わが家で咲いている花々

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 春なのでしょうか、冬と春が行ったり来たりしているのでしょうか。先日、わが家を訪ねてくださった親しいご婦人が、ご自宅の庭に咲く、「クリスマスローズ」の花を届けてくれました。孫娘が昨年末に滞在した間に、家内に買い求めてくれた「バラ」です。そして、上の娘が誕生日に贈ってくれた「胡蝶蘭です。もう六期目の花で、とても元気に咲いています。花の季節がやってきた様です。

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赦し

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 先日、「罠師(わなし)」と言う資格があって、そのための試験を、都道府県が行っているのだそうで、初めてお聞きしました。この試験には、①知識試験、②適性試験、③技能試験の3種類があるそうです。合格すると、「狩猟免状」が、都道府県地知事によって発行されるのです。

 いわゆる「ハンター(Hunter)」になるためには、それが必要なのです。子どもの頃に、すぐ上の兄が、そういった罠を、熱心に作っていたのを覚えています。鰻を獲るための罠を、懸命に作っては、それを持って、朝早く川に仕掛けに出かけていました。またスズメなどを獲るためにも、「バッサリ」を作ったり、「かすみ網」を仕掛けていました。

 こちらに住み始めて、両毛線で桐生駅まで行って、「わたらせ渓谷鉄道」に乗ったことがありました。停車中の運転手さんと会話をした時に、『時々、走行中に鹿と衝突するのです!』と言っておられ、その事故処理のために、足元に、大きめなバッグがあって、その中に、そのための道具があるのを教えてくれたのです。

 熊とか猪は、そんなことがなく、いつも鹿が線路上にいて、逃げないので、衝突してしまうのだそうです。まだ若い運転手さんが、そう言っていました。単線走行の鉄道ですから、その場で自己処理をする必要があるわけで、確かに渡良瀬川の渓谷に沿って運行しているので、景観の美しさの反面、そんなこともある様です。この方に、『大変ご苦労をされるんですね!』とねぎらったのです。

 乗務員の方に、その免許が必要なのかどうかはお聞きしませんでしたが、講習会を受けることがあったのでしょうか。都会を走る電車にも、大変な危機が多くあるのですが、山間部に鉄道にも、けっこう危険なこともあるのですね。

 畑を荒らす猪を捕獲するための仕掛けを作るには、免許取得が義務付けられているのですね。その狩猟をする人が、「罠師」なのだそうです。若い頃に、鹿や猪や熊の肉を煮込んだ猪鍋、「シビエ料理」を食べたこともありました。けっこう美味しかったのです。

『悪者どもは私に対して罠を設けました。それでも私は あなたの戒めから迷い出ません。(新改訳聖書 詩篇119篇10節)』

 それで、『自分を罠にはめた人がいたかな?』と、思ってしまいました。世の中には、詐欺師は多くいる様で、華南の街の路上で、焼きとうもろこしを売っている商人(?)から、2本買った時に、釣り銭サギにあったことがありました。まんまと嵌められてしまったのです。

 どうも、「戒め(神さまが定められ、人が生きていくための教えや戒めのこと)」を破る様に、虎視眈々(こしたんたん)と、人を誘い出して、迷いでる様に罠を張る、実に巧みな魂を狙う敵がいるのです。

 あのダビデも誘い出されました。王宮の屋上から、湯浴(ゆあ)みする女を見たダビデが、夫のあるその女を欲するのです。何を見るか、見つめ続けるか、目に注意しなければなりません、人は、「見ること」によって誘い出されることが、往々にしてあるからです。誘い出されたダビデは罪を犯してしまいます。

 その女が、妊娠の事実をダビデに申し出ます。誰の妻であるかを調べさせると、その時、敵国との戦いの最中で、戦に駆り出されている兵士、ウリヤの妻だと分かるのです。

 その妊娠の事実を夫によるものだとするために、画策するのです。ウリヤを戦いの前線から取り戻して、一時休暇を与える様に、軍の隊長に命じます。ところが、ウリヤは戦友たちが戦っているのに、自分だけが妻の所に帰るのを拒んだのです。

 罪の隠蔽は、さらに続きます。今度は、ウリヤを戦いの最前線に出して、死なせる様に、上官に命じるのです。それで、ウリヤは戦死してしまうのです。安心したダビデは、ウリヤの妻を自分の妻として迎えるのです。そしてその女から生まれる子が、第三代のイスラエルの王に任じられるのです。
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そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」(マタイ21章9節)』

 イエスさまは、ご自分を「ダビデの子」と言われることを許容されました。そんな過去があるダビデの名で、ご自分が呼ばれるのを快(こころよ)しとされたのに、驚かされます。聖書は、そんな主を愛し、賛美し、仕えてきたダビデの真実を伝えるために、暴露記事を聖書に載せるのを許されているのです。

