85歳の壮健について

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 知り合いの実家に、ご両親を訪ねたことがありました。手広く果物栽培をされておいでで、日焼けしたお顔には、年月や苦労が刻まれておいででした。このお父さんが、『俺、最近バカになっちゃって!』と何度か繰り返されてお話になっていたのです。こちらはまだ四十代でしたので、謙遜に、そんなことをおっしゃっていたのだと思ったのです。

 でも、そのお父さんの言っていた「ことば」が、最近、思い出されるのです。先おとといの晩にも、翌朝のご飯の支度のために、お米を研いで、雑穀米を入れ、小豆が良いからと言うので、小さな鍋で煮ていたのです。それを忘れていたら、家内が、『もう小豆、いいんじゃないんですか?』と言われて、火を消して鍋の蓋を開けましたら、煮ていた水がカスカスになっていて、すんでのところで焦がしそうでした。

 最近、そんなことが続いていて、危険信号が点滅しているのです。お昼にも、サラダを作り、卵とサツマイモを蒸していたのです。何か、焼き芋のニオイがしてくるではありませんか。『しまった!』と思って、台所に跳んで行って、ガスレンジの火を止めたのです。煮水がなくなっていて、「焼き芋状態」になっていたのです。

 いやー、2回連続は初めてで、『オレもバカんなっちゃった!』と思ったのです。いえ、認知症突入でしょう。それでも、体ばかりではなく、認知能力も健康であり続けたいと願うのです。「認知症にならないための十ヶ条」では、次のように言っています。

  1. 脳血管を大切にする
  2. 食生活を整える
  3. 運動を心がける
  4. 飲酒・喫煙が過度にならないようにする
  5. 活動・思考を単調にしないように努める
  6. 生き生きとした生活を
  7. 家族・隣人・社会との人間関係を普段から円滑にしておく
  8. 自らの健康管理に心掛ける
  9. 病気や障がいの予防や治療に努める
  10. 寝たきりにならないように心掛ける

 『オレは大丈夫!』も、笑い事ですませるのも、もはや終わって、危険水域に入った自分を実感しています。顔にシワが目立つ様になっているのですから、脳機能にも、シワやシミが出て来ているのでしょう。避けられない事実を認めるのが、「認知」なのでしょう。”OB“、まさに人生の「オールドボーイ」なんだと思うこと仕切りです。

 昨年の暮に、大学病院で、心臓をCTで撮影した画像を見せていただいて、真っ赤に血の赤い色をしていて、躍動する自分の様子を見て、感動したばかりです。何十年も動き続けて来た心臓が、一瞬も途切れることなく、この脳にも、身体全体に、あんなに細い血管を通して、血液を送り続けてくれている、いのちの循環に驚嘆するばかりでした。

 イスラエルのユダ族の族長だった、85歳になっていたカレブが、次の様に言っています。

『今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。 しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(新改訳聖書 ヨシュア14章10-11節)』

 「85の壮健」には、驚かされます。ユダ族を率いていた40歳の日と同じ様に、45年間生きてきてのカレブの告白です。武器を手に取って、戦場を駆け巡れるほどの健康状態を維持していたのです。それは、主を信じる年月だったことになります。彼よりも5歳も若い自分の現状からして、羨ましいほどの信仰告白なのです。

 これは比較の問題や課題ではなさそうです。そんなカレブも、その生涯を終えています。《今を生きる》に徹したのが、カレブの生涯だったのでしょう。エホバなる主に従い通した、健康で健全な一生だったのです。主に従い通せる様に、残りを、家族に支えられながら、自分も感謝して生きていこうと思い直しました。もちろん注意しながら生きてまいります。

(ウイキペディアによるカナン偵察時のカレブたちの様子の図です)

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カモは去り、秋には再び来る

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 もはやカモが飛び立ってしまい、一羽もいなくなった巴波川の河面で、こんなに群れていたのが嘘の様な、一抹の寂しさです。秋になって帰って来るまでは、鯉の天下になりますが、雨降りの後の川は、泥水で、鯉の姿を確認できませんでした。

 故郷は遠くにあるので、日本語に代わって、ロシア語が聞こえて来ることでしょう。この秋の一番帰りを、カモたちは競争するのかも知れませんね。今は、巴波川の餌売り場の特製の餌は、鯉だけの競争になりそうです。

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3.8%の良心、春の宵に思うこと

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 あるスーパーマーケットで買い物をした時に、知り合いの方が、レジ係をしていましたので、この方のレジに並んだのです。『お元気ですか?』と声を掛けて、レジ計算をしてもらったのです。2、3品の買い物でしたが、レシートで請求されたのが、ずいぶん安かったのです。

 スイカの分を、この方はレジ打ちしなかったのです。驚いて、どう言おうかと、ちょっと躊躇し、咄嗟に、『スイカも買っていますので!』と言いましたら、『あっ、ごめんなさい!』と言って、たぶんスイカの値段が千円ほどだったので、その額を、改めて打ち込んでくれ、二枚のレシートと交換で支払いを済ませたのです。

