アンテナを高く張り巡らして

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 「所変われば品変わる」と言われます。私が隣国から持ち帰った物の中に、きっと「ただ物」のなさに、驚かれることでしょう。それは、その国の紙幣なのです。タクシーに乗った時に払った料金のお釣りに受け取った20元紙幣でした。何の変哲もない様に見えましたが、実は「偽札」だったのです。

 中国のみなさんは、それが回り回って、自分が手にすると、支払いに紛れ込ませて使ってしまうのです。公安警察に届けたりしないのです。外国人の立場で、これを使って発覚してしまうと、強制国外退去処分を受けますので、怖くて使えずに、私は、どなたかに上げるわけにもいかず、帰国時に持ち帰ってきたわけです。

 私たちの国では、偽札が見つかると、新聞やテレビのニュースに、大々的に取り上げられて、重大事件です。もちろん使った人は警察に逮捕され、厳しく取り調べを受けます。立件されれば、使用者は懲役刑に処せられます。ところが隣国では、平気で、巷で流通しているのです。

 例えば、100元紙幣をレジで手渡しますと、かならず店員さんは、上にかざして、「透かし」が入っているかどうかを確かめるのです。こちらはとても不愉快な気分にされるのですが、それも仕方のないことで、それだけ頻繁に流通しているから、そうせざるを得ないのでしょう。

 欧米諸国のブラエンド品が、隣国のデパートの売り場に山積みにされて売られていました。これも偽物だらけなのです。とても安いのですが、高級品扱いです。それでも構わず、似せて作られた物なので、よく売れるわけです。正規品があれば、必ず非正規品がある社会なのです。

 ところが、今は、ネットによる通信販売が主になってしまい、売り場は展示場で、品定めをしてから、買わずにいて、スマホでネット注文して購入してしまうのです。偽物でも、ブランド品のマークが入ってれば、それでいいので買われるのです。遠くから見たら真偽はどうでもいいからです。

 ですから、全国展開のショッピングセンターやデパートで買うことはなくなってきていて、店内は閑古鳥が鳴くほどです。今や空港でも、中国新幹線駅でも、かつての賑わいがなくなってしまった様です。コロナ騒動以降は、商いは難しくなっています。

 道端のシートの上に、品物を並べて売っているご婦人が多くいたのです。野菜や果物、衣類から鍋釜までです。リヤカーで焼き芋や、餃子などを焼いて売ってる人も多くいました。帰国する少し前から、その代金の支払いが、スマホで決済され始めていました。それで、スリが、その機会を失ってしまったのだそうです。

 私たちの国でも、かつては、粗悪品の輸出で、信用を落としてしまったことがありました。ちゅうしょうのこうじょうでは、どさくさの時代の中で、監督や規制が厳しくなかったので、缶詰に全く違ったものを詰めて、輸出していた話を聞きました。[安かろう悪かろう]の日本製品でした。

 今でこそ高品質で、絶対的な信用や評価を、日本製品は受けていますが、かつては、偽りと誤魔化しが横行していて、粗悪品のレッテルを付けられていたのです。

 今のように、日本人の民度の高さは折り紙付きになって誇れるのですが、それ以前に、粗悪品や誤魔化し物を売って、顰蹙(ひんしゅく)を買っていた時代があったことも忘れてはいけないのです。その汚点を拭うためには、大変な時間と努力が払われてきたのです。偽物には気を付けなければなりません。

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 実は、聖書にも、「ニセモノ」が登場しています。

『しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。(新改訳聖書 2ペテロ2章1節)』

 イスラエルには偽者がいたのですが、教会にも「偽教師」がいると言うのです。聖書にないことを言ったりする説教者に、耳を傾けてはいけません。人道に反することを言う者から聞いてはいけません。歴史の事実を改竄(かいざん)している者も認めてはなりません。たくさんの偽教師が、もっともらしいことを言って、惑わすからです。偽りを察知するアンテナを高く張って、判別しましょう。信頼できる聖書教師に、聞いてみてください。

『御霊を消してはなりません。 預言をないがしろにしてはいけません。  しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。 悪はどんな悪でも避けなさい。:平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。(1テサロニケ5章19-23節)』

 聖書、イエス・キリストを否定する者や、出版物に、耳を傾けずに、聖霊の導きに従い、このお方に聞きましょう。真理を解き明かして下さるからです。本物の聖書教師から学んだこと、語られたことに聞くなら、騙されたりはしないからです。注意、注意の時代なのでしょう。

(Christian clip artsのイラスト、14世紀の聖書です)

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もう思い出ばかりになって

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 「広場(英語で “ square “  )」、「ひろっぱ」を見つけては、そこを遊び場にして、三角ベース野球や宝島などの集団遊びをした、子どもの頃を懐かしく思い出しています。

 今は、公園とかが整備されて、遊具が置かれたりしていますが、子どもの頃に遊んだのは、ただの「空き地」でした。野球をやって、向こうの家の窓ガラスを割ってしまって、『ごめんなさい!』を言って、そこで窓ガラスの大きさを測って、ガラス屋に行って、寸法通りに切ってもらって、それを持ち帰って、サンを外して、それを自分で入れたりしたのです。サッシ枠でなかったのでできました。

 時々古い遊んでいる写真を、見る機会があって、同じ様に、馬乗りとか女の子のゴム跳びとか隠れんぼとかしたことを思い出します。また夕方になると、ラジオが、子ども番組を放送していて、それが聞きたくて、広場の隅に時計なんかないので、腹時計かなんかで、時間を見計らって家に帰ったりしました。

