花が咲いた

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アメリカの北西部にいる次女から、今週、写真が送信されてきました。日本と同じ様に、暖かいのでしょうか、春の到来が早くなっています。写真を観て、ホッとしています。陽の当たるわが家の窓辺にも、サルビヤやシクラメンや胡蝶蘭、名前の分からない花が咲き誇っています。確実に、そこは、もう春なのです。

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恐れるな!

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さしものオーストラリアの山火事が、豪雨の襲来で鎮火したニュースを聞いて、ホッとしました。その焼け跡の木から、新芽が出てきている写真が、友人から送られてきました。時々、ユラユラや、ドスンと体感する地震が起こったり、火山が爆発したり、人身が冷えたりして悲しい事件も頻発しているニュースも、多く聞こえてきます。世界中を不安にしている疫病も、どう収束していくか不明です。

そんな中で、『恐れるな!』との声が聞こえてきます。しっかり時の流れを見つめながら、風評被害の渦に巻き込まれない様にしたり、慌てたりしないことだと、自分に言い聞かせています。

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渋沢栄一

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江戸五街道の一つ、「中山道」は、日本橋から、日本の内陸を通って、京にまで至る、六十七の宿場を持った主要街道でした。その宿場町の一つに、日本橋から数えて、9番目の「深谷宿」がありました。

明治維新の後、この宿場は、「深谷市」となっていきます。この深谷は、「深谷ねぎ」で有名ですが、ねぎには比べられない、人物を産んでいます。次期、1万円札の肖像となる、「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一のことです。市のホームページでは、次の様に、この方を紹介しています。

『渋沢栄一は天保11年(1840)深谷市の血洗島の農家の家に生まれました。幼い頃から家業である藍玉の製造・販売・養蚕を手伝い、父市郎右衛門から学問の手ほどきを受けました。7歳になると下手計のいとこの尾高惇忠のもとへ論語をはじめとする学問を習いに通いました。
 20代で倒幕思想を抱き、惇忠や惇忠の弟の長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城乗っ取りを計画しましたが、長七郎は京都での見聞からこれに反対し計画は中止されます。その後、喜作とともに京都へ向かい、一橋(徳川)慶喜に仕官することになりました。
 一橋家で実力を発揮した栄一は27歳の時、慶喜の弟徳川昭武に随行し、パリ万国博覧会を見学し、欧州諸国の実情に触れることができました。明治維新となって帰国すると日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を静岡に設立し、その後明治政府の大蔵省に仕官します。栄一は富岡製糸場設置主任として製糸場設立にも関わりました。大蔵省を辞めた後、一民間経済人として株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れるとともに「道徳経済合一説」を唱え、第一国立銀行をはじめ、約500もの企業の設立に関わったといわれています。また約600もの教育機関・社会公共事業の支援と民間外交にも熱心に取り組み、数々の功績を残しました。』
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日本の資本主義の実践や確立のために、この渋沢栄一は、大いに貢献をした人で、実業界ばかりではなく、教育界でも、大変な働きをされています。政治的には、貴族院議員に選任されますが、第一回帝国議会に、一度出席しますが、それ以降は、出席せずに、辞任してしまいます。その代わり、多くの会社を起こしたことは、特筆に値します。

ノーベル賞候補に、二度も推挙されているのだそうで、その経歴は、驚くほど多彩です。『人は全て自主独立すべきものである。自立の精神は人への思いやりと共に人生の根本を成すものである。』という言葉を残しています。

(深谷市の市花の「チューリップ」です)

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伴走者

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今年は、オリンピック、パラリンピックが、東京で開催されます。陸上競技のマラソンは、《オリンピックの華》と呼ばれる競技で、前回、1964年の東京オリンピックでは、円谷幸吉選手が健闘しています。

またパラリンピックにも、マラソン競技があります。その競技者には、「伴走者」がついて走ることができます。この伴奏者については、次の様に解説されています。

『良い伴走者とは障がい者ランナーが安心して走れる伴走者です。では目が見えない障がい者ランナーが安心して走れるとはどういうことでしょうか。
まず最も大切なことは視覚に障がいがあるランナーが安心して走れるように安全を確保し、周りで何が起きているか状況を説明することです。またランナーが走りやすいようにフォームや走路、ペースに気を配りましょう。最後は目標を持って走れるようタイムなどを管理することが大切となります。そのほか障がいの程度や現地までの移動手段、コースや周囲の状況などで必要なことが違ってきます。
視覚障がい者の方にしかわからないこと、感じられないことも多くあります。また一人ひとり不安なことや知りたいことも異なります。ここに挙げたことはほんの一例だと思って、相手が何をしてもらいたいかをよく話し合って下さい。(JBMA/日本ブラインドマラソン協会)』とです。

