父の家に、一年に一度、「富山の薬売り(売薬行商)」のおじさんが訪ねて来て、富山の薬を置いて行くのです。ダンボールやプラスチック製品のなかった頃でしたから、柳行李に薬を詰めて、肩にかついででした。自転車に乗って来ていたような記憶もあります。その中には、風邪薬、胃薬、切り傷薬、絆創膏などが入っていて、薬箱に入れて、家庭の常備薬として、使われていたのです。
翌年になると、それを置いた家を訪ねて来て、使った数を数えて精算して、請求があり、新薬を置いていくと言う行商です。多くの家が、その常備薬を利用して、重宝していたのではないでしょうか。その薬箱から、ケガのために塗った赤チンなどを使った覚えがあります。
この越中富山の売薬は、江戸時代から続いていて、この薬の行商は、富山藩が財源を得るために、漢方薬の製造を奨励し、製薬が盛んに行われて来ていたのです。その薬を入れた柳行李を肩にかついで、おじさんたちは全国を売り歩いていたのです。
それは、富山だけではなく、讃岐(今の香川県です)でも、薬作りと行商が行われていたのだそうです。その売薬の一団が、千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市です)にやって来ました。時は、あの関東大震災が起こった数日後のことでした。15人の数家族が、薬を売ろうとその村に入ったのです。
すると村の自警団が、この集団と悶着を起こして、銃や棒やとび口などを手に、突然襲いかかったのです。よそ者で、『五十銭!』言わせたら、讃岐の方言で答えたので、どうも朝鮮語の訛りだと思い込んだのです。震災直後でしたし、不安と恐怖が相まい、流言蜚語は飛び交い、思い違いの中の暴挙だったのです。
9人の大人と子供が殺害され、その遺体を利根川の流れに捨ててしまいます。この人たちは、「穢多(えた/部落民、被差別民、新平民などと呼ばれて差別されていた人たちのことです)」でした。江戸時代に、村八分にあったりして、村から逃散(ちょうさん)した人たちの子孫でした。村の人たちに差別扱いをされて、暴行され、殺害されたのです。
明治政府は、そう言った意味で、差別と見られる記載を、戸籍簿に書き添えてたのです。戦争が終わって、新戸籍法ができるまで、そう言った戸籍を編んでいたのです。朝鮮半島から来られた人たちも、このエタと呼ばれた人たちも、差別を被り続けた人たちでした。
学校の同級生に、朝鮮半島から家族で来られていた人たちもいました。父も母も、そう言ったみなさんへの差別の思いを持つことはありませんでした。父と母は、戦前のある時期は、朝鮮半島の京城に、鉱山の仕事で住んでいたことがあり、懐かしく、「アリラン」」の歌を口ずむきともあったのです。ですから私たち4人の子どもたちも、そんな思いを持ちませんでした。
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この事件は、「福田村事件」として、当時の社会を驚かせ、人種による差別や、根も葉もない偏見が、そんな事件を起こすことへの教訓となったのです。奈良の法隆寺を建てた大工さんたちは、朝鮮半島(百済/くだら)からやって来た人たちだったと言われています。金剛組と呼ばれる会社は、聖徳太子が、飛鳥時代に招聘した宮大工で、578年に創業しているのです。
今も大阪市に会社があって、世界最古の企業だと言われています。私たちの間に、溶け込んで長く住んだ人たちもいますし、明治以降、日韓併合によって、出稼ぎにやって来た人たちの子孫も多くいるのです。同じ肌の色をした、きっと民族的には同根に違いありません。それなのに、そんな事件が起こったてしまったのです。実に悲しい事件でした。世が不安になると、そんな事件も起こりかねません。注意、注意です。
(ウイキペディアの「富山の売薬」、「百済」の位置図です)
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