漫ろ歩いた街が

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 甲州街道は、日本橋から、四谷にあった大木戸を出て、内藤新宿から府中、多摩川を渡って日野宿、小仏峠にあった小仏関所を経て与瀬宿(相模湖)、大月宿、笹子峠を越えて甲府、諏訪宿に至り、中山道と合流して、京に至るのです。

 木戸は、江戸時代には、江戸にも大阪に、どこの地方都市にも、町の保安のために、町境に設けられて、町中の安全を確保lしていたのです。その町木戸は「明け六つ」(午前 6 時頃)に開けられ、「夜四つ」(午後 10 時頃)に 閉まります。江戸の大木戸は、他に、東海道の中山道の高輪(たかなわ)、板橋があり、日光街道には大木戸はありませんでした。

 甲州街道沿いの町に住んだからでしょうか、どうしても新宿を近くに感じてならないのです。ここ栃木のみなさんんは、千住とか、電車が繋いだ浅草なのでしょうか。この新宿は、江戸期にも、とても栄えた町だった様です。私の通った学校も最初の職場の本部も、都内にありましたので、ここが通過地点であり、下車地点だったのです。

 新宿の伊勢丹の近くの路地に、寄席(よせ)がありました。いえ、今もあります。そこは「末廣亭」と言い、中学生だった上の兄が、新宿に住んでいた英語教師に誘われて、この寄席に連れて行かれていたのです。家に帰って来ますと、その寄席の様子を、面白おかしく話してくれたのです。

 よく「猿真似」と言いますが、弟の私は、兄の真似をして、背伸びをしていたのです。それもあって、落語に、強い関心を持つ様になったのです。『神宮で、早稲田と慶応の試合があるってねえ!』、『そうけえ(早慶)!』とか、『隣に塀ができたってねえ!』、『へー!』と言った話をしていたのを聞いて、子ども心に面白いと思ったのです。学校に行くと、みんなの前でやったりしていました。

 子どもの頃には、ラジオ全盛で、落語や漫才や浪曲、歌舞音曲を、よく放送していました。また歌謡曲の全盛時代だったでしょうか。テレビ放映が始まる前には、耳で聞いて、想像力を働かせて理解するのですから、聞き漏らさない努力が必要でした。

 それだからでしょうか、言葉をラジオを聞いて覚え、意味が分からないと、父や兄たちに聞いたり、広辞苑を引いていたのです。そんなで、学校帰りに、新宿に下車して、この「末廣亭」に落語を聴きに行きました。同級生を誘っていったこともありました。やはり、日本の大衆文化は、洋物とは違って興味深かったのです。

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 『えーっ、一席バカバカしいお話を申し上げます!』と言った出だしで話し、口演者を、「噺家(はなしか)」と呼んでいました。座布団の上で話すのですが、そこを、「高座」と呼んでいました。もうお名前も題も忘れてしまいました。歯切れのよい「江戸ことば」を聞いて、一端の落語通になったように、笑いを誘われていたのです。

 この末廣亭が、どんなところかの記憶はありましたが、今日、Youtubeで、「桂米丸追悼興行」を観たのです。お弟子のヨネスケ(桂米助)さん(落語界では師匠)が、その会を企画し、開催していて、寄席前の通りに出られて挨拶をしている、末廣亭の映像は、全く変わらないのです。高座も客席も、全くお同じ様子で、六十年前と変わっていなかったのです。改築なしで、椅子席のシートは張り替えられているでしょうけど、驚きました。

『わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ』と言った。(新改訳聖書 エゼキエル16章6節)』

『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(伝道者12章1節)』

 あの級友は、北海道が故郷で、卒業式に、ご両親が見えらていたのです。『楽しい経験をさせていただきました!』と、お礼を言われてしまいました。札幌に仕事を見つけて、彼女は帰って行かれました。それっきりになってしまったのです。

 まさに、「若い日」、「血に染まった」、「わざわいの日が来ないうち」の様な時を過ごした「場所」でした。私の「青春の譜」の一頁が、この新宿でもあったのです。あの伊勢丹の裏の通り道を、懐かしく思い出しています。

 その興行に呼ばれた噺家さんたちは、当然、総入替されておいでで、若い頃に馴染んだ方々は、お亡くなりになり、名の知らない若手が多くなっておいででした。江戸期に始めれた寄席は、今や人気で、若い人たちの支持を得ている様です。