ヒャラーリ ヒャラリコ
ヒャリーコ ヒャラレロ
誰が吹くのか 不思議な笛だ
ヒャラリ ヒャラリコ
ヒャリコ ヒャラレロ
音も静かに 魔法の笛だ
ヒャラーリ ヒャラリコ
ヒャリーコ ヒャラレロ
たんたんたんたん
たんたんたんたん
野こえ山こえ

ヒャラーリ ヒャラリコ
ヒャリーコ ヒャラレロ
どこで吹くのか 笛吹童子
ヒャラーリ ヒャラリコ
ヒャリーコ ヒャラレロ
金と銀との 蒔絵の笛だ
ヒャラーリ ヒャラリコ
ヒャリーコ ヒャラレロ
たんたんたんたん
たんたんたんたん
蒔絵の笛だ

ヒャラーリ ヒャラリコ
ヒャリーコ ヒャラレロ
誰も知らない 笛吹童子
ヒャラーリ ヒャラリコ
ヒャリーコ ヒャラレロ
どこで吹くのか 不思議な笛だ
ヒャラーリ ヒャラリコ
ヒャリーコ ヒャラレロ
たんたんたんたん
たんたんたんたん

 これは、NHKのラジオ番組で、新諸国物語の「笛吹童子」の歌です。いつも遊んでいた「ひろっぱ」の集まっては、そこを遊び場にしていました。男の子も女の子も一緒だったり、別々だったりの時もありました。
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 テレビが放映される前に、昭和20年代、おもに小学生のわれわれ世代に向けて、夕方の時間をさいて、日本放送協会が、子ども枠を設けてラジオ放送してくれたのは、すごい時代だったなと、今になって思うのです。非行化防止などの言葉のない頃、、大人だけの独占番組ではないものを、企画し、作り上げてくれたのは、どんな人たちだったのでしょうか。

 冒険時代劇を、音楽と声優のみなさんが登場して、人物ごとに、話をしながら進めていくのですから、想像力を養い育てるには、もってこいでした。耳から聞いて、聞いている子どもが、それぞれに思い描くわけです。主人公ではない、「五升酒の猩々(ごしょうざけのしょうじょう)」の名前を、俳優で声優をしておられた方の名前が、大友柳太朗だったことも覚えていて、「紅孔雀」に登場していたのも覚えています。

 時代劇の真っ盛りの時代で、別世界や架空の世界の出来事と、今の現実のギャップを超えて、ワクワク、ハラハラと手に汗を握りながら聞き耳を立てていた自分を、はるかに思い描く今です。正義が勝ち、悪が滅びて、夢が養い育てられた、「夢多き夕方」だったでしょうか。テレビ、ゲーム機器、スマホで育たなかった子どもたちの特権でした。

 あの遊びは、ずっと受け継がれてきたものだったのでしょう。お爺さんやお婆さんから、お父さんやお母さんから、ずっとやり続けてきて、新しい遊びも、どうも全国区的に展開していた様です。童歌(わらべうた)も、地方地方で、ほとんど同じですが、歌詞がちょっと違っていた様です。肩を組んだり、腕を組んだり、ゾロゾロ、ソロソロと歩いて、川遊びとか里山遊びもあったのです。

 ウサギは追いませんでしたが、ハヤやバカッパヤなどは釣ったのです。柿やグミやイチゴやイチジクの実を採っては食べました。蒸したり焼いたりした芋や栗もオヤツだったのです。10円玉を握っては、子ども相手の店に飛んで行き、紙芝居のおじさんが巡回してきて、味付け昆布やウエハースみたいな煎餅を買っては見ていました。

 ♪ ああ、だれにも故郷がある ♩、あったのです。兄たちを追いかけてはついて行き、山や川も遊び場でした。冬場には、兄がソリを作ったり、春になると、バッサリと言う、鳥を捕まえる仕掛けをしたこともありました。弟とも遊びました。都会では、なかなかできなかったのを、田舎だったからできたのでしょうか。もう思い出ばかりになりました。

(ウイキペディアの真空管のラジオ、横笛です)

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蒸気機関車を思わせてくれて

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 主の働きに献身した若いテモテに、パウロが、真心から情愛を込めて書き送った手紙が、聖書の中に2通おさめられています。それを読みまして感じるのは、この二人の間には、実に麗しい関係が育まれていたことであります。

 そのパウロが、愛をもって勧めている言葉の1つに、「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが・・(新改訳聖書  1テモテ4章8節)」と言う言葉があります。テモテの健康を願ってのことでしょうか。この言葉の「いくらかは」と言うのは、「少しの間」と言う意味をもっている言葉なのです。キングジェムス訳ですと「little」とあります。

 私に聖書の読み方を教えてくれた宣教師さんは、『ここは、《この地上にある間は有益です》、との意味でしょうか!』と言っておられました。としますと私たちが肉体を鍛錬することは、意味のないことではないことになります。初代教会の時代、ギリシャにはオリンピックがあって、走ったりボクシングをしたり、レスリングもあり、パウロは「賞を受けられるように走りなさい(1コリ9章24節)」と、霊的に当てはめています。

 ずいぶん昔のことですが、アテネ・オリンピック出場をかけた女子バレーの予選の試合が行われていた頃、それをテレビに誘われて観戦していました。その時、日本チームの練習風景が、中継の合間にビデオで流されていたのです。