 そう言うことが、よくあると、聞いていたのです。従業員や友人などが自分のレジに来ると、サーヴィスのつもりで、そう言う不正が行われているのでした。それって詐欺行為で、いわゆる万引きよりも悪質なのです。内内で、空打ちをするのですから。

 今では、自分での手で、バーコードを機械に読ませて、会計をする自動レジが行われる様になって来ています。人件費を削減するために、そう言った店が多くなっている様です。先日、いつも行くスーパーで買い物をして、自分で会計を済ませて帰って来たのです。なにか安過ぎているのが気になって、家に帰って、買い物品とレシートを見比べましたら、牛肉のパックを自動レジに通したつもりが、通っていなかったのに気付いたのです。

 私は、すぐに、その牛肉のパックを持って、その店の会計カウンターに行って、『先ほど買い物をして家に帰って調べたら、この牛肉を通し忘れしていました。すみませんでした!』と言って、支払いをしたのです。すんでのところで、未払い分を払えて、ホッとしたわけです。『そんなやましい思いで、この店には買い物に行けないな!』と思っていたので、支払いを済ませて胸を撫で下ろせたのです。


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『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(新改訳聖書 1ヨハネ1章9節)』

 また、子どもの頃に、【キヨチャン】と言う店で、万引きを何度もした自分だったのが、教会に行く様になって、キリスト信仰をし始めてから、それを思い出したのです。それで、かつて住んでいた街の店に行きましたら、歳をとったキヨちゃんがおいででした。それで、『子どもの頃に、おばさんが向こうを向いている隙に・・・』と言って、『ごめんなさい!』と言って、3000円を入れた封筒を、キヨちゃんの手にねじ込んだのです。

 『そんなの、もういいわよ!』と、目を丸くして、おばさんは言っていました。よくないから詫びに行ったので、そのまま帰ったのです。何と30年ぶりほどの清算、いえ精算になんかなりませんね、何度も盗んだんだのだからです。

 でも、そうできたのは、罪の責めたてからの解放でした。もうやましい思いで、その店の前を通らないで済んだのを、また思い出したのです。その店のある街の教会で、宣教師さんと牧師になっていた上の兄から、自分はバプテスマを受けてからの「罪の精算」でした。過去の不始末を放って置けなくなったわけです。お詫びをしなければならないと、心に迫られたのです。

 今月、ある出来事がありました。その件について、ある新聞記事に、こう取り上げられてありました。
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「中央道や東名高速などの料金所にあるETCレーンがシステム障害で使えなくなった問題で、中日本高速道路(NEXCO中日本)は18日、15日午後10時までに後日払いの申し出をしたのは約3万6千件と明らかにした。 システム障害は6日午前0時半から約38時間続き、最大8都県、106の料金所でETCが使えなくなった。同社は料金所の渋滞を解消するため、通行料金を後日払いにする形で障害が生じている料金所のETCレーンを通過させる対応を取った。この間、使えなくなったレーンを含む料金所を通過したのは、障害が起きた前週の実績から96万台程度とみられるという。(以下省略)」

 96万台の車が、後日、自己申告で支払うという形で、ETCの利用を、許したのだそうです。それは大渋滞を避けるためでした。その後、精算をしたのが、3..8%だったのだそうです。そうしますと、96.2%の利用者は、後払いをしないでいると言うことになります。

 この一件は、ニュースで聞いていましたし、料金の後払いのことも聞いていました。でも、未精算というのは、いけないことだなあと思って、自分の過去を、また思い出したのです。確率からすると、「日本人の良心」が、鈍くなっているのだと言えるのかも知れません。子どもとはいえ、私も同じ良心の鈍さで、罪を犯したわけです。

 罪を、そのままにしてはいけないと言う思いが湧き上がって、キヨちゃんを訪ねたのです。そんな出来事を思い出すと言うには、罪の傷が、心に残っているからに違いありません。今は、自由を得た様に感じ、罪の呵責がなくなくなって、改めた生き方がができる様になりました。そんなことができたのは感謝だと思わされている、春の宵であります。

(ウイキペディアのスイカ、駄菓子屋、ETCです)

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八花繚乱

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 春の陽を浴びて、ブラリと散歩道を行くと、こんなに綺麗に花が咲いて、来た春を彩ってくれていました。これらの花の一つほど、装うことにできない、路に映る自分の影を、しばらく眺めていたのです。