 罠は、どんな優れた信仰の勇者、強者にも張られます。私は、聖書が、登場人物を記すのに、実に正直であることに驚かされています。人の実態を、隠さない正直さに、だからこそ本物の、神の使信のことばだと信じるのです。

 金銭、異性、名誉、そう言ったものが、『ある時に、心の隙に、スルリと入り込んで、人を堕落させるから、その罠に陥らないで、十二分に注意して生きていきなさい!』と、何度も促された若い日がありました。

 ダビデは破廉恥な、悍(おぞ)ましい罪を犯しましたが、「赦しの神」は、赦されたのです。人は赦してくれませんが、父なる神は、イエスさまの十字架のゆえに、赦してくださるのです。赦されるとは、その汚点さえも、消し去ってくださるほどのことなのです。これこそ驚きの極みです。

(ウイキペディアのイラストです)

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春まだき流れの漣に思う

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※動画  IMG_3292(巴波川の瀬音です) 

 この写真は、まだ淡き春の巴波川の漣です。今朝方、氷点下の気温の中、冷たい雨が降り止んでいましたが、大平山が白くなっていましたから、夜間には雪だったのでしょうか。

 これは、昼近くなった我が家のベランダから撮った写真です。春の陽光を波が輝かしているのです。この街の北の湧き水を集めて、数えきれないほどの時を、恩恵に預かった人々と関わり合いながら、綺麗な川の流れがあって、その川のl水は、太平洋に届き続けてきました。

 この流れの上流、私の散歩する、巴波川の流れで、起こりかねない洪水を防ぐために、地下に、逃げ水を送る水路の工事を敷設する工事が始まっています。工事責任者が、私に行く道を横切っておいででしたので、こちらから話し掛けて、お聞きしたお話で知りました。

 想像を絶する量の防雨が降ることを予測しながら、市が企画して、工事が始められています。この栃木県は、海のない内陸の県ですので、海が見られない分、河川の利用が、かつて盛んだったのです。この巴波川が流れ込む渡瀬川、日光連山から流れ下る鬼怒川、那須岳を原流にする那珂川などでは、どこも「舟運(しゅううん)」が行われてきていました。

 鬼怒川や那珂川の上流の山林には、和紙の原料になる楮(こうぞ)が刈り出され、樹皮を加工して和紙作りが行われてきたのです。とくに「烏山和紙(程村紙)」を産する那須烏山は、常陸国と上野国境に位置していて、かつては常陸国で、江戸期には水戸藩の領地だった様です。その和紙は水戸藩の貴重な財源だったそうです。

 仏教が、中国を経由して日本に伝わる様になって、その仏典の写経(しゃきょう)が行われてきて、そのための用紙として、この烏山周辺で作られた和紙が珍重された様です。奈良時代の760年に発信された文書の中に、「写経料紙を産出」と書かれていて、厚紙の高級紙が、中央に送られていたようです。

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 山深い、下野国と常陸国の間の村では、和紙の原料の楮の需要が増すに従って、植林がなされていった様です。また烏山の東側に、現代の常陸大宮市ですが、高部(たかべ)という村があって、そこで産出するから「高部和紙」も、同様に盛んに作られていったそうです。

 その和紙は、山を越えて、那珂川や鬼怒川の舟運を利用して運搬されていて、帰り舟で、他に物資の運送も、運ばれて来て、驚くほどに舟運が盛んになっていったのだそうです。

 きっと川辺の河岸までは、馬や牛の背に乗せて運んで、集積されて運び出されたのでしょう。鬼怒川は、陸奥(東北)の諸藩の年貢米の輸送のためにも利用されたのだそうです。宇都宮の北に、氏家という、奥州街道に宿場町だった町がありますが、その流れにある阿久津河岸も、舟運の集積地として栄えた様です。

 車や鉄道が誕生する以前、交通革命が起こるまでの長い期間、全国で、河川は輸送路として、大いに活用されていたのです。時々氾濫しますが、川の恩恵は大きかったのでしょう。静かに流れ下る川の流れを、朝な夕な眺めて、そう思うこと仕切です。

 我が家の窓下の巴波川に落ちる一滴の雨水が、運ばれて江戸湾や銚子あたりに到達するには、どれほどの時間がかかるのでしょうか。そんな研究もなされているのでしょうか。ですから、発泡スチロールで舟か筏を作って、川下りしてみたい様な誘惑に、いまだに誘われている私です。

(ウイキペデイアの栃木県下の河川の様子です)

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美味しい思い出ばかりが

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KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA

