台風10号

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台風10号の今朝3時の進路予報です。大きな被害をもたらすほどの大型台風だそうです。進路方向にお住みのみなさんの無事を願っております。
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歌人

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中学生の時、「白鳥」という名前の同級生がいました。“ はくちょう ”
ではなく “ しらとり ” と読みました。名前とは裏腹で、色黒で男っぽいな顔をしていました。体育大学に行って、卒業してから、高校の教師になったと聞いています。

中一の国語の時間に、

白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

という和歌を習いました。「酒仙の歌人」と言われた若山牧水の作です。その教師が、白鳥くんをからかっていたので、懐かしく思い出すのです。この教師は一級上の学年の担任をしていて、そのクラスに、若山牧水の孫がいました。この上級生の担任であるのを、自慢げに話していて、同級生をからかったりで、好きになれない教師でした。

牧水は、『百害あって一利なし!』の酒と旅を愛した「漂白の歌人」だと言われていますから、家族を顧みない気ままな人生を生き、早逝した人だったのです。そんな彼なのですが、その詠んだ歌は、多くの人。に愛されています。牧水が、次の歌を読んでいます。

山越えて 入りし古駅(こえき)の 霧のおくに 電灯の見ゆ 人の声きこゆ

失恋で、憔悴の思いで旅に出て、若き牧水が詠んだものです。私も一度失恋をしましたが、憔悴することも、旅に出ることもなく、あっさりと諦めてしまいました。でも男の執念でしょうか、時々思い出し、彼女を射止めた男を、殴ってやりたい思いを、若い頃に持ちました。これもまた若き日の夢のまた夢です。

感受性の敏感な男の失恋、全てを忘れたくて、牧水は、田舎行きの列車に飛び乗ったのでしょう。たどり着いた鈍行列車の到着駅で、「人の声」を、久しぶりに聞いたのでしょうか、その声を聞いて慰められた思いを、詠んだのです。

芭蕉にしろ、杜甫にしろ、旅を続ける自由と、迎え入れてくれる歌の友がやお弟子さんがいて、それを楽しむことのできる、そんな好い時代だったのでしょうか。彼らは傷付き易い人でもあったのでしょう。その歌は、飛行機や新幹線に乗ってでは、詠み得ない歌なのです。

人の声の懐かしさって、こんな私でも感じることがあります。家内と二人の話に、昨日は長男家族が加わって、交わされる会話、「人の声」が、なんとも言えず懐かしく、暖かく、慰められたのです。石川啄木の歌にも、

ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく

標準語しか話せない私でも、子どもの頃に育った村の方言の響きを覚えていて、新宿駅から、鈍行の中央本線の長野か、松本か、茅野あたり行きの列車に乗り込んだら、その方言が聞こえてきて、なにとはなく懐かしさがこみ上げてきて、啄木をした経験があります。

今、『職業は何ですか?』と聞かれたら、寺山修司だったら、「詩人」と応えるのでしょうけど、私は、『歌人です!』と応え様と心備えをしていますが、まだ聞かれたことがありません。上手に歌を詠めませんから、ちょうど好いのですが。

(青森駅の駅舎です)
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朝顔たより/9月12日

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この写真の後に、私たちの生活空間が写り込んでいます。昨日も、『ユリさん!』『ジュンさん!』と呼び掛けてくれる、5歳になったばかりのオシャマなお嬢さんが、来てくれました。友人夫妻がメロメロなお孫さんなのです。昨夕は、今夏久しぶりの涼しさを感じさせられました。やはり、さしもの暑い夏も、行こうとしています。

帰省の季節で、電車も道路も渋滞が始まったようです。子どもたちや孫たちの実家が、栃木に移ってしまって、帰省ならずも、訪問は嬉しいことでした。13年も、彼らの実家が、大陸にあったのですが、今は、海を渡らないで、「実家」が住むここに、電車やバスで来られ、自転車だって来られるでしょう。

北関東の夏が行き、初めての秋がやって来ます。果物栽培も盛んで、このお嬢さんのお父様が、先週は、「巨峰」を2房も届けてくださいました。美味しかった!

