大きく成長して行く様子を見て、どう感じたのでしょうか。大学に行き、運動部で活躍し、一部上場の企業に就職し、将来を嘱望された最初の息子に、何を感じていたのでしょうか。“ ミスター・シェイクハンド "と呼ばれた次男、教師になった三男と四男、母にとっては、自分には叶えられなかった夢を、叶えている子たちを眺めて、この上もない慰めを覚えていたに違いありません。

人の一生とは、何か計り知れない意図や計画があって、それを早く認められた人には、生きる意味や価値や目的が理解できるのでしょう。出雲訪問の折に、日御碕(ひのみさき)に連れて行ってもらったことがあります。日本海の押し寄せてくる波頭が、刃の様に鋭かったのが、印象的でした。冬は寒く、曇り日の多い山陰地方で生まれ育った母でしたが、自分の生まれや現実を、そのままに受け入れることができ、満ち足りて、天に凱旋(がいせん)した母です。

母なくば 子も孫もなき 桜花

今日、3月31日は、「垂乳根(たらちね)」と枕詞をつける母の103年誕生記念日です。確かに、夏の夕方には、いつも布団を引いて、蚊に刺されない様に、青い「蚊帳(かや)」を吊ってくれ、冬には綿入れを着せてくれ、やむと粥を炊いてくれた母でした。

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スペイン風邪

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1918年に、世界大に流行したのが、全世界で、5000万人もの死者を出した「スペイン風邪」でした。第一次世界大戦が終結した翌年のことで、この大戦での1600万の戦死者、戦争が原因で病んで亡くなったのが200万人、行くへ不明者が600万人と言われていますから、その二倍以上の死者を出した、最悪の疫病でした。

どこから始まったかについて、カナダのウィルフリッド・ ローリエ大学の歴史学者マーク・ハンフリーズ教授が、次の様に研究結果を報告しています。『西部戦線で英軍とフランス軍の後方支援を行うために、9万6000人の労働者を中国から動員したことが、パンデミックの原因になった可能性がある!』と言っています。

中国北部の万里の長城付近に住む中国人の〈苦力/クーリー〉9万6000人を、アメリカ大陸のバンクーバーに船で運び、列車で東海岸に輸送し、そこから船で、英国南部とフランスに送られ、戦線の後方に運んだことがあったそうです。その中に、肺炎の症状をみせた人たちがいて、瞬く間に蔓延して行ったのが、〈スペイン風邪〉だっただろうと報告しています。

カナダで検疫が行われたそうですが、倦怠感を見せる病者に対して、『怠惰でそうなってる!』という検査結果を出して、治療など施さなかった様です。戦線の後方では、多勢の中国人労働者が病死しています。スペイン風邪が流行する頃には、中国人の感染者は、みられなくなっていたそうです。

これ以前の、「ペスト大流行」や、この「スペイン風邪」の起こった歴史的な事実から、また今回の「新コロナウイルス性肺炎」から学ばないと、今後、どの様な疫病が世界的に拡大して行くか分かりませんので、WHOを中心に、研究や対策を急ぐ必要があります。2011年に、研究チームは、1918年にスペイン風邪で亡くなった32人の遺体から、〈インフルエンザウイルスのサンプル〉を採取して、秒液状の検査や実験が行われている様です。

私の母が、1917年生まれですが、当時の日本の様子を次の様に伝えています。

『日本でスペイン風邪が確認されたのは、1918年、当時日本が統治中であった台湾に巡業した力士団のうち3人の力士が肺炎等によって死亡した事が契機である。そののち、同年5月になると、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生し、横須賀市内、横浜市へと広がった(速水融)。当時、日本の報道でのスペイン風邪の俗称は「流行性感冒」である。

 速水によれば、日本に於けるスペイン風邪流行は「前流行」と「後流行」の二波に別れるという。「前流行」は1918年の感染拡大。「後流行」は1919年の感染拡大である。どちらも同じH1N1型のウイルスが原因であったが、現在の研究では「後流行」の方が致死率が高く、この二つの流行の間にウイルスに変異が生じた可能性もあるという。

 ともあれ、このスペイン風邪によって、最終的に当時の日本内地の総人口約5600万人のうち、0.8%強に当たる45万人が死亡した。当時、日本は台湾と朝鮮等を統治していたので、日本統治下全体での死者は0.96%という(速水,426.以下、図表参照)。1945年、東京大空襲による犠牲者は10万人。日露戦争による戦死者約9万人を考えるとき、この数字が如何に巨大なものかが分かるだろう。単純にこの死亡率を現在の日本に当てはめると、120万人が死ぬ計算になる。これは大阪市の人口の約半分にあたる(“ yahoo ニュース”より)。』

私たちの県でも、昨日現在、11人の方の感染が報告されています。私の愛読書に、「わざわいは、あなたにふりかからず、えやみ(疫病)も、あなたの天幕に近づかない。」との約束があります。これを握って、いつもの平常の生活に努め、それに注意を加えながら生活をしております。