 監督さんが、19才の高校を出たての様な選手たちに、『バカヤロー!』、『出て行け!』、『お前なんか使わない!』と罵声を飛ばしていました。ああ言った言葉に耐えないと試合に出られない、勝てない、オリンピック大会に出場できないのでしょうか。国の名誉を賭けた、熾烈な競争に勝つには、精神を鍛えなければならないのでしょうか。

 『なにくそ!』という跳ね返す心がないとだめなんです。相手に勝つ前に自分に勝たなければならないし、チーム・メイトにも勝たなければならないのです。根性がなければ駄目なんです。そのためには、暴言も暴力も必要悪なのだ、そういった蛮風な風潮がみられたのです。

 ずいぶん前に、高校の運動部にいた私は、その様子を見ていて、『ちっとも変わっていないな!』と感じること仕切りでした。その五十代の監督さんの選手時代は、われわれと同じ「しごき」の時代だったのです。私たち送球部の練習内容は、ものすごいものがありました。インターハイや国体の優勝校で、その決勝戦への常連校でしたから、その名誉を維持するためには、常識的な練習では駄目だと言うのが結論でした。

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 予科練帰りの旧日本軍の規律で訓練された先輩たちにしごかれたと言う、卒業生のおじさんたち、そのおじさんたちに鍛えられたOBが、入れ替わり立ち代わりやって来るわけです。ビンタは当然でした。殴られると、今度は下級生にビンタで焼きを入れるといった悪連鎖があったのです。

 あの監督さんは、暴力はしていなかったのですが、あの言葉は心に痛かったでしょうね。社会全体が軟らかいソフトムードで、そこで育って来た若者たちの中で、一流選手のいる、スポーツ界は変わっていなかったもです。何時でしたか、ある力士が相撲の稽古をつけている様を、テレビで観ていました。竹刀(しない)で焼きを入れていました。その相手は、彼よりも年令は上で、大学出の人気力士でした。その世界は、年令も学歴も関係ないのですね。番付が上なら天下なのです。

 《悲壮感》、そう言ったものがないとスポーツの世界では、出られない、勝てない、オリンピックには出場できないと言う空気なのです。まさに日本型のスポーツの世界の伝統であります。

 いつでしたか、アルカイダの訓練の様子が放映されていました。またアメリカ海兵隊やイギリス軍の新兵訓練も放映されていたことがあります。戦場の最前線に遣わされる兵士には、非人道的な訓練が、世界中、どこでも行われているのです。そこにあったのは、私が若い頃にやっていた、松涛館流空手の稽古の中に感じた「殺気」です。躊躇のない一撃必殺が要求されるのです。逡巡していたら、殺されてしまうからです。 

 あの監督に罵声を飛ばされていた選手が、試合に出してもらって活躍していました。スパイクを決めた時に見せたのは、実に素晴らしい笑顔でした。『監督さんの愛情からの言葉なんだ!』と思って感謝しているのでしょうか。

 でも、『勝たなくってもいいんだ!』、そういった気持ちで、スポーツを楽しめたら素晴らしいのではないか。そうしたら、肉体の鍛錬にも有効なのだと言う、パウロの願いが、実現されるからです。

 欠点だらけの私を訓練してくださった宣教師さんは、私を、殴ったり、威嚇したり、蔑んだり、罵倒したりしませんでした。彼や、彼の友人の神学校の教師から、聖書の読み方から学び方、時事問題、教会史、そして、家庭建設の仕方、妻と共にどう歩むかまで教えてくださったのです。そして、いつも祈ってくれたのです。

 もう一人の宣教師さんは、20歳違いでしたが、同じ兄弟や友の様に接してくれました。私が家庭を持ってからも、家内も子どもたちも、家族ごと家に呼んでくれ、子どもさんたちと一緒にテーブルを囲んで食事をとり、テニスまで打ち合いました。あの家の匂いも雰囲気も、すべてが懐かしいのです。

 この方の時計の手首への付け方も誕生日も、私と同じでした。何か優しい穏やかさを感じさせてくれ、それでいて力強い蒸気機関車をも思わせる様な方でした。彼は天に帰り、同じ蒸気機関車の様な、あのテーブルに着いていた彼のご子息も、先週、この地上を走り抜けて、「天の故郷」に帰って行かれました。寂しさを禁じ得ません。

(ウイキペディアの蒸気機関車に牽引される列車です)

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別れといえば人の世の常なるを

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 私たちの国の詩には、七五調で詠んだものが多くあります。現代の様な口語体ではなく、文語体の文章によくみられました。その筆頭は、「万葉集」にある和歌でしょうか。私たちが住んでいる栃木に、「三毳山(かもやま)」があり、この山にちなんだ和歌が、万葉集に収められています。ここに古代に敷かれた「東山道」の関所が置かれていたそうです。

しもつけぬ みかものやまの こならのす まくはしころは たかけかもたむ

〈漢字入り表記〉 下野の 三毳の山の 小楢のす 目(ま)細(ぐは)し児ろは 誰が笥(たがけ)持たむ

〈意味〉 下毛野国の 三毳山の コナラの木のように かわいらしい娘は だれのお椀を持つのかな(だれと結婚するのかな 私の嫁になるのだ)

 どなたが詠んだのかの記録はない和歌ですが、下毛野に住んでいる若者なのでしょうか。これほどの文才や表現力があったのですから、教育を受けた人であったことでしょう。詠み人は、人の行き来の多かった地だったでしょうから、都からやって来た、若い役人だったのかも知れません。この里のみめ美しい娘に恋心を抱いて、そう詠んだのでしょうか。
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 古来、日本人は、この七五調の表現を好んだ様です。詠む人も、それを読む人も、聞く人も、強く印象付けられたからです。明治になって、信州から東京に出て学んだのが、島崎藤村でした。木曽の村の庄屋の子で、子どもの頃には、お父さんから「論語」などを学んでいたそうで、東京に出てから、今風の進学予備門に学んだ後、明治学院の本科で学んでいます。