 この季節に、礼拝や聖書の学び会、祈り会の時に、歌った歌に、「春に若草が」がありました。

原に若草が 青く萌え出すと
雪解けの水が 高く音立てる
※ 私たちも春の喜びを歌おう
春を造られた神さまを歌おう

風がやわらかく 野原を通ると
木の枝が揺れて さらさら囁く

遠くで家畜の 声が聞こえると
近くで小鳥が 何か歌いだす

造られたものは 春の日を浴びて
春を造られた 神さま誉めてる

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(新改訳聖書 イザヤ43章4節)』

『わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(イザヤ44章22節)』

 こんなに薄汚れているのに、いえ、こんなに汚れ切っているのに、神さまは、ご自分の御子のゆえに、イエスさまの十字架の贖罪のゆえに、無条件で、赦し、子としてくださり、義としてくださり、聖としてくださり、やがて栄光化してくださるのです。

 功(いさお)ない私に、これほどの身分を与えてくださって、「高価」で、「尊い」としてくださり、『愛している!』と言ってくださいます。魂の敵の手から、奪還してくださり、「子たる身分」を、無代価で与えてくださり、イエスさまと「共同」の「相続人」にしてくださったのです。

 もちろん、暑い夏も、みのりの秋も、凍える冬も、神さまはお作りくださったのです。そんな四季を喜び楽しませてくださるのですね。

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わたしを呼べ、そうすれば

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 父の仕事仲間が、流行りつつあった Golf の事業を新規に始めたとかで、十代の終わりの頃だった自分のために、「ゴルフセット」を手形とか、体重と身長、スポーツ歴などを科学的にデーターをとって作ってくれたのです。兄たちは仕事のために家を出ていた頃でしたから、三男の私のために注文してくれた父でした。それをかついで、家の近くの多摩川の河原に出かけて行って、スイングの練習をしたのです。

 練習場だって、どこにでもない時代でしたから、正式にトレーニングするには、お金が必要だったのですが、父に練習代をくれとは言えないで、そのままになってしまいました。いつのまにか、すぐ上の兄が担いで持っていってしまい、それっきりになってしまったのです。

[ダビデの賛歌(祈り)]

『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(新改訳聖書 詩篇23篇)』

 ゴルフは、起源に諸説あるのですが、『韓民族が始まりです!』と言う、桜にしろ、起源への拘りで有名な朝鮮族は、『私たちの国が!』とは言っていない様で不思議ですが、アジアではなく、どうもスコットランドにあるのが、定説なのだそうです。

 なぜかと言いますと、そこは牧羊業が盛んな地で、牧夫の手には、羊を導く杖と、鞭とがあると、詩篇には記されていますから、昔から、ここスコットランドでも、野に羊を導く牧夫は、羊の首を抑えるクエッションマーク「?」の形状の杖とか鞭になる棒を、道具として使っていたのです。

 それで遊ぶこともあったのだそうで、牧羊地に転がっている手頃な石を、足で蹴らずに、棒や杖で打って、穴に入れる遊びをしていた様です。やがて、それがスポーツになっていき、今の様に、“ コンペ( competition )”  とか言って競技会が開かれています。

 莫大な額の賞金に驚かされてきましたが、このゴルフの”Masters “ と呼ばれる一大ゴルフ競大会の行われる、ゴルフ場のコースには、聞き覚えのある「アーメンー・コーナー (amen corner )」があるのだとか。つまり、クリスチャンは、祈りをした最後に、『主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン!』と言って、父でいらっしゃる神さまに祈り、最後に、『その通りです!」という意味で、『アーメン!』と締めくくります。

 つまり、この「11番ホール」あたりは、難易度がとても高く、祈りを必要とするほどにという意味で、そう名付けられたのです。祈らなければならないほどに、風向きや芝を読んだり、クラブを変えたりしなければならないほど、考え悩む困難な箇所なのだそうです。

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ33章3節)』

 これまでの自分の生きて来た道にも、難易度の高い難関な箇所がありました。家族や友人たちに祈ってもらい、自らも祈って、自分の信仰生活と普段の生活をして参りました。この祈りには、[聴かれる祈り]、[聴かれない祈り]、[待たなければならない祈り]があると言われています。それでも、祈りは、ただ人生上の困難な局面にあるからだけではありません。

 『くれ!』だけの祈りではなく、感謝な思いでする祈りもあるのです。つまり、この神さまは会話の相手となってくださるので、心を友人に開く様にして、神と会話をするのが、この「祈り」なのです。

 感謝なことに、そんな「祈り」を自分のものにして、今日まで生きてくることができました。ことのほか、病弱な私が健康を回復したり、オッチョコチョイの私が、よく怪我をして来たのですが、死なないで、ここまで生き延びられてきたのは、その「他者の祈り」があったればこそだと感謝するのです。

 私たちの4人の子どもたちは、小さい頃から、『お父さん、お母さん、祈って!』と言われて祈ったことが、よくありました。もう親元を離れた子どもたちから、「祈りの要請」が届くのです。自分が祈られて来たのだと感謝があるからでしょうか、夫や妻や、彼らのご両親のために、また子どもたちの必要に、私たちに、『祈って!』と言って来るのです。