この「伴走者」に似てる役割やことばに、「伴侶」があります。「人生の伴侶」、一緒に生きていく夫や妻のことを言っています。「伴侶」は、双方ともが人生の道を走る競技者なのです。それは競争相手ではなく、ともにゴールを目指して、助け合いながらいく仲間です。

私にとっての一番のモデルは、父の伴侶、私たち四人兄弟の母です。また母にとっての、私たちの父です。私には、賞状を差し上げたいほどの両親でした。地方の名門に生まれながらも、名門なるがゆえの仕打ちを受けて育った父と、婚外で結ばれた両親の望まれない子として生まれ、養女として育てられた母でしたが、『良くやった!』と、両親を褒めたいのです。

それぞれに逆境や危機があったのですが、それを超えて、親業を全うしてくれたからです。自由で、したいことをさせてくれ、曲がったことをすると矯正して、叱ってくれたのです。ちょっと方法はきつかったのですが、それもまた益でした。何よりも、教育を受けさせてくれたことは感謝に尽きません。

育ち盛りで、乱暴な男の子に、三度の食事を、工夫を重ねて作って食べさせてくれ、綺麗に洗濯した服を着せ、暖かな布団に休ませてくれたのです。決して手を抜きませんでした。まさに《傍(かたわら)を共に》伴走、併走してくれて、社会人として生きる様に備えてくれたのです。

中学校3年間、担任をしてくださった恩師が、長男を連れて母校訪問した時に、『お母様と同じ道を歩んでいるのですね!』と言ってくれたことがありました。恩師には、母の歩む道が分かっていたのでしょう。そんな母を誇りに思ったのです。

マラソンの伴走者は、途中で交代できるのだそうです。結婚も、育ての親から配偶者への《伴走者交代》なのかも知れません。

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月見草

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真夏に強烈な太陽に向かって、蝉の大合唱の中を、子どもたちが虫取り網を手に走って行く道の脇に咲く、「向日葵(ひまわり)」こそ、一番賑々しく咲く花でしょうか。それに引き換え、夕日が沈みゆく、川岸の雑草の中に、ひっそりと咲く「月見草」は、寂しそうです。

昨日、日本野球界で、名選手、名監督、名指導者、名解説者と名を馳せた野村克也氏の訃報を聞いて、この二種の花を思い出したのです。野球通を唸らせて、野球人生を送った方でした。パ・リーグという日の当たらないリーグで活躍をし、王貞治、長嶋茂のキラキラと輝くセ・リーグの影に隠れていたのです。それで王、長島の影にいたご自分のことを、次の様に述懐していました。

『花の中にはヒマワリもあれば、人目につかないところでひっそりと咲く月見草というのもある。王や長嶋はヒマワリ、俺は月見草。自己満足かもしれないが、俺はそれでいいと思っている。人気のないパ・リーグの少ないお客さんの中でも一生懸命やってきた意地が、600号につながった。華々しい場所で野球をやる王、長嶋の存在があったからこそ、俺はここまでやれた。(1975年5月22日、日本ハム戦で通算600本塁打を達成して)』
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お父上を、子どもの頃に亡くして、お母さんの手で育てられ、新聞配達やアイスキャンディー売りをしながら、家計を助けていたそうです。野球選手に憧れていて、京都の府立高校を卒業後、南海ホークスのテスト生として、無給で入団するのですが、鶴岡一人監督に見出されて、押しも押されもしない名捕手、名バッターとして大活躍をしたのです。

日米野球の際、メジャー・リーガーのウイリー・メイズにより、その姿や行動が、「ヘラジカ」に似ていたそうで、「ムース」と呼ばれ、それがそのままあだ名となった様です。そう言えば、若い頃の野村克也は、口が重く、くぐもった喋りをしていたのを覚えています。何か、ヌーっとした感じでした。ところが、監督や解説者になってからは、「野村語録」と言われるほど、野球や人生や人物への評が、優れていました。

日本の野球界では、最高峰に輝く人でした。84歳で亡くなられたのですが、六十代半ばで召された私の恩師と同じ歳の生まれでした。子どもたちに野球を指導するときも、精一杯の指導をされたそうです。貧しい幼少年期をてこに、野球を極めた方の訃報は、とても寂しいものがあります。花期が6月から9月の月見草が、咲く頃に、思い出しそうです。