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満ち足りて

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水辺に青草が生え、そこを石垣が守っている構図が、友人の手で撮られていて、配信されています。羊がこんな所にやって来たら、安心して草をはむことができそうです。もちろん、ここは牧場(まきば)ではありませんが、そんなことを連想させる一葉の写真です。

「 他使我躺卧在青草地上,领我在可安歇的水边。 」、中国語訳の有名な詩を思い出しています。住む家、食べ物、飲み物、衣服、洗濯機、お風呂、それに今夏は少々暑過ぎますが、空調設備も整い、綺麗にクリーニングしてくださったマットと寝台とシーツ、夏掛け、まくらなど完備された家に、水辺で安息する羊の様に、満ち足りて、安心して横たわることが、私たちにはできています。こんな感謝はありません。

それに、優しい「人たち」がいてくださいます。見守り、助言してくださり、訪ね、美味しい物まで届けてくださる友や家族がいて、まるで楽園にいる様です。闘病する家内は、溢れるほどの感謝であります。

昨日は、長男家族の訪問があり、夕方7時過ぎまでいてくれました。お昼は、友人がうどんを作ってくれ、ほかの友人が、今夏始めての温州みかんを差し入れしてくれ、美味しくいただくことができました。立秋過ぎの日曜の一日でした。
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朝顔たより/8月11日

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” オーシンツクツク、オーシンツクツク “ と蝉の声がして来ています。アブラゼミではない、晩夏の蝉の ” ツクツクボウシ “ です。と言うことは、この狂気じみた暑さの夏が行き、秋が来るということなのでしょう。待望の蝉の声の聞こえる朝です。
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私の戦争

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日中戦争、太平洋戦争のさなか、父に下った軍命は、戦闘機の防弾ガラスの原材料を、石英の鉱床のある中部山岳の山奥で、掘削し、京浜のガラス工場に納めることでした。綺麗な結晶を見せる水晶の基盤である石英が、戦闘機に増産は急務だったからでしょう。父、三十代前半の〈報国〉だったからです。

甲府連隊長と懇意だった様で、父が山奥と街の事務所とを往復するのに使ったのは馬でした。それは、連隊長の軍馬よりも良いもので、連隊長が仕切りに欲しがったそうです。しかし父は譲らないでいる内に、子どもの発病で、栄養をつけねばならぬ父親が、世話をしていた、私の父の馬を無断で屠殺し、子どもに食べさせてしまったのです。そのことを聞いた父は、その馬丁の父親を責めることなく、不問に付した、と母に聞いたことがあります。

私は、中学生になった時、歴史を学び、人から戦時中のことを聞くに及んで、〈戦争責任〉を覚える様になっていきました。父の掘り出した石英で作られた防弾ガラス、それをつけた戦闘機や爆撃機が、朝鮮半島や中国大陸を攻撃して、多くの人命を奪ったと言う事実を蔑(ないがし)ろにできませんでした。

私が、華南の街に住み始めた時に、十代半ばの一人の少年が、わが家に来始めました。日本のアニメが好きで、アニメで日本語を覚え、日本人がいると聞いて、私を訪ねて来てから、毎週来る様になっていました。しばらくすると、彼を育ててきた祖父母が、家内と私を、家に招いてくれ、ご馳走してくださったのです。

お二人共、人民軍の位の高い退役軍人で、退役軍人用の住宅に住んでおいででした。私は、自分が日本軍の支払った給料で、産着やミルクや食べ物を与えられて育った子で、父が技術者として軍務で、防弾ガラス製造の一端を担ったことを、このお二人に語って、その防弾ガラスを装備した爆撃機でしたことを、お詫びをしたのです。