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 私たちの父は、子どもたち四人を喜ばす術(すべ)を心得ていたに違いありません。きっと、どんな風に喜ばせるかの”policy “があったにちがいありません。『男ばかり四人の子が、不良にならないための秘策だった!』に違いなさそうです。兄弟間で技を磨いたので、喧嘩だけは強かったのです。『泣いて帰って来たら家に入れない!』と言われて、晩飯にありつくために、そして温かな布団を確保するためにも、泣き面で帰って来るわけには行かなかったからです。

 そんな四人に、アイスクリーム製造機を買ってくれたことがありました。手回しのドラム式で、ドラムの中に氷と塩を入れて、ハンドルで回して、トレーの中の卵やミルクや砂糖の液が、ドラムにくっつくてくるのを、ヘラでこそぎ落として、アイスクリームとして器に入れて食べさせてくれたのです。あれは美味しかったのです。

 東京から仕事を終えて帰って来る父は、ソフトクリームをドライアイスのケースに入れて持ち帰ってくれました。コーンに入れたミルクいっぱいのあの味も忘れられません。あん蜜、ケーキ、薄皮饅頭、鰻の蒲焼、カツサンド、佃煮などなど、あの時代に、あんなに恵まれていたのは、我が家だけだったでしょうか。

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 札幌の整形外科病院で、「腱板断裂」に治療で入院したことがあって、その術後の診察で、家内同伴で、再び病院を訪ねたのです。帰りに、函館の教会を訪ねました。若い頃から兄の様に慕っていた牧師さんが始められた教会でした。あいにく、他の教会の奉仕で出張されておいででしたが、その礼拝に出て、函館の空港から飛行機に乗ったのです。その時、ロビーの売店で、美味しそうに、年配の外国人の方がソフトクリームを食べていて、見てたらつられて、買って食べたことがありました。

 このsoft creamですが、8年間、共に過ごした宣教師さんが、流石のアメリカ人でしたので、甲斐清里のソフトクリームが大変好きだったのです。その後も、東京の母教会がある市の運営する宿泊施設が、八ヶ岳山麓にあって、そこで何度も交わり会を持ったのです。交わりの合間に、そのソフトクリームを食べた、いえ舐めた懐かしい思い出の味なのです。

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 それは、ポール・ラッシュが、1938年、日米開戦前に始め、戦後に再開した、「キープ協会(Kiyosato Educational Experiment Project)」があります。そこで日本中から若者がやって来ては、おもに酪農の研修をしたのです。広大な敷地の中に、宿泊施設や、記念館や、創設者のPaul Rush が過ごした家が残されてあります。そこに清泉寮があり、ソフトクリームの売店もあって、大人気なのです。あの宣教師さんは、二つも食べたことがあったほどでした。

 宣教師さんの友人たちが招ねかれては、そこで学び会をしたことがあります。懐かしい写真が残されていますが、みなさんすでに帰天されていてしまいました。思い出ばかりの地でもあります。

『このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き延べ、その万象に命じた。 天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てた方、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造った方、まことに、この主がこう仰せられる。「わたしが主である。ほかにはいない。(新改訳聖書 イザヤ45章12、18節)』

 神さまが造られた世界を、飛び駆け回り、そこに産する物を食べて、ただ恩寵のうちに生かされてきました。その神さまは、父と母の愛の中に育つ様にしてくださったのです。理想的な家族ではなかったのですが、ただ神の憐れみによりました。父の策が奏功したのでしょうか、4人は踏み外すことなく生きてこれたのです。駆け回った野原や魚を釣り上げ、水遊びをした川などの創造の世界が、光や闇の中に、その面影が浮かんでまいります。

(ウイキペディアの清泉寮の牧場、ジャージ牛、ソフトクリームです)

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良質な物を求めること

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 若い日に、コールマン髭を生やした聖書教師と出会ってから、その感化ででしょうか、二度ほど、私も、ヒゲを生やしたことがありました。でも似合わなかったので、やめてしまいました。何よりも家族からは不評だったこともあってです。

 すぐ上の兄も弟も、現役を髭をたくわえていて、次男も顎髭を持っていて、ヒゲばやりです。歳を寄せてきますと、ヒゲ剃りがおっくうになるからかも知れません。また、若い頃にしたかったけども、やらなかったことを、今になってやり遂げているのかも知れません。

 髪の毛が薄くなった分、ヒゲの伸びが早くなってきたのでしょうか、今朝もアゴをさすりますと、だいぶ伸びているのです。でも、コロナ騒動以降、マスクをすることが多くなり、ヒゲ煽りを怠けても、隠すことができるので、つい怠け気味になってしまっています。

 威圧感を与えたり、人を拒否する様で、ちょっとえらぶっていたのかも知れません。ただちちはが、『髭を生やしたら俺の親父にそっくりだ!』と言っていました。警察官が誕生した時、武士階級からの転職者が多く、明治の警察官は、「邏卒(らそつ)」と言われていて、等しくヒゲオヤジでした。威厳を表して威圧する様で、庶民からは、これも不評でした。