 この藤村が、「惜別の歌」を詠みました。

遠き別れに 耐えかねて
この高殿に 登るかな
悲しむなかれ 我が友よ
旅の衣を ととのえよ

別れと言えば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺むれば
夢はずかしき 涙かな

君がさやけき 目の色も
君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
またいつか見ん この別れ

君がやさしき なぐさめも
君が楽しき 歌声も
君が心の 琴の音も
またいつか聞かん この別れ

 詠んでも歌っても、見事な七五調が際立っている詩で、文語体の文章で、日本語の美しさ、簡潔さを知ることができます。この歌を、よく歌っていた級友がいました。卒業して、結婚式に呼ばれて、一度、新婚世帯を訪ねたっきりです。どうしていることでしょうか。

 これからの季節は、涙や笑いや、様々な感情の交錯する季節ですね。「別れ」があり、「出会い」や「再会」が、私たちの人生にはありますが、この時候の行事がまもなくやって来ます。バス停で止まったバスの中から見掛けたと言って、わざわざ降りて、懐かしい顔を見せ、どうしてるか語り掛けてくれた、何年も前に教えた教え子がいました。けっこう満員電車の中で、背中合わせになる人の中に、懐かしい人がいるかも知れません。

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 家内と二人が、お隣の国で13年の間過ごさせて頂き、素晴らしい出会いがあり、そんな人たちと別れて帰国して7年になろうとしています。その間、私たちの激励者であった宣教師さんが、先週召され、昨日告別式があり、息子に代理出席してもらいました。

 家内の母が、アメリカから来られる宣教師さんご家族に同行し、一才だったその方をおんぶして羽田に降り立ったそうです。宣教の奉仕をして駆け抜けて、59歳で、天におられる父なる神のもとに帰られました。親子二代でお交わりがあった方との「別れ」でした。Zoomで式に参加し、家内は泣き続けていましたが、この方への感謝に溢れていました。夫と父とを送られたご家族、そしてお母さまと兄弟姉妹に、主の慰めを祈りました。

(ウイキペディアの三毳山、中山道馬籠宿、Jさんが誕生されたアラババマ州に咲く百合の花です)

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物みな上がるこの世で

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 2025年2月9日、神奈川県の小学校の2年生の「ほりうち君」が、NHK「子ども科学電話相談室」の相談者でした。この世代の子どもたちも、物価高の影響を受けているのだそうで、『給食のおかずも少なくなっています。』と言っていました。

 そういえば、Mサイズの「みかん」が一個で、150〜200円ほどしていますし、いつも生協に注文している、農薬使用の少ない「お米」が、2600円で買えていましたのに、米騒動後には、もうずっと3500円ほどに高騰しているのです。どうなってしまったのでしょうか。

 昨夏の高温の異常気象の影響で、果物も野菜も、お米も不作だったとか、多くの農産品がその影響を被ったわけです。ところが、秋の収穫期以降、病虫害の発生や生育不良で、収穫が少なくなり、製品として集荷できなくなった様です。

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 そんな自然界の異変と共に、いつも思うのは、流通に問題があって、幾重にもある中間の仲買や卸が、同じ様に儲けを得るために、高くなった分を生産者と消費者が強く影響を受けているのでしょう。机に電話一台の卸の仲買いがいて、右と左のものを動かしているのです。今では、運送業者や宅配業者が、卸と小売で物を動かすので、パソコン上でパソコン操作で商いをしているのです。

 スーパーが、生産者グループから直接買い付けて、本部で仕入れて、各支店に、運送業者に配送を依頼しているのですから、もっと安くなるはずですが、どこかで儲けを一定基準に定めて、売価が決められているのでしょうか。小売店でも、大手のスーパーマーケットでも、値段の高さに違いがない様です。

 物みな上がる昨今の煽りで、「ほりうち君」が、動物園の動物たちの食糧事情を、わが事の様に心配して、その相談だったのです。自分の育てられている家庭の台所事情、給食事情を敏感に感じるだけではなく、動物たちの食卓を心配していたのです。

 そんな子どもが一人、令和の代にもいることを知って、その優しさに、涙が浮かんで感動してしまいました。歳をとって涙もろくなっただけではなさそうです。「感動」しての涙です。利己主義のニュースばかりの大人たちの時代の只中に、その様な子どもがいて思ったのは、『21世紀は大丈夫だ!』と、安心したわけです。

(ウイキペディアの多摩動物公園、動物の餌のりんごです)

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悲しい出来事の先に

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 この1ヶ月ほど、私の唇に登ってくる賛美の歌詞があります。今朝も、思いの内に登ってきています。

♫・・・やがて天にて 喜び楽しまん 君に見えて 勝ち歌歌わん ♬

 学校出たての22歳の1968年の3月に、作詞がサトウハチロー、作曲が加藤和彦で、ザ・フォーク・クルセーダズが歌った「悲しくてやりきれない」が発表されました。

胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ 涙をながす
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせない モヤモヤを
だれかに告げようか

白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ わびしくゆれる
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
この限りない むなしさの
救いはないだろうか

深い森の みどりにだかれ
今日も風の唄に しみじみ嘆く
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このもえたぎる 苦しさは
明日も続くのか