 私たちの子どもたちは、実体験として「祈りの力」を認めているからなのでしょう。理解を超えている人生上に起こる、人の力を超えた現実、出来事の中に、神信頼があると言うのは、驚くほどの助けなのです。

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 1903年(明治36年)藤村操が、日光の華厳滝で自死したのですが、その「辞世の句」が残されています。

『巖頭之感 悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懷いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巖頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。』

 この人は、盛岡藩士の孫であったのですが、人生の不可解さに押しつぶされた青年として、社会を騒がせたのですが、16歳の第一高等学校の学生でした。同じ盛岡藩士の子に、新渡戸稲造がいました。藤村操の死の2年後に、新渡戸は一高の校長になっています。この青年に、いのちの付与者への「祈り」があったら、神への呼びかけがあったら、「アーメン」があったら、『死ね!』と迫った誘いを押しのけて、「不可解」を押しのけて、死なないで生きられたのではないかと思うこと仕切りなのです。

(Christian clip artsの「祈り」、ウイキペディアによる岩手県の県花の「霧の花」です)

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アネハヅルの驚異的な飛翔が

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 戦時下に、十代後半を過ごして、軍需工場での仕事に従事したことを、「わたしが一番きれいだったとき」で読んでいます。それは、19歳だったと、茨木のり子が、自分で書き残しています。そんな詩を詠んだのり子が「鶴」を詠んでいます。

 1995年に、NHKが、「謎のヒマラヤ越え〜飛行ルート5000kmを追う〜」を放映したことがありました。「アネハヅル」の驚異的な飛行の様子を記録した秀作でした。そのアネハヅルの神秘的な習性を、映像で観て詩作をしたのです。その驚きの思いが伝わってきます。

 鶴が
ヒマラヤを超える
たった数日間だけの上昇気流を捉え
巻きあががり巻きあがりして
九千メートルに近い峨峨(がが)たるヒマラヤ山系を
超える
カウカウと鳴きかわしながら
どうやってリーダーを決めるのだろう
どうやって見事な隊列を組むのだろう

涼しい北で夏の繁殖を終え
素だった雛もろとも
越冬地のインドへ命がけの旅
映像が捉えるまで
誰も信じることができなかった
白皚皚(はくがいがい)のヒマラヤ山系
突き抜けるような蒼い空
遠目にも賢明な羽ばたきが見える

なにかへの合図でもあるかのような
純白のハンカチ打ち振るような
清冽な羽ばたき
羽ばたいて
羽ばたいて

わたしのなかにかわずかに残る
澄んだものが
激しく反応して さざなみ立つ
今も
目をつむればまなかいを飛ぶ
アネハヅルの無垢ないのちの
無数のきらめき

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 昔から、日本にも鶴が飛来して、「鶴の恩返し」の民話や、木下順二作の「夕鶴」などがあり、読んだ覚えが私にもあります。鶴の変身とか、生まれ変わりなど、「異類婚姻譚」と言う話は、この日本だけではなく、世界各地にある様です。

 シベリアやモンゴルの草原の地で、鶴は誕生して、親鳥に養われて、育ったばかりの子の鶴を従えて、冬場の餌を求めて、温暖な地に移動します。インドやパキスタン、中東、北東アフリカに渡って行くのですが、あのヒマラヤの8000m級の高さを飛ぶ様子は、驚きです。聖書にも、鶴が登場しています。

『燕や鶴のように私は泣き、鳩のようにうめきました。私の目は上を仰いで衰えました。主よ、私は虐げられています。私の保証人となってください。(新改訳聖書 イザヤ38章14節)」

 人は、自分の現実に生活に中で、泣いたり呻いたりします。それは、燕や鶴や鳩の様だと、預言者は言っているのでしょうか。

『空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山鳩も燕も鶴も自分の帰る時を守る。しかし、わが民はの定めを知らない。(エレミヤ8章7節)』

 アネハヅルは、故郷回帰の時も、また冬がやって来る前に、餌のある地を求めて渡る時期を知っているのです。動物は、生きて子孫を残すと言った使命を、本能的に知っているのです。とくにアネハヅルは、世界中に15種類ほどいる鶴の中で一番小さく、体長は90cm、体重は2~3kg、翼開長は150~170cmの体格を持っている様です。生後3ヶ月になる、秋には親鳥と一緒に、インド行などの2000kmも0の遠距離距離を、さらにアフリカにまで行くのだそうです。8000〜9000mもの高いヒマラヤ連峰を越えるのです。


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 神さまは、生き物のえ種類に従って、生き延びるための「本能」を与えておいでです。1ヶ月で成鳥となり、3ヶ月ほどすると、渡りの群れに加わるのです。その寿命は、20〜25年ほどで、それだけの年月の間、渡りを繰り返すのです。帰巣本能は、創造主が与えられていて、帰るべき地に帰って行く時を心得ているのです。