 『おいっ!こらっ!』の警官の不審者への呼びかけが、昔ありました。そんな口調で呼び止められた覚えがあります。そう、これは「薩摩弁」だと言われていて、明治期、薩摩藩士の多くが邏卒だった名残なのだそうです。そう威張り散らしていたのです。栃木黒羽出身の大関和が、その横柄ぶりを正す様に、警察官部に進言して、『もしもし!』のやさしいく親しみやすい呼びかけに変えられたのだそうです。

 けっこう劣等感を隠すような動機もありそうです。私の父親は、ヒゲをたくわえる様なことがありませんでした。会社をやっていた頃には、ブショウヒゲを平気でいたことは全くありませんでした。帰宅してお風呂に入った時に、いつも剃っていたのを見かけました。

 今は見かけませんが、フェザー製の安全剃刀を、父は使っていました。使い終わると、かならず次回に備えて、歯を外して、コップの内側に、刃を当てて、砥石がわりにして、人差し指で研いでいたのです。物を大切にする人で、しかも身の回りの物は極めて少なかったのです。それなのに、身だしなみがきちんとしていたのです。

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『また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。 そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。 こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、 そこにすわって、イエスの見張りをした。(新改訳聖書 マタイ27章30~36節)』

 私を育ててくださった宣教師さんが、主の働き他人の身なりや生き方にも、気を付ける様に言っておられました。イエスさまが着ておられた上着を、ローマ兵たちが脱がせて、着替えさせています。十字架にかけた後に、兵士たちは、くじ引きを指摘物を分け合ったと記されてあります。

 イエスさまが、普段に着ておられたのは、バプテスマのヨハネや野武士のようなものは着ていられないで、良い物だったからこそ、ローマ兵たちがは、くじ引きで自分のものしたかったのです。「良質で持ち物の少なかった」イエスさまの生活術に倣う様に言われたのです。

 今季着ていますセーターは、三枚あります。一つは、華南の教会の信者さんが下さった物、次兄からの貰い物、そして家内から20年以上前の誕生日のギフトなのです。特売の物は、すぐに形がくずれてしまいましたが、やはり上質の物は、長く着続けることができています。それは、素敵な生活術や基準ではないでしょうか。

(「フリー無料モノクロイラスト」のヒゲ、Christian clip artsのイラストです)

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もう乙女そのものでした!

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 『生きるって、生きているって、生かされているって素晴らしいな!』と感じた、この日曜日の午後の出来事でした。ほとんどの参加者が、ラジオ体操仲間だったのです。昔、自治会の会長さんだった方がおいででした。この方のお孫さんが、看護師をされていて、看護のつらさを話され、辞めたい気持ちを話されているのだと、家内が聞いたのです。それで自分の入院経験から、看護師さんが、決められた看護以上のことを自分にしてくれた経験などを、この元会長さんに話したことがあったのです。

 『お孫さんを励ましてあげてください。素晴らしいお仕事なんですから!』と、自分の入院経験を添えて助言をしたのです。昔聴いたことのある歌を、懐かしそうにカラオケしていました。そう、礼拝を終えた後、昼食を摂って、年4回ほど行われる、自治会の「カラオケ会」に参加したのです。

 ラジオ体操が、この日曜日の朝にあって、この元会長さんは、杖をついてやって来られて、一人一人に挨拶をして回られ、暮れに入院手術をした私に、『具合はいかがですか?』と聞いてくれました。市の老人大学で、一緒に聴講する、大先輩の仲間なのです。

 この方の同級生のご婦人が、その会においででした。なかなか歌をリクエストしなかったのですが、われわれより少し若い世代の会の世話をしてくださる方、この方も体操仲間で、集われても出渋るみなさんを激励して、カラオケ歌集を渡しては、選曲を促していました。やっと会のお開きが近くになって、歌い出されたのです。何と「接吻(くちづけ)」と、力を込めて歌っている歌詞が聴き取れました。『ああ、この方も若い頃、そんな sweet な経験があったんだろうなあ!』と、感感慨深く聴いたのです。94歳のご婦人が、もう乙女そのものでした。

 息子さんを五十歳代で亡くされた85歳の方も、奥さまを誘ったのだそうで、同伴でおいででした。息子が家を建てて間もなく、亡くなられたのだと、話してくれていました。その悲しみを負いながら、ご自分の家と、その息子さんの思い出の溢れた家を行き来して暮らしていると言っておられました。知らない歌謡曲を、奥さまが歌われ、ご主人も、「川」と言う演歌を渋く歌っておいででした。漬かると、毎年、梅をくださるご夫妻なのです。