 出し物も、「発泡スチロール芸」なんてものもあるのです。あの有名な「笑点」のメンバーも知らない方々に代わっていて、われわれ世代は、ほとんどおいでにならない様です。昭和は時と共に、過ぎて行ってしまい、この街を、新しい世代の人たちが漫(そぞ)ろ歩いていることでしょう。

(ウイキペディアの末廣亭、広重の内藤新宿図です)

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謙遜であれ

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『謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。(新改訳聖書 箴言22章4節)』

『同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。(1ペテロ5章5節)』

このクリスマスローズの頭を垂れて咲く姿に、驚かされます。バラが、頭をあげて咲くのと違って、謙って咲くこの花は、「主を恐れること」と「謙遜」 には、深い関わりのあることを教えてくれます。

(ウイキペディアのクリスマスローズです)

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文明開化の音がする

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Landing of Commodore Perry, Officers and Men of the Squadron, to Meet the Imperial Commissioners at Yoku-hama, Japan, March 8th 1854

♩ ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする ♬

 これは明治の初めに、日本中で歌われた歌の一節です。明治になると生活は伝統的なものから、欧米的、近代的なものに急速にかわっていきました。日本が、260年にも及ぶ、徳川幕府の封建的な社会から、近代化して行く時期が、その後の日本の歩みにとって、実に大切な節目であったのが、幕末と明治維新でした。

 ペリー率いるアメリカの艦隊が、1853年に、浦賀に現れたことは、当時の社会にとって、衝撃的な出来事でした。その前年の1852年に、中国大陸の上海に、長州の高杉晋作、薩摩の五代才助、佐賀の中務田倉之助らが訪ねています。そこで目撃したのは、列強諸国の植民地支配の現状でした。それに、太平天国の乱で、清朝中国は大騒動の渦中でした。日本も同じ様な植民支配を被るのではないかとの脅威を痛烈に感じたのです。

 対アメリカとの間で、不平等な日米修好通商条約を、幕府は締結をし、ついで、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約、「安政の五か国条約」を結ぶのです。押し迫る欧米諸国との関係に、国中で議論が沸騰していきます。幕府の一方的なやり方に反対する勢力が起こるのです。

 当時の清朝の状況は、欧米列強の植民化政策で、中国の惨状は目も当てられない状況だったのです。それを留学生として上海に学んだ高杉晋作らは目撃して、次は自分たちの国の番の様に、危機感を痛烈に覚えて、帰国しているのです。

 高杉晋作は、漢学塾や藩黌(校)の明倫館に学び、やがて松下村塾に学んだ人でした。この松下村塾は、吉田松陰が、1857年に、長州藩の子弟、50人ほどを集めて教えた私塾でした。松蔭は何を教えたのかと言いますと、高杉と共に学んだ、久坂玄瑞(くさかげんずい)と、松蔭との往復書簡の中で、次の様に久坂に、松蔭は返事を出しています。

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 『今や幕府は諸外国と条約を結んでしまった。それがだめだといっても、我が国から断交すべきではない。国家間の信義を失うことは避けなければならない。外国とは平穏な関係を続けながら、我が国の力を蓄え、アジア、中国、インドと手を携えたのちに欧米諸国と対峙すればいい。あなたは一医学生でありながら空論を弄び、天下の大計を言う。あなたの滔々と語る言説はただの空論だ。一つとしてあなたの実践に基づくものはない。すべて空論である。一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめよ。』

 その松蔭は、安政の大獄で捕えられ、処刑されてしまうのです。荒れに荒れた時代の只中で、徳川幕府の政治に反対して、天皇を中心にした政治を行うことを主張した「勤皇派」と、幕府の動きに同調する「佐幕派」とに分派して争いが苛烈になっていき、幕末の騒乱が繰り広げられました。

 近代化、欧米化の動くは止めることができないで、「王政復古」、徳川幕府は倒れ、天皇を担いだ長州藩や薩摩藩や土佐藩などの勢力によって、明治維新政府が誕生するのです。そして日本は、「文明開花」が展開していきます。1959年には、ヘボンが来日し、開港の地、横浜の神奈川宿で、医師として施療所を、お寺の中に設け、施療を開始し、1863年には、「ヘボン式ローマ字」のヘボンによって、「ヘボン塾」が開校し、聖書と英語が、青年たちに教えられていきます。