 みんなが悲しむので、この気持ちは本物で、正直な感情なのです。ところが、教会に行き直す1970年頃に、「喜べ」というコーラスなどを、一人のニューヨークの聖書学校の教師で、多くのアフリカへの宣教師を派遣し、そのお世話をしていらっしゃる方が、私たちの教会に来られて、紹介してくれたのです。

♬ よろこべよろこべ 主の民よ よろこべよろこべよろこべ 主の民よ ♫

 とても簡明で、単調な賛美コーラスでした。

 悲しい出来事で、気の滅入っていた人類に、永遠のいのちの約束を持って、イエスがキリストとして、父なる神の元からおいでになられたのです。このキリストが、約束された赦し、救い、解放、癒し、自由、永遠、栄光、力を、私たちにもたらしてくださったのです。闇と絶望と滅びと死を打ち砕いてくださって、神の子としてくださいました。

 だから、手を打ちたたいて、この救い主イエスさまを喜べと言われたのです。それでも、いつも喜んでいた私たちに、たびたび、「召された知らせ」が届いてきました。昨晩、早めに床についたのですが、2時頃に、家族間のチャットを見ましたら、若き友人が、ICUに搬送されたとの知らせが、在米中の次女からあり、『祈って!』と言ってきたのです。しばらくして、上の息子から、『天の主の元に召されたそうです!』と知らせが入りました。

 やはり突然のことで驚いてしまいました。家内は、『一番素晴らしいと永遠の住まいに帰られたのですから、そのことを認めましょう!』と、今朝になって言いました。そうですね。人のいのちの支配者は、その付与者でいらっしゃる創造主なる神さまでいらっしゃるからです。

 聖書には、

Precious in the sight of the LORD is the death of his saints.(『主の聖徒たちの死は主の目に尊い。詩篇116:15』)
とあります。

『主の元に帰られたのですね。主の慰めを、奥さま、息子さん夫妻、お嬢さん、次男のJ君、お母さまやご兄弟姉妹のみなさんの上に祈りましょう。そして彼の全てを主のみ手に委ねましょう。』と、子どもたち家族にチャットを送りました。

 彼は、私たちの13年の在華中、帰国後も、ずっと主の愛を示してくれた方でした。とくに家内の闘病にも、いつも激励を寄せてくれました。一昨年は、ご家族で、私たちを訪ねてくれたのです。まさかの出来事と驚くのですが、主のみ手を認めます。

 主にある聖徒の死は、凱旋です。この地上の生涯を終えて、神さまのいらっしゃる天に凱旋したのです。だから、悲しみ過ぎないでいたいのです。そう、今も、

♫・・・やがて天にて 喜び楽しまん 君に見えて 勝ち歌歌わん ♬

が、私の唇に登ってきています。

 主の慰めを、ご家族のみなさんの上にお祈りします。

(Christian clip arts のイラストです)

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61歳の学生証を

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 中国へ、留学生として、「漢語」の学びに出掛けたのが、61歳の時、夫婦のセットでの語学留学でした。まず香港で、1週間過ごしたのです。シンガポールで働いていた長女が、通訳者として来てくれました。中国語を学ぶためにでしたが、香港では英語でしたので、説教する機会もあって、その週の間、元看護師や大学教授や医師やビジネスマンの30人ほどの留学生が一緒でした。

 香港の自然の中の施設で、美味しいご馳走や学びもあったのです。娘はシンガポールに飛行機で帰り、私たちは、九龍駅から北京駅までの中国横断の国際寝台列車に乗ったのです。みんな若いイギリス人、ブラジル人などと一緒でした。朝、通路の椅子に腰掛けて聖書を読んでいましたら、5、6人のグループの一人の青年が、『それはバイブルですか?』と聞いてきたのです。それで会話が始まり、台湾から来て、北京に行くと言っていました。台湾系のブラジル人でした。

 私たちのグループにも、ブラジル人がいると言いましたら、『母が、連絡してきて親戚のデニーズが北京に行くそうなんです!』と言ったのです。同行のブラジル人が、デニーズでした。それで彼女をベッドから起こして、『親戚がここにいる様ですよ!」と言ったら、寝ぼけ顔で起きてきて、大喜びで母国語の中国語とポルトガル語でえの会話をし始めたのです。従兄弟だったのです。こんな親族の出会いが、異国の地を走る国際列車の中であるのに、私たちも驚いたのです。

 台湾系のブラジル人たちで、北京で、祈ったり集会を開くと言っていました。私たちは、北京近郊の街から、小型バスの迎えを得て、所定の宿舎に連れて行ってもらったのです。夜が遅かったのですが、もう休める様に準備をして迎えてくれたのです。すでに数年、そこで過ごしておいでのドイツ人の若い夫婦が、暖かく迎えてくれたのです。

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 9月の上旬が、中国の新学年の始まりで、イギリス人と中国人の校長二人で、10人ほどの教師がおいで、語学学校を経営しておいででした。外国人のための宿舎は、自転車で20分ほどに所にあったでしょうか、しっかり管理と監視がありました。まず、自転車を買いに連れて行ってもらったのです。みなさん自転車で、リヤカー付きに自転車もあって、子どもたちを乗せて、学校や事務所を往復していました。

 そこに一年いたでしょうか。楽しいひと時を過ごしたのです。一緒に賛美したり、祈ったり、集会を持ちました。日曜日には、大きな劇場の様なところで、礼拝が持たれていました。パスポートを見せて入場するのです。その街に外国人のためだけの、政府の許可を得た集会場でした。