(南海時代の鶴岡和人監督と野村克也氏と月見草です)

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津田梅子

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私の同僚に、津田塾大学を卒業された才媛がいて、後に校長になっておいでです。この津田塾を開学したのが、次期五千円札の肖像となる、津田梅子です。父、津田仙は、江戸時代の末期、下総佐倉藩士の家に生まれ、津田家に養子として入り、明治維新以降、北海道開拓使の嘱託となり、後に、青山学院や盲学校の設立に関わっています。

梅子は、1871年、六歳で、アメリカに留学しています。父の上官、黒田清隆の薦めで、仙は梅子を応募させ、選ばれて、太平洋を渡るのです。両親は、どんな思いで、黒船を送り出した未知の国に、いたいけのない娘を留学させたことでしょうか。小学校一年の年齢です。梅子は、健気にも、ワシントン近郊のジョージタウンで過ごしています。在米十数年、親元を離れて生活をしたのです。

私の次女も、梅子とは比べられませんが、15才で、ハワイの高校に入学しています。友人が受け入れてくださって、3年間、アメリカで教育を受けたのです。ある時、家内が、その娘の様子を見に、ハワイに出掛けたことがありました。空港で別れ際に、大粒の涙を浮かべて、母親を見送っていたそうです。推して知るべしで、梅子にも涙があったことでしょう。
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梅子と同時期にアメリカに留学した女子の中に、後に大山巌(薩摩藩士、明治政府では陸軍大臣、文部大臣を歴任している)夫人となる、山川さき(母親が『捨てて帰国を待つ』との思いでアメリカに留学させるにあたって、「捨松」と改名しています)がいて、年齢の上の捨松が、梅子の面倒をみた様です。150年も前の、しかも女子の留学をしとげたのは、驚きです。

梅子は、女子教育に生涯を捧げ、帰朝後は、華族女学校で教壇に立ち、三年余後に、再びアメリカに留学します。1900年に「女子英学塾(津田塾)」を開学しています。この学校では、学生の主体性を重んじて、校歌、校章、校旗を持たないのです。『自ら学び、考え、行動せよ!』を、建学精神としています。

(右から二人目が津田梅子です)

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夕暮れには

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「潮時」と言うことばも、誤用が多いと言われています。

平成24年度の「国語に関する世論調査」で、「潮時」の意味を尋ねました。結果は次のとおりです。(下線を付したものが本来の意味。)

(ア)ちょうどいい時期・・・・・・・・・・・ 60.0%
(イ)ものごとの終わり・・・・・・・・・・・ 36.1%
(ア)と(イ)の両方・・・・・・・・・・・・ 2.5%
(ア),(イ)とは全く別の意味・・・・・・・ 0.4%
 分からない・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1.0%

それで、「ものごとの終わり」と思って使う人には、「引き際」を使う方がいいそうです。「潮時」は、本来は、“ good timig” という意味で使われるべきなのです。

私は、学校を出てから5年間働いた職場を退職しました。その後、36年間勤めた職場を辞し、昨年まで、13年間、仕事をした中国から帰国しました。我が儘な理由ではなく、「引き際」を確信したからです。それが正しい決断であったかどうかは、転職後が、どうだったかによります。

『石の上にも三年!』と言われるのですから、5年も、36年も、13年も、《合格点》をもらっていいのかも知れません。何か知れない大きな手が、自分の将来を決めて導いているのを、何時も感じたのです。「潮」は、満潮で満ちてくる時と、引き潮で引いていく時が、交互になされていますので、好ましいことが満ちて到来した時と、引くべき時の到来と、自分に都合や感情で、使ってしまうのでしょう。

この場所の終了後、豪栄道というお相撲さんが、惜しまれつつ、相撲人生に終止符を打ちました。「引き際」を、よく心得た決断だった様です。体力よりも、気力の衰えがやってくると、激しい稽古を必要とする競技は、続けられなくなるのでしょう。誰にでも退潮の時、引退すべき時がやってきます。

称賛を一身に浴びたスターにも、どの世界の指導的存在も、一日に、朝があり、夕がある様に、「夕暮れ」がやってきます。ところが、私の愛読書には、『夕暮れに、光がある!』とあります。人生の晩期に、枯渇や闇ではなく、煌々と輝く光が溢れるのだと言うのです。私たちの明日が、光り輝くとしたら、今日を感謝と喜びで生きていたいと思います。