 その欧化政策は、怒涛の様に行われて、明治の世が展開して行くのです。日本の歴史の中で、一番大きな変化の時期だったわけです。明治の動きは、ここ栃木県下にも及んでいて、維新に大きく関与した明治の元勲という人たちが、那須地方の開墾や発展に貢献しているのです。栃木県の県令(第三代)には、元薩摩藩士の木島通庸が任命されています。誰も止めることのできない時代の大きなうねりでした。

(ウイキペディアのペリーライコウの図、松下村塾です)

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矛盾ではなく事実として

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 文化勲章を受賞した堀辰雄が、「エマオの旅びと」と言う作品を残しています。次の様な短文です。

 「我々はエマオの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。」これは芥川さんの絶筆「續西方の人」の最後の言葉である。「我らと共に留れ、時夕に及びて日も早や暮れんとす。」

さうクリストとは知らずにクリストに呼びかけたエマオの旅びとたちの言葉はいまもなほ私たちの心をふしぎに動かす。私たちもいつか生涯の夕べに、自分の道づれの一人が自分の切に求めてゐたものとはつい知らずに過ごしてゐるやうなことがあらう。彼が去つてから、はじめてそれに氣がつき、それまで何氣なく聞いてゐた彼の一言一言が私たちの心を燃え上らせる。

 いま、「西方の人」の言葉の一つ一つが私の心に迫るのも丁度それに似てゐる。例へば「クリストの一生の最大の矛盾は彼の我々人間を理解してゐたにも關らず彼自身を理解出來なかつたことである。」――これまで私たちは芥川さんくらゐ自分自身を理解し、あらゆる他の人間の心を通して自分自身をしか語らなかつたものはないやうに考へがちであつた。

 しかし、いまの私にはそれと反對のことしか考へられない。芥川さんもやはり自分を除いた我々人間を理解してゐたばかりである。我々に自分自身が分かるやうな氣のしてゐたのは近代の迷妄の一つに過ぎない。」

 あの中学校時代の国語の教科書に載せられてあった、「杜子春」を書いた芥川龍之介を敬慕していたのが、この堀辰雄でした。芥川の最晩年の作品が、「西方の人」、「続西方の人」で、そこに取り上げられていたのが、エマオへの道を行く、イエスの弟子たちとのやり取りの記事なのです。

 十字架で、贖いの死を遂げたイエスが、蘇られて、エルサレムから11kmほどのエマオへの道を行く、二人の弟子たちに顕われ様子が、聖書(ルカの福音書24章)の中に記されてあります。旧約聖書にも預言されています。

 まさかイエスだと気づくことのなかった弟子のふたりが会話をしているのです。前代未聞の「復活」は、旧約聖書に預言されていました。人が生き返ることほど、それを受け入れるのが難しいことはありません。

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 キリストの教会は、そのキリストが蘇られた「復活」の上に建てられたのです。墓と死とを打ち破って、マリヤや弟子たちに現れたのがイエスさまでした。その目撃者として「ekklēsia エクレシア」として教会を形作った群れが誕生したのです。

 イエスを見捨て、逃げてしまった12人の弟子たちが、キリストの教会の「首石(かしらいし)」となったのです。もうイエスさまを否むことはなくなりました。生涯をかけて、信仰を持ち続けたのです。イエスさまの母マリアも、マグダラのマリヤも、それを信じ、キリストの教会の一員とされています。

 そして21世紀に生きる私も、そう信じて、“ The  Church ” と言われる、時間と地理的な違いを超えて、形成されている「教会」に加えられているのです。お隣の国にいました時にも、たくさんの信仰者のみなさんにお会いし、いっしょに賛美をし、聖書を読み、説教を聞き、聖餐に預かりました。このみなさんも、その構成者なのです。

 この救い主でいらっしゃるイエスさまを、もっと知りたくて、みなさんは礼拝に集います。讃美し、礼拝し、人々に宣べ伝えるために生きるのです。すでに召されたみなさんと、あい見(まみ)える日がくると信じている今です。そして、「復活のキリスト」であるイエスさまにお会いできるのです。

 遠い「西方の人」は、私の内にいますお方でいらっしゃいます。「矛盾」ではなくて、「事実」として信じることができているのです。「迷妄」ではなく、「確信」して生きることでしょうか。このイエスさまは、私たちを迎えに来ようとされておいでなのです。「マラナタ」、主よ来てください。

(Christian clip artsによるイラストです)