 ビジネスマンや大学の教師、学生が集っていて、現地人は参加できませんでした。宿舎は、ホテルの様で、七階の部屋が与えられたのです。エレベーターなどなくても、元気に家内も私も、日に何度も降りたり昇ったりしました。近所に「市場shichang」と呼ばれるマーケットがあって、そこで食材とか必要品を買ったのです。

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 同じ宿舎のみなさんを呼び合ったり、学校の担当の教師をお招きして食事会をもったり、家にも招いてくださって、親しい交わりがありました。体の不自由な方に、歩行器や補助車などを作る指導をされていたイギリス人のご婦人が隣人で、時々交わりをしたり、アメリカ人の夫妻、イギリス人の夫妻、ニュージーランドからの夫妻、オーストラリヤ人の男性などとの交流がありました。

 医科大学の教師をされている人たちも、学校か政府が、特別に住まいを提供されているのでしょうか、その様な家にも招いて頂いたこともあったのです。外に住んでいる方たちとの交わりもあったのです。あっという間の濃密な一年を、そこで過ごしました。

 その一年の間に、次男が二度も、老いて隣国に行った両親が、どんなふうに過ごしているかを確かめに訪ねてくれたのです。自分の荷物を持たないで、大きなズタ袋の様な物に、何やら日本で、いっぱいに買い込んで運んでくれたのです。北京の飛行場から、スマホ一台を手に、タクシーに乗ってでした。嬉しい訪問でした。

 それから華南の地に移って、12年間を過ごし、都合13年の隣国の滞在でした。今日、整理していましたら、書類の引き出しの中から、「学生証」が出てきて、それで、その20年ほど前の一年が懐かしく思い出されたのです。とても充実していたからでしょうか、思い出が溢れてきたのです。

(本物の学生証、中文維基百科の現在の九龍駅、天津市五大路です)

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品格や高潔さを吟味しなくては

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 政府の財務省に、新紙幣の肖像画に関する規定があって、次の様に公表されています。

 紙幣の肖像については、近年の改刷では、

(1)偽造防止の観点から、なるべく精密な写真を入手できること、(2)肖像彫刻の観点からみて、品格のある紙幣にふさわしい肖像であること、(3)肖像の人物が国民各層に広く知られており、その業績が広く認められていること、このことを踏まえて、明治以降の人物から選ばれています。

 1958年(昭和33年)に初めて発行された一万円札には、飛鳥時代(593〜710年の118年間)に活躍した人物で、「聖徳太子」が選ばれました。大阪の街中のターミナル鉄道駅で、「天王寺駅」がありますが、その名の寺院を建立した人物だったのです。さらに、「十七ヶ条憲法」をまとめ、国の骨格を定めてもいて、遣隋使を派遣した人でもありました。

 この聖徳太子の肖像で、両手にしている「笏(しゃく)」を見て、『アイスクリームをこんな大きなヘラにつけて食べられたらいいなあ!』と、次女が言ったことがありました。その娘は、今、二児の母として、終盤の親業に励んでおります。

 さらに、1984年(昭和59年)と2004年(平成16年)に発行された時に、「高額紙幣として、品格のある紙幣にふさわしい肖像であり、また、肖像の人物が一般的にも、国際的にも、知名度が高い明治以降の文化人であること。」とされ、それに相応しかったのが、この福沢諭吉でした。

 この福沢は、豊前国(今の大分県に当たります)の中津藩の武士で、幕府の使節として、欧米に派遣された時に、その文化に触れて、あの「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり。」と言う言葉を紹介しています。さらに、「されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。」と続けています。

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 つまり「学ぶか、学ばないかによって、人の違いが生まれる」ということです。福沢諭吉は、それだけ学びが重要という考えを持っていた人物で、慶應義塾を起こし、教育的な面で貢献しています。

 2024年7月3日に、福沢諭吉の肖像から改刷、発行された新一万円札の肖像は、渋沢栄一でした。「私は、あくまでも尊徳先生の遺されたる4ヶ条の美徳(至誠、勤労、分度、推譲)の励行を期せんことを希(ねが)うのである。」と述べています。さらに、「企業が利益を追求するのは自然なことだが、お金儲けのベースには、常に道徳心がなくてはいけない(「道徳経済合一説」によります)。」とも言ったそうです。

 この人は、近代日本の発展のために尽くしたと言われて、「日本資本主義の父」だと、高く評価されています。これまで、この人は、肖像候補にされたにもかかわらず、没になってきて、やっと令和の世になって、岸田前首相の時代に選ばれているのです。

 「道徳心」の涵養をスローガンに掲げながらも、心を制したり、欲望を統御できずに、多くの妻妾(妻以外に夜伽として囲われる女性を言います)を持った男だったのです。経済発展への貢献は大きかった裏側で、そんな生き方をしていたことの表裏矛盾を、私は、自分の孫たちにどう理解させ、納得させたらいいのでしょうか。

 福沢諭吉が選ばれる基準の「品格」は、それから30年経って、考慮されなくなってしまったのでしょうか。そんなことよりも、経済面や商業面での貢献だけが、岸田政権下で評価されてしまったのは、見境のない時代を反映していたのでしょうか。繁栄だけを求めたり、目標とされることが国家目的で、そんなに誇れない下品極まりない男に、令和の子どもたちのモデルになって欲しいのでしょうか。紙幣を飾る人として、品格や人格の高潔さを吟味する必要がありそうです。

(ウイキペディアの「世界の紙幣」、「アメリカ硬貨です)