おばあさまは言いそびれていたのですが、安徽省の出身であること、生まれ育った村に、日本軍が上陸し、村を日本兵が焼き払ったことを、聞き出したのです。おじいさまは止めたのですが、私が、『是非!』と言いましたら、腕をまくって、その火で負った火傷跡を見せてくださったのです。でも彼女は、私たちを責めませんでした。詫びた私を赦してくれたのです。そして帰りしな、彼女は、『请再来吧/また来てね!』と言って、家内をハグしてくれたのです。

ある夏、教師の集いがあって、それに参加したことがありました。六、七十人の大学の先生たちの前に立った時、『どうして中国に来たのですか?』と聞かれたので、私は語りました。若い頃から、父の戦争責任を覚え続けてきて、いつか中国に行って、謝罪したかったことなどをです。

それで、私は、みなさんの前でお詫びをしました。そうしましたら、聞いたみなさんの反応が大きくて、十年も経って、再会した一人の方が、あの時の私の話に、感謝の言葉をくださったのです。多くの中国のみなさんは、私が戦争責任を詫びる必要がないと言ってくれました。でも、一人の日本人の姿を見てくださったのは事実です。
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第一次大戦の後、列強諸国に倣って、日本も、中国に、幾つもの街に、「日本租界」を設けました。その権益から、満州国を建国し、日本支配を拡大し、日中戦争を始め、1945年8月15日に、無条件降伏をして、戦争は終わったわけです。銃と軍靴で侵略したのは事実です。

父のしたことも事実です。戦後、子育て中の父は、戦争を語りませんでしたし、軍歌も歌ったのを、一度も聞きませんでした。ただ、軍馬を育てる内容を含んだ、〈めんこい仔馬〉を歌っていただけです。自分の愛馬を思い出していたのでしょうか。そして、満州国の国策企業の南満州鉄道で働いた青年期を、思い出していたのかも知れません。これが私の戦争なのです。

(石英と結晶した水晶、天津にあった日本租界です)
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白馬

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妻の手をとって白馬行の《祝誕生日山行き》の写真が、次男から送られて来ました。真夏というよりは、初秋の高原ですね。母親が、『背負ってわたしを連れてって!』と言いたそうにして見ていました。一度、白馬に行ったことがあります。行ったことがないスイス、みたいでした。
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栃木案内

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私たちの家の台所の窓から、高架になった鉄道線路が見えます。と言っても、その線路の上を走る電車の車体が見えるのであって、その電車が線路の上を走っているわけです。無理して背伸びしますと、「栃木駅」も見ることができる位置に、家があります。

ここから見えるのは、東武日光線と東武宇都宮線の上下線、JR両毛線の上下線の三車線が、けっこう頻繁に行き来しているのです。私たちが、おもに利用するのは、JR武蔵野線や地下鉄に接続している東武鉄道です。普通列車ですと、栗橋とか東栗橋で乗り換える必要がありますが、特急に乗りますと、新宿や浅草に乗り換えなしで行くこともできます。

この東武日光線は、浅草から東武動物公園前までは、伊勢崎線で、そこから分岐して、日光や鬼怒川に、そして会津まで繋がっている路線なのです。1929年4月1日の開業です。昭和初期に東京浅草と日光を結んだわけです。

一方、旧国鉄のJR両毛線は、宇都宮と群馬県の新前橋駅を結んでいます。以前、両毛線の大平下駅で電車を待っていた時、沿線の駅舎の清掃や管理をしておいでの年配の男性に話かけましたら、両毛線の由来を話してくれました。宇都宮も前橋も、旧陸軍の連隊があって、軍用目的で敷設し開業されたのだそうです。

今では沿線の人口が減ってしまい、利用客も激減しているそうで、こう言った路線は、廃線とか第三セクターの経営に移されていくのでしょうか。その方は、かつての賑わいを覚えておいでで、現状を嘆いていました。やはり若者は一旦都会に出たら、戻って来るのは難しくなってしまうのでしょう。