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線路の向こうに春を見たい

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 子どもの頃に住んでいた父の家から、旧国鉄の線路を走る電車を見ることができました。その線路と道路の交差地点には、遮断機を上げ下げする踏切があり、上り下りの電車の行き来は、今の様に激しくない時代だったのです。この踏切の脇には、踏切番小屋があって、おじさんが常駐していました。

 また、その奥の方には、鉄道線路の保線区があったのです。電車や汽車に乗る人に切符を売り、駅の業務に携わる駅員がいて、それを動かす運転手と車掌がいて、その電車や汽車の安全走行を確保するための保守点検、修理ををする人もいたわけです。

 信号器は、手旗からカーバイドのガスを燃やす炎での手信号の「カンテラ」に代わっていました。その燃えかすが、保線区の脇に捨てられていたのです。それを拾っては、小川に投げ込むと、そのガスで、鮒やハヤの小魚が浮いてきて、それを手で掴んで家に、持ち帰ったのです。それを母が醤油と砂糖で煮て、佃煮のおかずにしてくれたことがありました。

 保線区の中には、線路の整備の道具類がきちんと整理されて置かれていました。スコップやツルハシ、背丈もある様なバールや、金属の切断機などがあって、珍しく眺めていました。あの整頓された作業場に入らせてもらうことができたのです。『邪魔まだ、あっちに行ってろ!』なんて言われなかったのです。友人のお父さんが、国鉄職員で、その職場だったからでもあったからでした。

 決まった鉄路区間を、そう言った整備で管理されていたのです。どんなに昔の日本の現場の仕事が、十二分に注意深くなされていたかが、今になると分かり、感心させられます。汽車が走っていた頃、事故を起こさないための「愚直な努力」が積み重ねて行われていた時代だったのです。不注意の許されない専門集団でした。

 父は、旧国鉄に納品する部品を作る会社で仕事をしていました。電車や汽車の車輪を制御ブレーキのパーツでした。そんなこともあって、動く電車や汽車には、関心が自分にはあったのです。よく、国鉄職員になろうと思わなかったなと、今になると不思議なのです。

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 今住んでいる家からも、駅に出入りする、始発と電車の姿を見ることができます。今は、駅の近くは、高架になっていますので、この四階から、眺められるのです。朝一番の電車が暗闇の中を抜けてくるのが眺められます。もう少し暖かくなったら、この電車で、会津若松に行ってみようと思っているのです。

 JR両毛線で小山に出て、東北本線で郡山に行き、そこから磐越西線で会津若松に行けます。帰りは、会津若松から会津電鉄、野岩鉄道会津鬼怒川線(東武鬼怒川線)、東武日光線で戻ることができるのです。もう少ししましたら、爛漫の春を感じに、電車に乗り継いで行くことにしましょう。

(ウイキペディアの線路、会津五桜〈石部桜(いしべざくら)、薄墨桜(うすずみざくら)、虎の尾桜(とらのおざくら)、杉の糸桜(すぎのいとざくら)、大鹿桜(おおしかざくら)〉です)

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単純に信仰を継承して

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 聖書、新約聖書の多くの部分を書き記したパウロは、ユダヤの律法を学んだ人でした。ナザレ人イエスと、キリストの教会を迫害する者から、イエスの十字架の死と復活とを、心から信じる者に変えられた人でした。

 そして、地中海世界からローマに至るまで、「良きおとづれ」である、「福音」を宣べ伝える「異邦人への使徒」と変えられるのです。自分の生涯を、福音宣教のために捧げ、神の教えやご計画を書き残す務めに任じられ、最後にはローマで殉教の死を遂げたと歴史は伝えています。

 「使徒の働き」の中に、そのパウロを殺そうとした40人が、イスラエルにいたと記してます。律法に背いて、パウロを打つ様に命じた、その当時の大祭司アナニヤを、「白く塗った壁」と、パウロが言いました。

 その殺害計画を、不思議な方法で、パウロは免れます。そして、福音宣教の働きを継続するのです。教会の歴史の中には、パウロの語る福音への反発があって、「パウロの教え」への攻撃が繰り返されてきています。まさにそれは、「パウロの教えの抹殺」と言えるのかも知れません。

 イエスさまを十字架の上で殺害したのは、当時のユダヤ宗教の指導者たちで、彼らのイエスさまへの憎悪によるものでした。イエスさまは、訴える者に対して何一つ申し開きをすることはしませんでした。彼らにご自身をまかせたのです。そして十字架の上で死なれたのです。