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 お嬢さんを産んで、間も無くでしょうか、ご主人と離婚されて、実家(ふるさと)に帰って来られて、ご両親のお世話をし終えて、ご自分の老後の今を生きておいでです。学校で学ばれた美術を生かした、パッチワークを教え、作品作りをされては、美術仲間と、秋には、大きなホールのある、その地階の展示室で展覧会を開いておいでです。私たちもお招きいただいて見学させてもらいました。知らない歌でしたが、歌詞に、『・・・独りで生きてきて・・・』と聞き取れ、独りで頑張って生きて来られた、同学年のご婦人です。

 東京にいる、小学生のお孫さんが、登校拒否をしておられて、おばあちゃんのそんな悩みを話されたこともありました。お嬢さんが、時々、そのお子さんを連れておいでになられています。『若い時に、離婚したことを悔やんでいるんです!』と家内に言ったことがあったそうです。みなさん、それぞれの今を生きていて、歳を重ねたもわれわ世代も、これからの若い世代も、上手く生きられないで、それでも精一杯、反省や悔いも交えての今を生きているわけです。

 家のそばを流れる巴波川の流れを利した、「舟運」を江戸期に行われた先祖をお持ちで、当時の出納帳とか、舟主の遺された物、印半纏なども見せていただいたこともありました。わが家にも来られて一緒に、珈琲を飲んで、好い時を過ごすことが、時々できています。

 カラオケなど、まずやったことのない、演歌など無用な家内は、ひとりでも、このカラオケ会に参加してきていて、この日曜は、私を誘って行ったのです。カラオケに「讃美歌」があって、そこから、選んで歌っていました。愛だ恋だではない歌を、みなさん聴いて、拍手してくださっていました。心の叫びや若かりし頃の思い出を、こう言った形で、歌い表すのも、「しばしの娯楽のひと時」なのでしょう。

 ポリュカルポスという名の教会の指導者が、昔いたのです。イエスさまの弟子のヨハネの弟子でした。ある時、ウズラと遊んでいたのです。そんな彼を見た人が、『どうしてそんな無駄なことをして時間を過ごすのですか?』と聞いたのです。聞いたのは猟師でした。肩にした弓をとって、プリリュカルポスは、こう言ったそうです。『あなたは猟を終えると、弦を緩めるでしょう。私も同じなんです。』と答えたとか、どなたにも、そう言った「弛緩(しかん)の時」が必要なのでしょうか。

 実は、もう何十年も前になりますが、あるご婦人とduettoで、「なみだの操」を歌ったことがありました。殿様キングスというグループの歌で、1973年の暮れに発表され、レコード200万枚突破の演歌でした。スーパーのパートをしていた職場の忘年会に出て、どうしても歌わされた歌でした。でも、『ここでは歌えないなあ!』と思って、昨日は、歌いませんでした。次回は、の今回でした。

 この地で、孤立しないことも大切で、今は、地域のみなさんと共にありたいと、関わりを持とうとしているのです。みなさん、強がらないで、弱さを感じる今を精一杯生きておいでの、素敵な日曜の午後でした。ご主人を送られて、独り暮らしの家を、お嬢さんが訪ねて来れるという、ライフ・スタイルのみなさんがほとんどです。

 去年の暮れには、17歳と18歳の二人の孫娘と一緒に、誕生会をしてもらいました。『18歳と80歳の違い」を感じながら、自分のその年齢の頃を思い出しさせられ、この二人の青春を祝福できたのです。老いて素敵なことも多くあるのは喜びです。 

(ウイキペディア、世界遺産イベリア半島の地中海沿岸の岩絵です)

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油汚れの手を

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 「スター( star )」とは、星のように輝く人を言い表す言葉で使われてきていました。今では、そう言った形容は、ほとんどされなくなっていて、他の表現に代えられてきている様です。映画でも、スポーツでも、政治の世界でも、綺羅星の様にキラキラさせている注目人物を、そう言っていました。

 今やスポーツ界では、MLBの大谷翔平、将棋界の藤井聡太、ボクシング界の井上尚弥などのみなさんがいますが、どの世界でも、そう言った人物を生み出そうと躍起です。時代を担う人物、それぞれの世界を牽引し、宣伝できる人材の登場が期待されていて、もしかしたら、各業界が、作為的に、それを作ろうとしているのかも知れません。

 もうベテランの域に達している人材も、すでに亡くなった人も、若い頃は「新星」であったのです。映画界でも三船敏郎、音楽界でも小澤征爾、政治界でも小泉純一郎、建築学会でも隅研吾と言った優れた人材が、彗星の様に現れて、一世を風靡したのです。

 負け犬の言の様ですが、最盛期を知っていると、その座を降りた方の姿が、かつては輝いていただけに、歳を重ねて、薄ぼんやりと衰えている姿を見ると、その落差に驚かされます。いつも思うのは、後進に座を譲って、誉ある注目の席を、潔く退(ひ)くことでしょうか。