(“趣味のアウトドアー” からです)
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遠足

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昨日は、冷たい日でしたが、北風が弱かったこともあり、意を決して外出しました。若き友人の運転で、市の郊外にある「花センター」に連れて行ってもらったのです。蘭の花が綺麗に咲き誇り、熱帯や亜熱帯の植物園で、懐かしい花や木々を眺めて歩きました。週日でもあり、貸切一歩手前といった温室でした。

一年有効の入管パスポートを買いましたら、同額の買い物券をいただいてしまいました。もう少し暖かくなったら、また訪ねたいなと思って、日本蕎麦を食べて帰宅したのです。久しぶりの「遠足」でした。おにぎりと沢庵を持って、もう少し暖かくなって、芝生の上で、それを広げて食べられたらいいな、と思ったところです。

娘たちの代わりを、買って出て、遠足にお誘いくださった友人は、五歳の女の子のお母さんで、子育て真っ盛り、お嬢さんを幼稚園に送って、迎えまでの間、私たちの世話をしてもらったわけです。今、"春よはやくこい!"の《ミヨちゃんの心境》です。

(iPhoneで撮って送信してくださった写真です!)

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北里柴三郎

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新しい紙幣が、2023年に発行されるそうです。一万円札は渋沢栄一、五千円札は津田梅子、千円札は北里柴三郎の肖像が決められています。渋沢は埼玉県深谷市の農家、津田は新宿在住の幕臣、北里は熊本県小国町の庄屋の出身で、それぞれ、素晴らしく社会貢献を果たした人たちでした。

病弱だった私は、医学の助けを受けて、助かったのだと母に言われてきました。『今度肺炎になったら死んでしまいます!』と医師に言われ、咳や熱やだるさがあると、学校を休んで、隣町の国立病院に、母に連れて行かれて診察してもらいに行ったのです。

帰りに、粉薬と水薬をもらって、駅の近くの売店で、アメリカ製のガムやキャラメルやレーズンを買ってもらえて、病院通いは苦痛ではありませんでした。でも、学校に行けなかったのが、悔しかったのですが、休んで床についていると、少しでも元気になって欲しくて、リヤカーで引き売りする魚屋さんから、母が、「刺身」を買って食べさせてくれました。

病んで兄弟よりもいい目にあったので、病いとの対決意識がなく、死にそうな病に罹って治ったなら、『医者になろう!』と思ってもよいはずなのに、そんな願いを持つことはありませんでした。でも、病理学者の北里柴三郎は、尊敬できる日本の誇りだと、子ども心に思っていました。

阿蘇の麓にある、北里柴三郎の出身地の小国町には、友人に連れて行ってもらい、訪ねたことがあります。阿蘇の雄大な地形の中にある街で、青々とした牧草で溢れていました。その功績を、次の様に残しています。
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『1886(明治19)年、ベルリン大学に留学し、結核菌やコレラ菌の発見で世界的に有名なロベルト・コッホのもとで研究をはじめた北里博士は、「破傷風菌の純粋培養」に成功し、師のコッホをあっといわせました。破傷風は破傷風菌が傷口などから体内に侵入して増殖すると、細菌がつくる毒素によって、けいれんなどの症状があらわれ重症になる疾患です。当時、破傷風菌を単独で取り出して純粋培養することができず、有効な治療はありませんでした。
北里博士は破傷風菌の毒素を少しずつ動物に入れると菌の毒に対する耐性ができて、大量の毒素を注射しても発病しないことを突き止めました。この研究の成果をもとに、破傷風の血清療法を生みだし、伝染病の予防に大きく貢献しました。その後、この血清療法をジフテリアに応用するなど、免疫医療の先駆者として高い評価を受けました。(この他にも、ペスト菌の発見、慶應大学医学部や北里大学の解説にも尽力しています)』

軍人志望から、『医者の使命は病気を予防することにある」!』と思い立って、医学に目を向けて、予防医学に、生涯を捧げた78年を捧げて生きた人でした。

(熊本県阿蘇山麓の風景です)

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胡蝶蘭


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我が家で一番混み合ってる箇所に、「胡蝶蘭」の鉢があり、花を落として、しばらくしてから、新芽が出てきて、今週、花が開きました。今朝は、今冬一番のマイナス5℃、体感マイナス7℃だった様です。そん中に、花が咲いているのは、素敵です。

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