 その十字架によって、信じる者たちを救われる父なる神さまは、罪を犯した人を赦すために、イエスの十字架を彷彿とさせようとしてでしょうか、預言するかの様に、奴隷の家にあったイスラエルの民を、その立場から解放し、荒野に連れ出される前の晩に、驚くことをなさったと、「出エジプト記」は記しています。

 屠られた小羊の血を、家の門口の鴨居と二本の門柱に塗るように言われたのです。滅びの使いが遣わされ、エジプト中の初子を打った時、その血の印のある家を、滅びの使いが通り過ぎて行ったのです。それを「過越と言います。

 その民族の歴史的な事実を記念して、イスラエルの民は、「過越の祭り」を、今に至るまで、守り行ってきているのです。イエスさまは、まさに「過越の小羊」 でいらっしゃると言うのが、聖書の使信のことばです。漢字の中に、「義」があります。漢民族は、その奴隷の家を脱出する前の晩の出来事を知っていたのでしょうか。神の前で正しいとされる者の「義」が、奴隷の家を脱出した晩の出来事を伝えるかの様に、「羊」と「我」に解字することができるのではないでしょうか。古代中国人は、そのことを知っていて、漢字で、それを認めたのです。

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 聖書の記す真理を攻撃することは、たびたび起こったことでした。救いとか、贖いとか、義認などと共に、神の救済上のご計画が曖昧にされています。救い主を、十字架で殺した様に、教会が守り続けてきた教え、真理を否定する者が、たびたび起こっては消え、起こっては消えてきて、「真理」を曖昧にし、否定してきています。

 万人救済論、新神学、セカンドチャンスの教えなどは、その最たるものです。神中心から、人間中心のヒューマニズムは、聖書の記述を、ある部分を信じられないままでいます。万物を創造する部分を神話だとしたりしています。神の偉大さを信じられずに、人間の思考の水準に引き落としてしまいます。もちろん十字架の贖罪の死も、死からの復活も、最後の審判も信じないのです。

『しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神のが示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神のであって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしにと認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身のを現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 それは、今の時にご自身のを現すためであり、こうして神ご自身がであり、また、イエスを信じる者をとお認めになるためなのです。(新改訳聖書 ローマ3章21〜26節)』

 難しい「義認」とか「贖罪」などを、パウロは、そのいくつもの書簡によって教えているのです。そう言ったものの意味をぼかしたり、曖昧にしたり、転向させたりしてしまって、「聖書の真理」を曲げたり、消したり、抹殺してしまう時代が、再びきている様に思えてしまいます。

 2000年も前のパウロの殺害計画は、今も、「パウロの教え」を葬り去ろうとする傾向と重ねられている様に、私にも思われれなりません。歴史は繰り返されるのでしょう。罪を曖昧にして、重大視しない傾向に、そう言ったものが窺えてなりません。聖書の記述を信じられず、真理を曖昧にする傾向は、止まない様です。

 母の信仰する、その信仰を生きている姿を見続けたり、育ててくださった宣教師さんたちの教え、読んだ書籍で学んだ正統の教えを、ただ単純に信じてこられて、この上もなく感謝な思いにされる、今の私なのです。

 末の子が3歳くらいだったでしょうか、『イエスさまは痛かったんだね!』と、長岡照子さんの朗読する、カセットテープの聖書のお話を聞いて、涙を流して、そう言っていた日がありました。自分のために、イエスさまが十字架にかかって死んでくださったと聞いて信じたのです。今や、もう40になっている彼が、まだ、そう思い続けているかなと、思ったりしているのです。そんな単純に、祖父母、両親の聖書信仰を継承をしているのかも知れません。実事嬉しいことです。

(Christian clip artsのイラストです)

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一件が落着して

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 鳥を捕獲するための仕掛けに、「かすみ網」がありました。今でも使われているのでしょうか。ちょうど野球場のバックネットの様に、とても丈夫素材で作られて、かすみの様に細い糸で編まれた網なのです。鳥がかかりやすのでしょうか。いつ頃か、勝手にこの仕掛けは使用することが鳥獣保護法で禁止されているそうです。

『主よ。私を悪者の手から守り、暴虐の者から、私を守ってください。彼らは私の足を押し倒そうとたくらんでいます。 高ぶる者は、私にわなと綱を仕掛け、道ばたに網を広げ、私に落とし穴を設けました。セラ 私は主に申し上げます。「あなたは私の神。主よ。私の願いの声を聞いてください。(新改訳聖書 詩篇140篇4〜6節)』