 ホンダの創業者の本田宗一郎は、《世界のHONDA》を作り上げて、65歳で、身を退きました。まだ経営手腕を振るえる年齢でしたし、業界も、まだまだ引っ張っていって欲しかったのですが、新しい時代には、もう育ってきている人材いて、彼ら任せてしまったのです。それは、やはり「勇退」と言うのでしょうか。

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 創業時の苦労を思うと、トップに座に居続けたくなるのが常なので、「やめ時」を引きにばして、経営が難しくなる例の多い中、本田宗一郎は決心をして辞したのです。あの陸奥、米沢藩の上杉鷹山は、十代で主君となり、藩政を改革して徳川中庸の名君でした。その鷹山は35歳で、治広に家督を譲ったのです。そして主君の心得の「伝国の辞」を表します。

 一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候

 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候

 一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候

 優れた指導者は、時を読み、時を知るのでしょうか、本田宗一郎は引退後に一つのことをしたのです。日本全国に数多くの販売店や工場で従事する従業員いて、そのみなさんに、『お礼を言いたい!』と決められて、それを実行されたのです。海外にも足を伸ばされたそうです。

 私は、何台もの車を乗り潰したのですが、兄が乗り古したダットサン1000ccをもらったのを初めとして、中古車ばかりを乗り継いだのですが、海水浴に子どもたちを連れて出かけた帰り道、ラジエーターへの送水のゴム管に穴があいて、オーバーヒートしてしまいました。しばらく走ると止まって、水をラジエーターへ注水する、これを繰り返しながら走り、やっと街道沿いの自動車修理工場の前に着きました。

 あいにくお盆休みの真っ最中でした。それなのに、その工場主は、作業着に着替えて、修理をしてくれたのです。あんなに助かったことはありませんでした。4人の子どもたちを乗せて、家内と6人だったのに、みんながホッとしていたのです。あの時ほど、新車が欲しいと思ったことはありませんでした。

 何台乗り潰したことでしょうか。その度に車が与えられましたが、HONDA製は一度も乗りませんでした。もう少し若かったら、ホンダにも乗ってみたかったのです。あの本田宗一郎の車にでした。ある時、宗一郎が従業員と握手を交わそうとしたのです。作業中だったので、彼は油で汚れた手を出さなかったのです。ところが、宗一郎は、『その油に汚れた手がいいんだ!』と言って、彼に、自分の右手をのべて握手したそうです。そんなことしたり、言ったりする車屋のオヤジさんの車に乗ってみたかったのです。

 鷹山にしろ、宗一郎にしろ、素晴らしい指導精神、いや生き方が抜群なのです。藩主なのに金糸銀糸で織られた衣服を身に着けずに、木綿や麻の生地で織られた衣服を着ることのでき、粗食に甘んじた鷹山、ツナギ作業着姿の宗一郎のあり方は、やはり魅力的ではないでしょうか。

(ウイキペディアのホンダの初代の civic 、本田宗一郎の生まれた町の市花のヤマユリです) 

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弥生三月

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 「一月往ぬる二月逃げる三月去る」

と言うそうです。最初の一月は正月、二月は節分やうるう年、三月はひな祭りなどの行事が多くて、この年の初めの三ヶ月は、あっという間に、時が過ぎていくことを、そう言っているそうです。

 一月から三月までの時期は時間の流れが速く、毎日があっという間に過ぎ去ることを例えたのです。「い(ゐ)」、「に」、「さ」と、月のひらがな表記の頭の字で、言い表したのです。

 まさに、『もう三月!』、例年になく寒い冬を過ごした私たちですし、また寒波が襲来すると天気予報が言っています。三月の終わりにも、四月の初めにも、雪が降ることだってありますから、まだまだの春ですが、辺りはもう春満載気分の此の頃です。

 卒業と入学や入社、入院はないに越したことはありませんが、今年も、上野には行けそうもありませんが、隣町の思川の堤の桜を観に行ってみたいと思っています。観れるでしょうか。「田」に「心」を寄せた「思」の川なのだと聞きました。

 今日は、3月の1日で、私たち四人兄弟の二親は、明治と大正の弥生三月生まれでした。二人とも、早生まれだったのです。上の兄も、この月に生まれて、今年、85歳になります。

(去年の小山市役所の近くの思川の桜です)

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撫子のように!