 昨日、まだ巴波川に鴨たちが餌を認めて川面を泳いで、鯉と餌取りの争いをしている鴨の様子が見られましたが、もう残っている数は少なくなっていて、多くがすでに、シベリヤに帰っているのです。間もなく、残りも北帰行していくのでしょう。鴨の一生は、5〜10年ほどだそうですが、この群れも来ては帰るを毎年繰り返すわけです。一ヶ所に定着したと思うと、引っ越して行く私も、何か、「渡り鳥」に似ているのではないかと思うことがあります

『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」 また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。(新改訳聖書 黙示録21章1~6節)』

 人は、天、神の御元から下って来る、「新しい天」と「新しい地」に、永遠に住むことができるのです。としますと、天国に行くと言う表現よりも、実際には、やって来る「神の国」、永遠の御住まいに、死んでいた者は蘇って生き、生き残った者たちと共に生き続けるのです。悲しみの涙はぬぐわれ、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもなく永遠を、父、子、聖霊の神さまと共に過ごすのです。

 アネハヅルの翼を、茨木のり子は、「純白のハンカチ」でもあるかの様に詠み、上昇気流に自らの体を任せて、「無垢ないのち」の躍動を思ったのでしょう。生きるために、天空を舞い上がって、ヒマラヤの頂を越えて行くのです。そんな風に表現をしたのです。あんなに小さな体で、あの高度まで昇るほどに、神秘なことはありません。いのちの付与者が、その習性を与えられたからなのです。希薄な酸素、空気圧、マイナスの気温を考えるに、耐性を備えられた神の傑作に違いありません。

 それよりも、神に似せられて造られた私たち人は、神の最高傑作なのです。帰って行く「天の故郷」への想いを持って、多くの愛兄姉が、この馳せ場の地上を、定められた年月生きているのです。巴波川の鴨を見て、そんな思いにさせられております。

(ウイキペディアの「アネハヅル」」、「シベリヤ」、「ヒマラヤ」です)

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力と富と勢いと誉と賛美を受けるに

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 関西漫才で、圧倒的な人気を得ていたのが、横山やすしでした。確かに、問題児でしたし、漫才の稽古も好きではなかったのです。ところが相方の西川きよしの忍耐強いpartnershippで、稽古に引っ張り出したのだそうです。

 アドリブなのか、むちゃくちゃに勝手に、調子に乗って喋くっていた様に見えたのですが、あれだけの人気を得た芸のためには、忍耐強い稽古があったからでした。何と一つの演目のためには、40回も重ねた稽古があったと、西川きよしが言っていました。あの二人の芸は稽古の賜物だったのです。

 私は、キリストの教会の責任を、宣教師さんから受け継いで、牧会という奉仕をさせて頂き、主に日曜日ごとの礼拝の中で、説教者として長く生きてきました。週日には、聖書研究会もあったでしょうか。特に日曜日に、来る一週一週ごとに、説教壇に立つという奉仕は、けっこうきついものでした。

 宗教改革以降、教会の礼拝では、祈りと讃美と献金と、そして説教がなされてきていました。ジュネーブの宗教改革者のジャン・カルバンは、礼拝の中で、「主の日」と言われた日曜日ごとに、それを実行し、聖書を、章ごとに講じる「講解説教」をしたのです。会衆は、それを神のことばとして聞きました。

 日曜日の説教作りで、朝になっても作り上げられないままのことが、たまにありました。そのまま説教壇に立ったこともありました。構想や思想がわかず、筋道をつけての準備も、説教のまとめもできないのです。一週間のサイクルで、新しい説教を、聖書をテキストにして作るのですが、それは簡単ではありませんでした。

 『今日の説教を聞いて、死のうと思ってやって来ました!』と、死の覚悟をして来られる方もおいでなのです。だったら、命懸けで、説教の準備をしなければならないからです。笑いをとろうとして説教を作っていましたら、家内に注意されたことがありました。笑わせるのが説教ではなく、「いのちのことば」を、彼女は宣教師から聞き続けてきたからでした。

 神の言葉、思想、想いを、そして命に預かるために、愛兄姉がおいでなのです。説教の巧者と評され、聞き手を話しに引き込むことに長けていたスポルジョンは、バプテスト派のロンドンにあったタバナクル教会の牧師さんでした。

 このスポルジョンが、説教を終えて、教会のドアーを出て、家に帰ろうとしていた時、前を歩いていた二人の兄弟が、『今日のスポルジョン牧師の説教は良かった!』と言うのを耳にしたのです。それでスポルジョンさんは、踵を返して教会の建物に戻って、祈ったのだそうです。

 『今日の説教で、あなたではなく、自分を印象付けてしまったようで、本当にごめんなさい!』と、悔いて謝ったのだそうです。『あなたの説教は、つまらない。お隣の街の牧師の様に、上手に話されてはどうででょうか!』と臆面もなく言って、教会をさって行ったしまいがいたことを、ある牧師さんにが言っておいででした。