 一昨日、一通のメールがありました。

『「電力サービス]先月分電気代未払いにより、数日中に停電いたしますのでご注意ください。』と言うものでした。これを読んで、最初に思いにやってきたのは、数年前に、自動振り込みのガス代が未払いで、「ガス供給停止」が突然起こったのです。「引き落としがない!」との連絡があって、支払っているのに、突然の出来事でした。

 最初は、故障だと思ったので、連絡しましたら、三ヶ月ほど、引き落としがなかったのだそうです。クレジット会社からも、銀行からも、その連絡がなかったのです。1週間近くガスなしの生活があって、炊事は、卓上コンロで間に合わせましたが、風呂とシャワーが使えなかったのです。コックをひねればガスが出て、スイッチを押せばお湯が出るのに、闘病中の家内に不便をかけました。

 瞬間、あのパニックが思い出され、『今度は電気の停止が!』と思ったのです。そのメールに記されていたサイトにアクセスすると、「TEPCO」と言う名で、振り込み情報を記入するように誘導されたのです。3400円ほどの金額の不足でした。

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 実は、2年ほど前に、ガスと電気代を抱き合わせで支払うと、電気代がセーブできると言うことで、新しい契約に代えたのです。それもあってクレジット会社からの支払いに変えていたのに、『あれ!』と思いながらも、フラッシュのように、ガスの一件が思い出されて、所定の項目に、個人情報を書き込んで、送信しでしまいました。

 やはりおかしいので、次男にメッセージを送ったのです。すると息子からは、『ダメ!絶対入力禁止。あと、返信したらダメだよ。フィッシング詐欺というやつです・・・・』と返事がありましたが、後の祭りで、まんまと騙されたわけです。

 『明日の朝9:30に、クレジット会社に電話して!』と言われて、何度やっても、自動音声の電話の言うように従ったのですが、こちらの状況を伝えられず、要領を得なかったのです。そうこうする内に、隣町の友人に聞いたり、息子の言うようにしたのですが、どうもラチがあきませんでした。けっきょく息子が代わって手続きをしてくれて、クレジットの一時停止にこぎつけたのです。

 『クレジットカードの悪用はされてないみたい!』と、息子から知らせがあって、やっとホッとすることができたのです。「縄文人」、あの時の自分は、まさにそう感じてしまいました。ネット社会の流れに乗り切れない古代人のような、狐につままれたような自分を、痛烈に感じたのです。世の中の動きに、ついていけない時代遅れの年寄りでした。

 ただ、『◯◯ガスの勧誘で、電気代の支払いを、ガス代と一緒にすることにしましたが、その後に連絡がないまま今日に至っています。未払いは、どれほどでしょうか?どう支払ができますか?一方的な、停電の言葉で驚いています。』と言う文言を、メール相手に添えて書き込んでおきました。それも、何か作用して、網を逃れられたのかも知れません。

 まさに、バッサリの罠にかけられたスズメや鰻獲りの仕掛けにかかった鰻、かすみ網にひっかかった野鳥、釣竿の先のフィッシングの針にかかった小魚でした。でも、次男の助け、友人の助言、そして電話していても、オロオロしている自分を励まして、祈っていてくれた家内の激励があって、罠と仕掛けと針から逃れられ、まさに、詩篇140篇5節のにある末尾にある「セラ」、一件落着の「小休止」をすることができたのです。

(ウイキペディアの休符、電球です)

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わが家で咲いている花々

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 春なのでしょうか、冬と春が行ったり来たりしているのでしょうか。先日、わが家を訪ねてくださった親しいご婦人が、ご自宅の庭に咲く、「クリスマスローズ」の花を届けてくれました。孫娘が昨年末に滞在した間に、家内に買い求めてくれた「バラ」です。そして、上の娘が誕生日に贈ってくれた「胡蝶蘭です。もう六期目の花で、とても元気に咲いています。花の季節がやってきた様です。

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赦し

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 先日、「罠師(わなし)」と言う資格があって、そのための試験を、都道府県が行っているのだそうで、初めてお聞きしました。この試験には、①知識試験、②適性試験、③技能試験の3種類があるそうです。合格すると、「狩猟免状」が、都道府県地知事によって発行されるのです。

