水無月に咲く花々が

 

 

 六月になりました。この月の別名は、「水無月(みなづき)で、その由来については、いろいろな説があります。水無月の「無」は「ない」だけではなく、助詞の「の」なのだそうです。そうしますと、「水の月」となります。まさに天から降る梅雨の雨の月なのです。

 米作りに励んできた私たちの国では、この梅雨の雨によってお米が育っていき、その秋には収穫されるお米が、武士の給金の石高だったのです。今、米の高騰が大きな話題になっています。わが家は、「四つ葉生協」という協同組合の会員を紹介されて、こちらに住み始めてすぐに、会員になりました。

 極力、農薬を使わないで米作りをする農家が生産する米が、毎週届けられるパンフレットに掲載されていて、そのお米を炊いて、食べ続けてきています。ところがこのところ、米の項目が欠品なのです。何種類かあって選べたのですが、もうなくなってしまいました。米騒動の煽りによるのです。

 江戸時代以降の米の流通の複雑さ、今だに受け継がれていて、どうも米価格の高騰の原因のようです。インフレーション(Iinflation)が起きて、何もかも価格上昇で、何か便乗のように感じてなりません。こうやって不景気になっていくことが、歴史の中に見られましたが、今や、そに不景気の現れなのでしょうか。

『ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。(新改訳聖書 黙示録18章23節)』

 魔術のように、物の値段を高くしていく商人たちの暗躍なのでしょうか。欺きや偽善や悪徳というのは、終末の世の特徴だと、聖書は言います。言い知れない不安や恐怖が、人の心を襲うのでしょう。万軍の主、栄光の王は、この時代を生きる私たちに、「恐るな」と仰っておいでです。花は美しく咲いて、物価高騰の世を慰めています。

(家内への近所の友人のプレゼントの花束、サボテンの花、母の日に弟に頂いた胡蝶蘭、娘が家内に誕生日に届けてくれた胡蝶蘭、弟の家に咲くハイビスカス〈2017年8月に家内が弟に贈った物がベランダで咲き続けているそうです〉です)

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会津人たちの足跡の中に

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 本州の最果て、青森県の下北半島に、明治になって誕生した藩があったのをご存知でしょうか。わずかな年月の間に、存在しただけでした。幕末に、徳川方に従い通した、徳川御三家に次ぐ藩であり、幕末には「朝敵」となった会津藩が、戊辰戦争に敗れ廃藩とされ、転封の地に割り当てられたのが斗南(となみ)でした。その地に誕生したのが「斗南藩」でした。

 薩長土(薩摩と長州と土佐)の同盟軍、新政府軍が、鳥羽伏見の戦いで勝利し、東征をして行きます。越後国の長岡藩を下し、さらに会津の地に進軍して行きます。有名な白虎隊の壮絶な戦いと、少年たちは自刃して果てていく戦いの果てに、会津藩は敗北するのです。新政府軍に刃を向けたことで、下北の地に移って行きました。

 その斗南に、立藩、家名再興が許され、松平容大が藩主となります。主君への恩義を忘れない、会津の幕末に際しての処し方に、武士の志を感じてなりません。敗者でありながらも、明治の新しい時代を生きていかれた会津の人々の生き方に、日本の良さを感じてなりません。それをきっと、「会津魂」と言うのでしうか。

 極北の地に、鍬を持って移住して行った生き様に、落ちゆく武人の生き方を、身も心も震えるような感じがしてなりません。会津からは、明治の世に、日本の近代化のために寄与した人材があったことは、素晴らしいことなのです。私が学んだ明治学院の総理を務めた井深梶之助、同志社を起こした新島襄に嫁した山本八重、明治の元勲・大山巌に嫁した山川捨松、ソニーを起こした井深大などの人を存知上げています。

 明治の世に、なかなか受け入れらええなかった会津でしたが、政治の指導者にはならなくとも、キリストの福音に触れて、生きていった会津人にあった、主の祝福を見て、社会に大きく貢献されたことに、感謝を覚えます。

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 第一次大戦後に、日本の捕虜になったドイツ人(オーストリアやハンガリーの兵士もいました)の将兵を収容した、収容所がありました。坂東市(現在の徳島県鳴門市です)にあった「板東捕虜収容所」だったのです。ただ捕虜を、捕虜として取り扱ったのではなく、人として寛大に、友好的に接した、その収容所の所長が、松江豊寿大佐で、この人は会津人だったのです。

 日本軍の捕虜への取り扱いでは、異例の収容所でありました。捕虜たちが兵士以前に民間人であった折の専門職の職人たちの活動がありました。印刷所が設けられ、週刊新聞が刊行され、鍛冶屋、床屋、靴屋、仕立屋、肉屋、パン屋などがあったのです。それを許し、励ました、松江所長の寛大さに驚かされます。

 世界に類を見ない、捕虜収容所の運営に当たった、松江大佐の意気に、感動を覚えたのです。ドイツ軍が降伏して、第一次世界大戦が終結したことで、この収容所が閉鎖され、捕虜の帰還が許されるのです。そのためにイベントが開かれ、ベートーベンの「第九」が演奏されることになるのです。この演奏会には、多くの板東の街の住民が集まったのです。大拍手の内に演奏会は終了します。

 こんな民主的な収容所に収容された捕虜たちは、異国での捕虜生活でしたが、実に素敵な3年ほどの時期を送ったことになります。今では、収容所にあった地は、「ドイツ村公園」とされ、2018年には、「100周年記念コンサート」が催され、「第九」が演奏されたのです。「バルトの楽園」という題で、映画化もされています。

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 松江豊寿は、退役後に、若松市(現在の会津若松市です)の市長として、1922年から1925年の間、第九代市長にもなっておられます。悪評の多かった日本の旧軍人の中では、注目に値する一人でした。

 (ウイキペディアによる弊社の見取り図、移築された捕虜収容所の兵舎、会津若松市の市花の「タチアオイ」です)

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