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駆け抜けて

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昭和の時代を駆け抜け、平成の世を助走、令和を終走した人たちが、最近何人も亡くなられました。閉塞感が満ちていた時代に、心をスカッとさせてくれた “ アクションスター ” や、夢を与えてくれた人や、自分にも可能性があるんだと思わせてくれた人たちです。

脚本を演じただけの人でも、生きる強さを見せてくれたのです。自分の人生に天職を得て、それをやり遂げて、『あなたもできますよ!』と道を示してくれた人、繁栄の国からやって来て、道を説き、病を得て異国の地で召された人、様々に生きた人がいて、今の自分があります。直接間接に関わった人たちのことです。

1955年に、作詞が宮川哲夫、作曲が利根一郎の「ガード下の靴磨き」と言う歌が、ラジオから流れてきました。

1 紅い夕日が ガードを染めて
ビルの向こうに 沈んだら
街にゃネオンの 花が咲く
おいら貧しい 靴みがき
ああ 夜になっても 帰れない

(セリフ)
「ネ、小父さん、みがかせておくれよ、
ホラ、まだ、これっぽちさ、
てんでしけてんだ。
エ、お父さん? 死んじゃった……
お母さん、病気なんだ……」

2 墨に汚れた ポケットのぞきゃ
今日も小さな お札だけ
風の寒さや ひもじさにゃ
馴れているから 泣かないが
ああ 夢のない身が 辛いのさ

3 誰も買っては くれない花を
抱いてあの娘(こ)が 泣いてゆく
可哀想だよ お月さん
なんでこの世の 幸福(しあわせ)は
ああ みんなそっぽを 向くんだ

戦争孤児が、敗戦後の社会を健気に生きている孤児を歌い上げた、この歌を歌ったのが、肢体不自由な子どもたちのお世話を、掛川市でし続けて、先日亡くなられた宮城まり子でした。新宿の東側と西側を連絡するガードの下や、上野の駅周辺には、親と死に別れた多くの浮浪児がたむろしていました。ある中学教師が次に様な手記を残しています。

『 ……焼け野原に、ポツンと残っていた銀行の大金庫を、ねぐらにした。15、6歳の仲間が4、5人。一番小さかった少年は、みんなの後ろをついて走った。
 ガード下の闇市で、店先のまんじゅうをくすね、少し離れた場所で新聞紙の上に並べると、あっという間に売れた。幼い子供の手からイモを取り上げて、食べた。
 秋になった。日一日と寒くなっていく。金庫では眠ることができなかった。他人が住んでいたバラックの板をはがして、たき火をした。米軍のジープがやってきた。カマボコ兵舎に連れていかれた。チョコレートと毛布をもらった。駅で寝ることにした。ホームに入り込んで、列車に乗ったら、暖かくてぐっすり眠ることができた。夜は列車に乗った。舞鶴、和歌山、下関へ。客は復員兵が多かった。車内は混雑していたが「こっちへきて寝ろ」と場所をあけてくれた。食料もくれた。みんな親切だった。ある朝、目を覚ますと東京駅に着いていた。
 上野、浅草、神田、新橋。ねぐらは毎晩、変わった。靴磨きや新聞売りをした。ヤミ市には、物資や人があふれていた。人ごみの中から手を伸ばして、おにぎりや大福もちを取って逃げても、誰も怒りはしなかった。大人も子供も、みんなボロボロの服を着て、地下道に寝ていた。
 「狩り込み」にあった。警官や都の職員が逃げまわる子供たちを「一匹、二匹」と数えてトラックにほうり込んだ。子供たちに、番号がつけられた(「それぞれの昭和」掲載記事)。』

この少年は、養護施設に収容されて、戦後を生きますが、定時制の高校に通い、大学にも学び、中学校の教師になった方です。様々な人生があって、昭和がありました。身を持ち崩してしまった人もいましたし、この方の様に、好い人との出会いと、導きがあって、教育者の道を生き抜いた人もいたのです。そして今の令和です。

私たち四人兄弟だって、戦前、戦時中、父が奉天(現・瀋陽)や京城(ソウル)にいましたから、何かのきっかけがあったら、残留孤児になっていたり、軍需工場の任務がなかったら、父は応召して戦死だって考えられますので、戦争孤児の可能性だってあり得ました。そんなこんなの戦後を駆け抜けて、今があります。いつでも教え、さとし、戒めてくれた方たちがいたのを思い出して感謝している、コロナ旋風下の今です。
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鈴蘭水仙

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また、家内が、和菓子屋さんのおバアちゃんから頂いてきた、「鈴蘭水仙」です。家籠りを強いられるご時世、小さな花に慰められております。間もなく、チューリップが咲くことでしょう。窓辺の花々が、春とともに、代替わりになりそうです。以前住んでいた家の水仙やホットリプは、今どうでしょうか。ちょっと気になる春先です。