 とても感動して読んだ本があって、その著者を訪ねたことがありました。自分の説教をカセットテープに録音したのを持参して、牧会相談に上がったのです。その方は、独学で聖書を学んだ方でした。こう言われたのです。

 『上手な説教をされたのは、救世軍の山室軍平でした。この方は、同じ説教を繰り返されたのです。ところが聞くたびに違っていて、いつも会衆に、新しい主への感動を与えていたのです。』と。

 スポルジョンも山室軍平も、その牧師さんも、みことばに啓示されている、イエスさまを、難しくなく、簡明に話して、愛兄姉を養ったのです。良い牧者が、きれいな水と栄養豊富な牧草に導く様にしてでした。見本は、イエスさまだったのではないでしょうか。神学や教理ではなく、「いのち」を語ったのです。あの若い日に訪ねた牧師さんへの私の弟子願望は、返事を頂けないままで終わりました。

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『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。(新改訳聖書 ホセア6章3節)』

 イエスさまが、どなたかを知ることこそが、儀式偏重から、宗教改革者が回復した「説教」だったのです。「賛美」も、みことばを歌うことも、回復されて、今に至っています。私を導いてくださった宣教師さんの愛唱コーラスは、

  ほふ(屠)られた子羊(こそ)は 力と富と知恵と勢いと 誉と栄光と賛美とを受けるにふさわしい(お)方です 🎶

と、「ヨハネの黙示録5章12節」に、ご自分でメロディをつけて、祈り会にも聖書勉強会の時も、礼拝にも、よく賛美して、主イエスさまを褒め称えておいででした。今、それを思い出して、時々口ずさんで、私は賛美するのです。良き賛美を受けるのふさわしいお方が、イエスさまだからです。

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『賛歌。新しい歌をに歌え。 主は 奇しいみわざを行われた。 主の右の御手 聖なる御腕が 主に勝利をもたらしたのだ。(詩篇98篇1節)』

 ある方に紹介された牧会者に、ドイツのシュバーベン地方(メットリンゲン)で牧会をした父ブルームハルトがいました。一人の教会の姉妹であるゴットリービン・ディトウスが、霊的な束縛を受けていて悲惨な状態でした。そんな彼女に働く悪霊との対決を、村の村長さんや教会の長老さんたちと決心します。その霊的戦いの終盤に、天から与えられた詩に、当時はやっていたメロディーを加えて、賛美したのです。

🎶 イエスは勝利の王である、

イエスはすべての敵を征服した。

全世界はやがて、圧倒的な愛により

イエスの足下にひざまずく。

イエスは我らを御力をもって導き、

暗闇から輝かしい光へともたらす。♬

 この賛美で、霊的な自由を与えられた、その教会の姉妹だったゴットリーベンが別な所で、同じ歌詞とメロディで賛美していたのです。父ブルームハルトの働きを継承し、バート・ボルの教会で牧会した、子クリストフ・ブルームハルトも、この「天来の勝利者の賛美」を歌い続けたのです。

 ヤスキヨコンビの40回の漫才の稽古のあったことに驚かされました。一回の説教を、40回も繰り返してから、説教壇に上がったことは、私にはありませんでした。次に、説教する機会が与えられたら、それほどの真剣さ、必死さでしたいと思うのです。ある説教者は、全く準備をしないで、講壇に立つのだそうです。立ったら、聖霊なる神さまが、話すべき内容を、啓示してくださるからなのだそうです。

 でも、そういった説教は、稀なことなのです。この方は、同じことしか、同じ思想しか話しませんでした。やはり周到な準備をして立つのが好いのです。そういった姿勢に、会衆は応答し、教会の主は喜ばれることでしょう。

 けっきょく自己満足ではいけないからです。主は、自在に話されたのです。深い祈りや黙想、いえ父なる神との交わりがあって、御父から与えられたことば、御父のみ思いを、イエスさまは語られたのです。いのちの付与者としてでした。それで、聞いた人はいのちを得たのです。

(ウイキペディアの「ドイツのシュバーベン地方」、「バート・ボルのクア・ハウス」、「Christian clip artsのイエスさま」です)

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牢の中で起こったことが

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 東京都内の有名私立の高校を出た、作家の阿部譲治が、実体験をもとに書いた本、「塀の中の懲りない面々」が何度か映画化やテレビ化されています。その刑務所の内部を、まだ知らない私は、本は読みませんでしたが、興味深く、テレビ版を見たことがありました。

 塀の中とは、「府中刑務所」のことで、関東では最大規模、最大収容人数の刑務所なのだそうです。江戸時代、寛政2年(1790年)2月に、時の老中松平定信が、墨田川河口の石川島に、「人足寄場」を設けたのだそうです。そこが母体で、大正末期の大正13年(1924年)に、都下の府中市に移転、昭和10年(1935年)6月に、府中に刑務所を開所しています。