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 野辺見れば  なでしこの花 咲きにけり 我が待つ秋は 近づくらしも

 この和歌は、「万葉集」の中に納められていて、作者不詳ですが、秋の野辺を眺めていた時に、この「なでしこ」が、可憐に咲いていたのでしょうか。きっと作者は、暑い夏を過ごして、少しは[ホッ!]としたかったに違いありません。

 それで秋の到来を待ち望んでいたのですが、ふと目を野辺に向けると、なでしこが咲いているではありませんか。『あっ、もう秋は来ようとしているんだ!』と思わせられたのです。

 秋到来は、景観の美しさ、夏前に蒔いた種が実をつけ、やがて収穫の時がやってきます。柿が実り、たわわに葡萄もなり、何よりもお米が借り入れられる季節です。自然に恵まれ、今では、錦繍の秋、芸術の秋、読書の秋、食欲の秋、そして、スポーツの秋という言うのでしょうか。

 それ以上に、昨日は、これからが春本番なのですが、秋に咲き出す「なでしこ」にちなんで、チーム名を「なでしこJAPAN」にした、女子サッカーチームの活躍に驚かされました。アメリカ、オーストラリア、コロンビア、そして日本の参加4チームによる、〈シービリーブスカップ〉の対戦が、カルフォルニアのサンディエゴで開催されました。昨日は、その最終戦で、「なでしこJAPAN」が、アメリカチームと対戦し、2対1のスコアーで勝利したのです。

 女子がサッカーをするようなことのなかった時代、サッカー自身がまだメジャーなスポーツでなかった頃、いえスポーツ自身が、今ほど盛んではなかった時代があって、こんなにスポーツ全盛がやってくるとは思いもよりませんでした。

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 「なでしこ」は、可憐な花の代表の様ですが、昨日の試合を観戦しているかぎり、可憐どころか、実に果敢なのです。あんなに激しく接触するのにも驚かされます。「なでしこ」のキャプテンの熊谷紗希選手は、頭を負傷をし、試合が中断していました。フィールドから出て手当がなされ、終わるとバンテージを巻いて再びチームの試合に合流したのです。結局、2対1でアメリカに勝ち、優勝したのです。

 この「なでしこジャパン」の前の世代に、キャプテンを務めた、MF宮間あや選手がいました。小柄ながらも、ファイトに溢れた選手だったのです。所属先は温泉で、その従業員をしながら、サッカーの練習に励み、日本代表の優秀な選手だったのです。2012年に開催された、ロンドンオリンピックでは、決勝まで進み、アメリカとの対戦に敗れて、準優勝したのです。その折、彼女のスポーツマンシップが賞賛されてもいました。同時期に、FW大野忍選手もいました。

 今では、十代の若い選手が台頭してきますが、昨日の対アメリカ戦は、バックスの熊谷の他に、MF長谷川唯、FW田中美南、GK山下杏也加、前半戦、長谷川選手からのパスを、FW籾木結花の選手のシュートで最初の得点後半戦、更に後半、唯選手のシュートを拾ったDF古賀塔子選手のゴールで2点目を決めました。そして華やかな攻撃面に関わらないバックス、縁の下の力持ちでチームを支えて、優勝に貢献していました。やはり歴戦の勇者たちの活躍が目立っていました。とくに、長谷川唯選手のボールに食いつく様なプレーには、目を見張るものがあります。

 アメリカチームを愕然とさせる様なaggressiveな戦いをしていたのは圧巻でした。でも、アメリカの選手たちは、新人が多く、これからの選手たちですから、巧みな日本選手たちからの学びは大きかったようです。次回の戦いが楽しみです。それにしても日本女性は、強いなあ!

(ウイキペディアのなでしこ、いらあうとやのじょしサッカーです)

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だれも「私は病気だ」とは言わず

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 学校に行っていた頃には、私たち4人兄弟は、それぞれ運動部に所属して、走ったり、飛び跳ねたり、投げたり、捕ったりしていました。二人の兄も、下の弟も、そして自分も、野球好きの父の影響でしょうか、スポーツに励んでいたのです。

 それほど若さを謳歌し、輝いていたのです。ところが、もう80年も、みんな生きてきて、それが何か霞んで見えてきそうな今なのです。上の兄が、テレビで放映されるアメリカンフットボールの試合に出るというので、父はテレビジョンを買ったほどでした。下の兄の高校野球の東京都の予選試合が、確か神宮球場で行われた時、父は応援に出掛けたと思います。弟の時は、どうだったでしょうか。彼は、少林寺拳法やアイスホッケーや柔道をし、幼稚園生から高校生まで、教師になって体育指導をし、母校の監督までした教師でした。私は、東京都の予選で落ちたクラブに所属していました。

 兄弟たちは、運動部の猛者で、はち切れるような若さで輝いていたのです。上の兄は、東西対抗の大学選手権の優勝チームで、スタメンでした。下の兄は、大学にも推薦される選手でした。弟は、大会で決勝戦に出場しているかも知れません。