鈴蘭は、入笠山の湿原に、綺麗に咲いていました。もう少し暖かくなると、いっせいに咲き出すのでしょうか。家に籠れと言われると、反逆児の私は、中央本線の信濃境で降りて、山歩きをしたくなってしまいます。足尾の方に行く「わたらせ渓谷鉄道」があって、それに乗って山歩きでもしたくなってきました。ミイちゃんならずも、外歩きがしたい旋風下です。

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早朝の家事

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先ほど、五時半頃ですが、仕切りにサイレン音が聞こえますので、西側の窓を開けると、煙が立ち上っています。NTTと定願寺の間の向こうです。ここ栃木は、火事の多い街です。ほとんど毎日の様に、消防自動車の出動のサイレンが聞こえています。高齢者の住宅が多いからでしょうか、私たちも注意して生活しなければなりません。『マッチ一本火事の元』、今流には、『ガスコンロスイッチ消し忘れ火事の元』でしょうか。〈江戸の華〉は、〈栃木の華〉であって欲しくありません。

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草餅

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必ず、新宿の高島屋で、「向島 志”満ん草餅(よもぎ餅)」を買って、新宿からJRと東武日光線を結ぶ特急電車に乗って、2週に一度の週末の土曜日に、次男が、家内を見舞ってくれます。多くを話さない息子ですが、母思いなのです。姉たちが遠くにいて、その分も含めての来訪なのです。

この「よもぎ餅」は、段違いで美味しいのです。近所でも作って売っていますが、生き馬の目を抜くほどの大東京の下町で、老舗の暖簾を守り続ける和菓子店の名品です。母親の病状に良いことを知って、入院中から続いているのです。「よもぎ(蓬)」は、ノーベル賞に輝いた屠女史の研究で、化学的に証明されているのです。

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ヨモギから見つけ、抗マラリア薬として開発した中国人研究者屠氏が、2015年のノーベル医学生理学賞を受賞されたということ。屠氏はキク科ヨモギ属の一年草であるクソニンジンからマラリアの特効薬となる「アルテミシニン」を抽出し、1990年代以降、マラリアの治療に大きく貢献した功績が認められ、 ノーベル医学生理学賞の受賞が決まった。

中国国営の新華社通信は、「この薬のおかげで100万人以上の命を救うことができた」と報じた。
http://www.independent.co.uk/news/science/nobel-prize-in-medicine-ancient-chinese-mystic-led-youyou-tu-to-develop-prizewinning-anti-malaria-a6680471.html
「ヨモギが癌細胞を死滅」 その内容は少し難しいかもしれませんが、 アルテミシニン 漢方として使われることの多いヨモギから抽出されるものは、癌細胞を破壊する力があり、健康な細胞1つにつき12,000個もの癌細胞を消滅させることができると! (参考は 科学雑誌「Life Sciences, Cancer Letters and Anticancer Drugs」)に発表された研究論文より発表されています。

また、アルテミシニンは 抗がん剤よりも34,000倍も正確に癌細胞だけを狙い、死滅させることができる! 驚きです!腰が抜けます! 世界には色々なヨモギの品種があります。日本の一般的なヨモギだと200g食べなければならないわけです。毎日、200gのヨモギを食べるのは簡単ではないように思います… とはいえ、この量は、既に癌を発症している人に対して薬効が期待できる量です。 まだ癌を発症していない人の癌予防には、これほどの量を毎日摂る必要はありません。

どのヨモギ属においても、アルテミシニンは花に一番多く、次に葉。茎と根にはほとんど無いらしく、日本では花を食べる習慣がないのが現状です。 それでもヨモギ(蓬)は万能薬草。 ハーブの女王です! 食べる(食卓に) 飲む(お茶として) つける(薬草として) 浸かる(お風呂に) 燃やす(お灸) 嗅ぐ(アロマ) ヨモギを食べたから癌が治る? という訳ではありませんが、 防除、安心です、副作用もないですから。

他効能として ほうれん草の3倍もの「食物繊維」や貧血やコレステロールに効く「クロロフィル」、免疫力を高め粘膜や皮膚を作ってくれる「カロチン」、止血効果のある「ビタミンK」などが豊富に含まれています。 食事だけでなく、自分を取り巻く様々なこと(環境、仕事、家族、人間関係など)を考慮してみましょう。 なんだか無性によもぎ餅を欲しませんか? 最後まで読んで頂き、ありがとうございました。 (文・中瀬由香)

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今週、星の遺跡に行きました時に、遺跡の近くの原っぱに、ヨモギが芽を出していました。少しですが摘んで帰ったのです。どこのもう野原や田の畦道にも、ヨモギが出ていることでしょうか。桜よし、ヨモギもよしの三月です。

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