 収容の定員は、2668名で、2024年3月末現在、日本人受刑者1190名と外国人受刑者350名を収容しているそうです。外国人が多くて、中国やベトナムやメキシコを国籍としている収容者が多くいます。

 高校の頃の冬場、この時期に、「府中刑務所」をひたすらに三周する、運動部の練習をしていました。オフシーズンで、試合もない、ただ一途に走り込んだり、うさぎ跳びをやったり、単調な練習に日々を送っていました。電信柱から電信柱を、ダッシュと流しを繰り替えすロードもさせられました。

 一番つまらなかったのが、その塀の周りを三周ほどする走りでした。薄汚れた灰色の高い塀の周りをただ走るだけでした。『何時か、このムショの中に、自分の生涯で入ることがあるだろうか?』などとぼんやりと思いながら走っていました。いつも時計の反対周りをするのです。早く三周が終わるのを待ちながらです。

 その時の思いが、ある時、実現したのです。もう何年前になるでしょうか、私たちの住んでいた華南の街から南に行った海岸部の街から、五十代のご夫婦が、わが家を訪ねて来ました。私たちが、ビサの更新で帰国する時期の前だったのです。その時期に合わせての訪問でした。

 どなたかに、私たちの帰国のことを聞いたからでした。この夫妻の息子さんが、日本に密入国をし、窃盗罪を犯して懲役刑になり、服役しているのだと言われたのです。あの冬場に、「府中刑務所」の外を走りながら思ったことが、そんな形で実現しそうになったのです。『持病があるので、息子の様子を見てきて欲しいのですが?』とのことでした。

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 帰国した私は、川向こうに、母の面倒を見ている下の兄が住んでいて、次兄の家を訪ね、兄の自転車でこの刑務所を訪ねたのです。受刑者としてではなく、訪問者として足を踏み入れたわけです。色彩のない、ビラが掲示板に貼ってある、無機質な感じの刑務所の事務室を訪ねたのです。服役囚とは別の門があって、そこから入ったのです。

 面会したい旨を申し出ましたら、刑務官がしばらく検討されたようでしたが、結局、親族以外の面会はできないとのことで、預かってきたご両親の写真とメモを、刑務官に託して辞したのです。その人が、いつ出所したかは確かめませんでし、このご両親も、会えなかった旨を話しただけで、そのままになってしまいました。

 それで、どんな収容生活をしていたかを、その「懲りない面々」の生活ぶりを、テレビ番組で知ったのです。作者の安倍譲治のムショ体験からの映画でしたから、おおむねは、テレビ番組通りだったのでしょう。

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 2000年も前の監獄での出来事が、聖書の「使徒行伝」の中に記されています。マケドニヤのピリピの町を訪ねた、異邦人伝道に召されたパウロは、この町で伝道をしたのです。その時、占いの霊につかれた女奴隷と出会います。パウロたちの跡をついて来て、

『彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。 幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。(新改訳聖書 使徒16章17-19節)』

    パウロとシラスは、この女奴隷の雇人から訴えられて、鞭打たれて、牢に入れられてしまいます。なんと、パウロたちは牢の中で、賛美したのです。マケドニア最大の町の牢の中で、不自由な囚われの身を呪うのでもなく、喜びにあふれて、主をほめたたえたのです。

 真夜中に、賛美をしましたら、パウロたち囚人たちを繋いでいた鎖が解け、牢の扉が空いてしまったのです。自害しようとする牢番に、

『そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。(28節)』

のです。どうしたらいいのか戸惑っている牢番に、パウロは、

『そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。(30-31節)』

のです。ピリピの牢番は、牢から出されたパウロたちを引き取り、鞭打ちで負った傷の手当てをした後、その家族はバプテスマを受けて、救われたのです。

 一人の牢番の救いが、家族の救いとなった出来事が、このピリピの町で起こり、それ以降、世界中の街街で、「家族の救い」が成就するのです。「孤独な牢」の中にいたように感じていた一人っ子の母が、山陰の町で、14歳で救われ、やがて、夫も子たちも、そして孫たちも、キリストの救いを受けたのです。これが、私の家族の救いであります。

(Christian clip artsの「獄中賛美」、府中刑務所の航空写真、ピリピの町の遺構です)

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来た春が行くかの様です

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 『愛しい風が吹く!』のだと、ラジオで聞きました。北風とか寒風や空っ風から、春の「愛しい風」に変わったかと思っていましたら、河津桜や八重桜が咲いたと思っていましたら、ソメイヨシノが咲き始めました。

 昨日の夕方は、空が、かき曇ったったと思ったら、「雷(らい)さま」が鳴り轟いたら、強い雨が降り始めました。ソメイヨシノも、もう少し頑張ってほしいと願っているのに、花吹雪の乱舞前に、散ってしまうのでしょうか。