 それほどでしたのに、寄せてくる年齢には、今や逆らうことができずに、無理をした結果を招いて、痛さに苛まれたり、服薬しなくてはならない、そんな今を迎えています。

 次兄が弟と、二人で、電車に乗って、我が家を訪ねてくれたことがありました。闘病中の家内の見舞いにでした。しかも二度もです。その時、兄の杖をつく姿を、初めて見て驚いたのです。あんなに元気で活発だった兄の初めて見た姿に、しばし言葉が出ませんでした。

 その兄が中学生だった時、家に帰って来ると、長靴に履き替えて、あわてて出て行こうとしていました。『どこへ行くの?』と聞くと、『ケンカ!』と言って走り出て行き、意気揚々として帰って来ました。柔道をやっていて、体の大きい相手と喧嘩したのです。そのことがあったのを、思い出して、驚いたわけです。

 就学前に、肺炎で自分は死にかけました。小3まで病欠児で、家で寝ていたり、母に連れられて病院通いをしていて、出席数の少ない低学年を過ごしていたのです。4年になってから、突如回復して、小6になって体育部長をしたほどに強くされたのです。中学ではバスケット、高校ではハンドをすることができました。ただ一つの自慢は、野球部のキャッチャーよりも、ソフトボールの遠投で勝てるほどでした。

 兄弟たちは、級長をした経歴があるのですが、自分は、一度もありませんでした。とったのは、街の芸術祭で、絵と工作とでの銅賞だっただけなのです。褒賞とか役付けなどとは無縁で過ごしていました。

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『そこ(エルサレム/神の都)に住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。(And the inhabitant will not say, “I am sick”;The people who dwell in it will  be forgiven theiriniquity.)(新改訳聖書 、NKJ訳イザヤ書33章24節)』

 今朝、凄い「みことば」を見つけたのです。何と、『私は病気だとは言わず!』とありました。神の都、神の御名を置いたエルサレムに住む者は、そう告白すると言うのです。病と無縁で生きられるなら、どんな地位も名誉も財産もいりません。

 そればかりではなく、『赦される!』のです。置きっぱなしの母の財布に、いつも小銭が入れられていました。それをくすねては、駅前の駄菓子屋にとんで行って、麩菓子や豆菓子やかりんとうを買って食べたのです。母が作ってくれる蒸かし芋や小麦粉の薄焼きでは満足できなかったからです。

 母は、承知で財布を置き続けていたに違いないのです。10円、20円と持ち出すのが、三番目の私だと知っていたのです。罪深さというのは、そんなくすねる自由さが、かえって怖くなって、いつの間にかやめたのです。それは、持ち続けた私の罪意識、いえ罪そのものでした。
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 いつも心にひっかりのあることが、私にはあります。中学修学旅行で、京都の金閣寺に見学に行った時に、賽銭箱にお金が落ちないでひっかかっていたので、つい母の財布にのばしていた同じ手を、それにのばして失敬してしまったのです。

 それがいつも心に引っ掛かるのです。今までもです。返しに行かなければならないのです。そんな責めを感じますが、クリスチャンになった私は、賽銭は一度もしたことがないので、返すと賽銭になるのでしょうか。さりとて、責められる思いはあり続けているのです。

『子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。(1ヨハネ2章12節)』

 神は、エルサレムの住人を「赦す神」ですし、私も、神さまの前で、罪を悔いて「赦された」と信じていますが、人の前で犯した罪は、その人に赦されるべきだとの思いがあるので、母にも金閣寺にも赦されないといけないのだと思い続けているのです。でも母は、もう亡くなってしまいました。

『供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5章24節)』

 主の献金をしてきた私ですが、その前に、すべきことがあるように責められるのです。「行って」とありますから、行かなければならないのです。今朝も、布団の中で、そんな思いにさらされているのです。具体的な行為が必要なのでしょうか。そんなこと言っても、未処置なことが多く、もう忘れてしまった悪行も多くあって、神のみ前で「赦された」確信はあるのに、どうすることもできないのです。

 それは、私と相手との関係なのです。亡くなってしまった相手だって、会社だってありそうです。年をとると、過去を、また疾しい思いが、そう言ったふうに、どなたも思い出させられるのでしょうか。老いとは「人生の精算」の時なのかも知れません。

『神が多くの子たち栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。(ヘブル2章10節)』

 病気の話題だらけの今ですが、エルサレムではなく、下野の地に住む私も、『私は病気ではない!』、『赦された!』と言えるのです。この身体は、やがて栄光の姿に変えられると、そう約束されているからです。聖路加院長をされた日野原重明さんは、『 健康というのは病気があるにもかかわらず、健やかな気持ちを保つこと、そして、上手に生きている姿である 。』と言っていました。この方もクリスチャンでした。

 今朝も、健やかな気持ちをもって起きることにしましょう。私は、「赦し」を確信していまして、「救い」は盤石なのです。

(Christian clip artsによるイラスト、ウイキぺディアのエルサレム、金閣寺に冬化粧です)

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