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今はひとりぼっちではない

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 ヘルマン・ヘッセが、次の様なことばを残しています。

「人生とは孤独であることだ。だれも他の人を知らない。みんなひとりぼっちだ。自分ひとりで歩かなけねばならない。』

 父と母によって生を受け、この二親の愛によって育てられ、やがて二親から離れて、私は独立しました。天職を得て働き、妻を備えられて、子たちを得ました。彼らを育てて独立させ、再び妻と二人で暮らし、やがて、どちらかが先立って離れて行き、一人になるのでしょう。

 思い返してみますと、激励され、褒められ、叱責され、また助けられて、自分も「一人」の人となりました。それでも、矢張り何時でも「独り」だったのです。二親や兄弟や友達がいて賑やかでも、「独り」という思いを味わったのです。ですから、ヘッセが言う様に、「ひとりぼっち」さを感じております。

 それは、孤立しているのではないのです。父や母におぶってもらった思い出があり、肩を組み合った仲の良い友だちがいて、一緒に生活をした妻がいて、子どもたちをおぶったり抱いたりしたこともあるのです。でも、それは時々の経験で、独り寝をしたり、独り食をとったりしている時、独りでいる様に感じたのです。夜、ベッドの毛布にくるまって寝ている時も、目覚める時にも、やっぱり「独り」なのです。

 「一人」と「独り」とは違います。「一人」は、集団の大人数に対しての単単位で、比較的な表現でしょうか。また「独り」は、「孤独」の様に、ポツンと一人で寂しくいる状態です。「独」の旧字は、「獨」で、「犭」偏に「蜀」の作りの漢字で表していました。「犭」は、犬を意味していて、犬に似た獣や、異民族への蔑称、野獣的な行為などを意味してできた漢字です。「蜀」は、芋虫や青虫、蛾を意味していて、中国の四川省を「蜀の国」と呼んでいます。

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 聖書には、こう記されています。

 『私は再び、日の下にむなしさのあるのを見た。 ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽き足りることがない。そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなくて自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた、むなしく、つらい仕事だ。 ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。 どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。 また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(新改訳聖書 伝道者4章7~12節)」

 誰も、独りでいるのには耐えられないからです。それで、誰もが「友」を求めるのです。「孤高の人」と言う様な表現があります。人々の間で抜きんじていて、他と違った気高さを感じさせる人を、そう言います。他人に左右されたり影響されないで、独立した人なのかも知れません。一人で生きていける人です。

 それとは違って、協調性の欠けている人を、そう言うこともありそうです。良い意味では、他者に感化されずに、自分一人で立ち続けて、一人で、独りでも生きていける人のことです。

 弟子たちに理解されずに、一人残されたイエスさまは、ひたすら、カルバリーの十字架に向かって進んで行かれました。やがて、ご自分を信じる人たちの救いのために、その孤独な道を歩み続け、救いの道を完成されたのです。

 人には理解されなかったのですが、イエスさまには理解者がいました。

『神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。 神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、 海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、 わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、(箴言8章27~30節)』

『今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(ヨハネ17章5節)』

 父なる神さまこそ、イエスさまの唯一の理解者だったのです。天地の万物が創造された時に、御父の「かたわら」におられたと記されてあります。

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 ところが、

『あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。(マルコ12章10節)』

『すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。(同14章50節)』

 イエスさまは、3年半共に歩み、共に生活をした弟子たちに見捨てられてしまいます。

『そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(15章34節)』

 そればかりではなく、御父に「見捨てられ」てしまうのです。十字架の上で、罪のそのものとなってしまわれたイエスさまから、御父は目を逸らされました。ずっと見続けられ、交わりを持ち続けてきたのに、イエスさまが十字架で罪そのものとなられてしまった時に、その瞬間、御父は罪となられたイエスさまを静視できなかったからです。

 イエスさまは、十字架の上で死なれ、墓に葬られました。ところが蘇られたのです。死と墓とを打ち破られたのです。今は、御父のみそばにおいでです。そこで、私たち信じたものたちのために、執り成しの祈りをしていてくださり、助け主なる聖霊をお送りくださり、私たちを迎える場所を設け、それが用意されたら迎えにきてくださると約束しておられるのです。

 罪のないお方が、罪とされたことによって、人の救いが完成しました。私は、17歳で信仰告白を、22歳でバプテスマを受けましたが、Back slide(脱線)していました。しかし、25歳の時に、聖霊のバプテスマの経験をした時、救いを確信させられたのです。それ以来、八十になった今も、その確信は動じません。

『また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28章20節)』

 私にも友がいます。親友と言う友もいます。しかし、私を、『友よ!』と呼びかけ続けてくださるイエスさまがいてくださるのです。決して裏切らないで、目を逸らしたりしない真正の友です。だから、人に裏切られ、嫌われても、孤独や孤立を経験しても、「ひとりぼっち」ではないのです。

(Christian clip artsのイエスさまのイラストです)

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『いと小き者の一人になしたるは』

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 かつて「東野鉄道」という鉄道会社が、那須地方にあって、旧国鉄の西那須野駅から黒羽(くろばね)駅の24.4kmの軌道を走っていました。主に農業生産物の輸送と、近くにできた陸軍の飛行場へ物資を搬入、人の輸送をするために開通した鉄道だったそうです。1968年には、無用になったのか廃線になっています。

 この東野鉄道の終点の黒羽は、那珂川という河川が近くに流れています。江戸時代には、「黒羽藩」の城下町でした。江戸からは、そう遠くなく、地方の一万八千石の小藩でした。それでも幕末には、藩主の大関氏が、幕府の要職に就き、重要な職務にあたっていたのです。