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 桜花が散ると、何だか春がいってしまう様で、惜しむ思いが強くなります。新栃木の駅に行く駅前通りの路側帯に、思川桜が植えられていて、その花も咲いているのを見たり、天平の丘の史跡跡に植えられた薄墨桜も綺麗に咲いた春でした。

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 その雷さまが止んだら、西の空に太陽が顔を出したのです。東の空を見ますと、虹がうっすらと出ていました。春は行くってしまうのでしょうか。市内の小学校では、この水曜日に、入学式があって、式の帰りの親子連れの姿を見かけたのです。わが家の子どもたちの入学式が、思い出されてまいります。

 早咲きも、まばら咲きも、咲き誇るのも、散るのも、吹雪く様になるのも、濡れるのも、葉桜になるのも、そしてポツンと存在を表す山肌の桜も、どこに咲いても、春の到来を告げる、どんな花も趣があって、いい季節です。そう夏だって、秋だって、冬だって、四季折々に自然界は、人に語りかけてくれます。来た春が行くかの様です。

(家内の撮影した写真です)

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失敗、そして勝利者となる

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 『失敗を避けて勝利者になりたい!』と、誰もが願っています。それでも人は失敗をし、国も企業も団体も失敗を繰り返しながら存続してきているのです。確かに、『失敗は成功の母!』なのでしょう。失敗を繰り返さないことこそが、失敗者の行く道なのです。

 昨年のMLBの最終戦で、アーロン・ジャッジが、打者のボールを補給し損なって、落球してしまったのです。ランナーの動きを気にして、一瞬目線がボールから離れていました。それで、正確に補給できず、それが大きく原因して、チャンピョンシップを逃したのです。誰がジャッジをジャッジできるのでしょうか。誰もいないはずです。

 高校時代に、そうしても避けられない事態が起こったことがありました。母が交通事故で大怪我をして、担ぎ込まれた病院での初期手当てが不十分で、傷口が化膿してしまい、両足切断の危機にあったのです。それで10ヶ月ほど入院生活をし、幸い切断はえ免れたのです。自転車を降りて、路側に寄って、大型ダンプカーをやり過ごそうとしていたところを、すれすれを通って行った車輪のボルトで、両足に深い傷を負ってしまったのです。

 母の入院で、家には父と弟と私がいました。兄たちは、静岡県の島田と千葉に就職していて、家にいませんでした。父が、会社を部下に任せて、家事をしてくれたのです。母の必要に届くために通院したり、中・高生の二人の食事の世話をしてくれていました。私は、それを見かねて、クラブを休部したのです。

 私のいたクラブは、卒業生たちがインターハイでも国体でも何度も優勝していた名門校だったのです。練習がきつくて、入部者が少なかった関係でですが、センターフォワードを任されていたのですが、やむを得ませんでした。その年の夏の大会では、東京都予選の決勝で都立のライバル校に負けて、全国大会を果たせませんでした。

 伝統ゆえの厳しい練習で、全国制覇を期していたのです。日没の薄暮の中、ボールに石灰を塗ってまでして、仄暗い中をパスやシュートの練習をしたのです。水も飲めませんし、お腹は空くし、それほどの練習を積んだと言う自負心で大会に臨もうとしていました。それが自信につながるからです。精神性を高める監督の策だったのでしょう。ところが2年連続で、インターハイと国体に出られませんでした。そんな苦い経験があったのです。

 誰もが失敗するのです。必要なのは、寛容であって、裁きではないのです。誰も裁くことはできません。プレッシャーに勝てないと、自分の人生の勝利者にはなれないのです。それはスポーツの世界だけではなく、信仰の世界も同じなのです。

『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(新改訳聖書 ローマ8章35〜37節)』

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 あのニューヨーク・ヤンキースのアーロン・ジャッジは、生まれて2ヶ月目で、養子に出されています。養父母の元で育った彼は、自分の過去を、『神さまがぼくたちを引き合わせてくれたのです!』と、受け止めたのです。もう運命の悪戯などではないという無言の告白でした。唯一の父と母こそ、この養父母だと、自分の出生とその後のことを、事実として受け入れたのです。そしてベースボール・プレーヤーとなって、ヤンキースの花形選手となっているのです。

 今季のアーロン・ジャッジは、今日の時点で、打率3.54ホームラン6本の成績だと、ニュースは伝えています。今年も大谷翔平と競っていくことでしょう。ご両親は、「善良な人間」になることを願って、彼を育てたそうです。生みの親ではないことを知っても、アーロンは両親への感謝と尊敬を失っていないのです。彼は、クリスチャンであることを告白する大リーガーなのです。

 失敗は避けられませんが、それを超える力を、神さまは用意しておいでです。そして、「圧倒的なえ勝利者」とされるのです。

(ウイキペディアのMLBの試合、511勝の名ピッチャーのサイ・ヤングです)