渡良瀬川や利根川の大河川を渡ると言うのは、地方と都会の分断の役割をしていて、鉄橋を渡って仕舞えばなんてことはないもですが、心理的に遠さを覚えてしまうのでしょうか。そう言えば、多摩川の流れのそばに、父の家がありましたから、都心と三多摩は、京王、小田急や東急などの私鉄があって、距離的には近いのに、渡った側は随分と田舎かな感じがしてしまうのと同じなのでしょうか。
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それは江戸幕府が、大きな主要河川の架橋を許さなかった、都市防衛の後遺症なのかも知れません。でも、この田舎の感覚が、私にはいいのです。押しこくられたり、引っ張られたりすることのない行動ができ、自分の意思で動けるのがいいのです。水や空気は清く、吹く風は心地よく、空も近いし、夕焼けが綺麗なので、今日を明日につなげられる感じが強く感じられます。

まだ県都・宇都宮に行ったことがありません。そこは50万都市だそうで、東京首都圏では大きな街なのです。行く用がないからで、どうしても南志向で、東京の方に、足も思いも向いてしまうのでしょう。息子たちや兄弟や友人たちが、そこに住んでいるのですから仕方ないのでしょうか。表彰してくれることがあったら、借りたモーニングでも着て、県都に行くのですが、そんな話はなさそうです。

地震が二、三度ありましたが、『自然災害の少ない街なんです!』と、友人は自慢していましたし、住み心地は抜群で、感謝で思いはいっぱいです。

(両毛線の大平下駅の近く、かつての栃木駅です)
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花花‘s8日

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誇り

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盛岡藩で、私は二人の人物を知っています。一人は、浅田次郎の書かれた、「壬生義士伝」の主人公の「吉村貫一郎」です。下級武士の吉村は、節を折って脱藩し、新選組の隊士となって、幕末の京都を舞台に生きて死んでいきます。同じ隊士の齋藤一に、〈ふるさと自慢〉をする下りがあって、盛岡という街が、おおよそ想像できるほど素敵な街であることが分かります。

日本でも、最も貧しい地域に、襲った飢饉や不作で生活が困窮して、脱藩を余儀無くされたのが吉村でした。きっと彼こそは、生粋の盛岡人なのでしょう。もう一人は、同じく盛岡藩士の子、「新渡戸稲造」です。幼少の頃から西洋への憧れを持っていたそうで、札幌農学校に学び、『太平洋の橋にならむ!』と青年期に夢を語り、後に、「武士道」を英語で書いて、日本と日本人をアメリカ社会に知らしめた人です。
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新渡戸は、国際連盟の事務次長を務め上げた、広く世界を見ることのできる見識の人でした。この新渡戸が、次の様に言っています。『一体祖先とはだれをいうのか、昔から朝鮮人や支那(中国)人がやって来て、混血したのが、わが祖先だ。誇るべきは人種の純粋さではない・・・我々の系図の中に朝鮮人や支那人の入っているのを寧(むし)ろ誇(ほこり)とする時代が来るであろう』とです。

民族の純粋性を誇ろうとしてきた日本人の出自を、そう告白できた新渡戸に感心させられてしまいます。青年期には、手のつけられない暴れん坊だったそうですが、札幌農学校に学ぶ内に、穏やかな性質を持つ様に変えられたと、級友が書いたものを読んだことがあります。

前者の吉村貫一郎は、小説中の人物で、モデルになった人はいたのかも知れませんが、作者の創作が、そう言った人物像を描いたのでしょう。でも、新渡戸稲造は実在の人でした。この人の物言いは、一民族や一国家を超えたもので、二十一世紀の私たちが、中国や朝鮮半島の人や文化や習慣に、強く太いつながりがあること、それを誇れる様にされたいものです。

(盛岡市内から岩手山を望む、国際連盟事務次長時の新渡戸稲造です)
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