 この那珂川では、栃木市の巴波川と同じ様に、「舟運(しゅううん)」が行われていたと言われています。黒羽町は、平成の合併で、大田原市に編入されているのです。その大田原市の広報に、次の様にあります。

『近世中期の頃から明治の終わり(鉄道開通)頃まで、那珂川には帆かけ船(小鵜飼船)や筏による舟運が行われた。黒羽の属する東野地方は、利根川水系の文化圏に属し、江戸と結ばれ、奥州街道の開通によって、南奥(白河、会津方面)にまで商圏を拡大していた。輸送の経路は黒羽から常陸の野田や長倉を通じて水戸に入り、更に一部陸送し、北浦を南下し、利根川をさかのぼって江戸へと、廻米等の物資輸送が行われ、常陸、野州、奥州の文化経済交流の役を果たしていた。黒羽には両河岸(上河岸・下河岸)があり、天保4年(1833年)頃の持ち船は46艘を数え、主な輸送物資は、米、酒、しょう油、たばこ、茶、絹糸、木材等で、帰りの荷は海産物が主で、乗合にも利用されていた。現在、下河岸跡には石垣と水神を祀る小祠が老松の傍らに残っている。河原は河川公園となっている。』とあります。

 ここ黒羽は、芭蕉が訪ねた地でもあり、「奥の細道」の行程が、150日ほどでしたが、14日間(13泊14日)も滞在したことになります。禅の修行をした時の恩師が、この地に滞在したことがあったとかで、懐かしさもあったり、また門弟がいたりで、句会を開いたことにより、長期に及んだのだそうです。「那須の黒羽(奥の細道)」の部分です。

 『那須の黒ばねと云所に知人*あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへども、さすがに情しら ぬには非ず。「いかヾすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとヾまる所にて馬を返し給へ」とかし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名を「かさね」と云。聞なれぬ名のやさしかりければ、

 かさねとは八重撫子の名成べし  曾良

 頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て馬を返しぬ。』

 この黒羽町のある那須地域は、那須与一に始まり、多くの逸材を生み出し、外部から多くの人たちがやって来て、不毛地の開拓など近代化への事業を残しています。その中でも、この黒羽藩の家老、大関増虎の娘、「和(ちか)」は黒羽で生まれ、長じては近代日本の看護婦会の働きなどを担った婦人でした。亀山美智子の著した「大風のように生きて(ドメス出版社刊)」に、そう記されてあります。

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 和は、幕末の1858年(安政5年)5月23日に生まれ、19歳で、次席家老の息子と結婚し、二児を産んでいます。夫の身持ちが悪く、和から三行半を突きつけて、離婚し、子の養育を母親に託して、明治14年(1881年)に上京し、英語習得のために正美英学塾に通います。その頃、出会った植村正久牧師の勧めにより、同20年1月、桜井女学校(現在に女子学院の前身です)附属看護婦養成所に入学し、その第一期生(鈴木雅など6人)の一人となりました。

 明治21年(1888年)10月26日に看護婦養成所を卒業した和は、そのまま帝国大学医科大学第一医院(現東大病院)の外科の看病婦取締(看護婦長)となりました。明治23年には退職の上、年末、新潟県の高田女学校舎監兼伝道師として同校へ赴任しています。その後、明治29年夏、東京に戻り、秋には東京看護婦会講習所講師となります。植村正久(後の富士見町教会の牧師になっています)と出会い、彼に師事し、バプテスマを受けてキリスト者となります。

 惨めな境遇を生きる婦人たちを解放するための「廃娼」や「一夫一婦」を掲げた、婦人の解放の活動をした、「キリスト教婦人矯風会」の働きにも、和は加わっています。明治の日本女性としては、画期的な歩みをしたことになります。

『なんぢら我が飢ゑしときに食はせ、渇きしときに飮ませ、旅人なりし時に宿らせ、  裸なりしときに衣せ、病みしときに訪ひ、獄に在りしときに來りたればなり」  ここに、正しき者ら答へて言はん「主よ、何時なんぢの飢ゑしを見て食はせ、渇きしを見て飮ませし。  何時なんぢの旅人なりしを見て宿らせ、裸なりしを見て衣せし。  何時なんぢの病みまた獄に在りしを見て、汝にいたりし」  王こたへて言はん「まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、即ち我に爲したるなり」(文語訳聖書 馬太福音書25章35-40節)』

 和は、「明治のナイチンゲール」と言われ.たそうです。植村牧師は、いつも泣いては相談に来た和を、「ナキチンガエル」との渾名(あだな)をつけたという逸話も残されています。黒羽で過ごしていた若い頃には、馬に乗って、武家屋敷から出て、原野を走り回るほど、男まさりだったそうです。我が家においでになるご婦人のお母さまは、この黒羽の出身で、那珂川で獲れる鮎の甘露煮をいただいたことがありました。

 明治維新前夜に生を受け、創造者に出会って、信仰者となり、婦人の待遇や評価を高める働きを果たし、自らも職業婦人として生きて、1934年5月23日に亡くなるまで、江戸、明治、大正、昭和を走り抜けて、74年の生涯を終えて、神さまの元に帰っていったのです。2026年の春のNHK朝ドラ「風、薫る」の主人公は、この大関和です。

(ウイキペディアの那須の地の那珂川の航空写真、国立国会図書館デジタルコレクションによる大関和です)

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