 いわゆる「ハンター(Hunter)」になるためには、それが必要なのです。子どもの頃に、すぐ上の兄が、そういった罠を、熱心に作っていたのを覚えています。鰻を獲るための罠を、懸命に作っては、それを持って、朝早く川に仕掛けに出かけていました。またスズメなどを獲るためにも、「バッサリ」を作ったり、「かすみ網」を仕掛けていました。

 こちらに住み始めて、両毛線で桐生駅まで行って、「わたらせ渓谷鉄道」に乗ったことがありました。停車中の運転手さんと会話をした時に、『時々、走行中に鹿と衝突するのです!』と言っておられ、その事故処理のために、足元に、大きめなバッグがあって、その中に、そのための道具があるのを教えてくれたのです。

 熊とか猪は、そんなことがなく、いつも鹿が線路上にいて、逃げないので、衝突してしまうのだそうです。まだ若い運転手さんが、そう言っていました。単線走行の鉄道ですから、その場で自己処理をする必要があるわけで、確かに渡良瀬川の渓谷に沿って運行しているので、景観の美しさの反面、そんなこともある様です。この方に、『大変ご苦労をされるんですね!』とねぎらったのです。

 乗務員の方に、その免許が必要なのかどうかはお聞きしませんでしたが、講習会を受けることがあったのでしょうか。都会を走る電車にも、大変な危機が多くあるのですが、山間部に鉄道にも、けっこう危険なこともあるのですね。

 畑を荒らす猪を捕獲するための仕掛けを作るには、免許取得が義務付けられているのですね。その狩猟をする人が、「罠師」なのだそうです。若い頃に、鹿や猪や熊の肉を煮込んだ猪鍋、「シビエ料理」を食べたこともありました。けっこう美味しかったのです。

『悪者どもは私に対して罠を設けました。それでも私は あなたの戒めから迷い出ません。(新改訳聖書 詩篇119篇10節)』

 それで、『自分を罠にはめた人がいたかな?』と、思ってしまいました。世の中には、詐欺師は多くいる様で、華南の街の路上で、焼きとうもろこしを売っている商人(?)から、2本買った時に、釣り銭サギにあったことがありました。まんまと嵌められてしまったのです。

 どうも、「戒め(神さまが定められ、人が生きていくための教えや戒めのこと)」を破る様に、虎視眈々(こしたんたん)と、人を誘い出して、迷いでる様に罠を張る、実に巧みな魂を狙う敵がいるのです。

 あのダビデも誘い出されました。王宮の屋上から、湯浴(ゆあ)みする女を見たダビデが、夫のあるその女を欲するのです。何を見るか、見つめ続けるか、目に注意しなければなりません、人は、「見ること」によって誘い出されることが、往々にしてあるからです。誘い出されたダビデは罪を犯してしまいます。

 その女が、妊娠の事実をダビデに申し出ます。誰の妻であるかを調べさせると、その時、敵国との戦いの最中で、戦に駆り出されている兵士、ウリヤの妻だと分かるのです。

 その妊娠の事実を夫によるものだとするために、画策するのです。ウリヤを戦いの前線から取り戻して、一時休暇を与える様に、軍の隊長に命じます。ところが、ウリヤは戦友たちが戦っているのに、自分だけが妻の所に帰るのを拒んだのです。

 罪の隠蔽は、さらに続きます。今度は、ウリヤを戦いの最前線に出して、死なせる様に、上官に命じるのです。それで、ウリヤは戦死してしまうのです。安心したダビデは、ウリヤの妻を自分の妻として迎えるのです。そしてその女から生まれる子が、第三代のイスラエルの王に任じられるのです。
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そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」(マタイ21章9節)』

 イエスさまは、ご自分を「ダビデの子」と言われることを許容されました。そんな過去があるダビデの名で、ご自分が呼ばれるのを快(こころよ)しとされたのに、驚かされます。聖書は、そんな主を愛し、賛美し、仕えてきたダビデの真実を伝えるために、暴露記事を聖書に載せるのを許されているのです。

 罠は、どんな優れた信仰の勇者、強者にも張られます。私は、聖書が、登場人物を記すのに、実に正直であることに驚かされています。人の実態を、隠さない正直さに、だからこそ本物の、神の使信のことばだと信じるのです。

 金銭、異性、名誉、そう言ったものが、『ある時に、心の隙に、スルリと入り込んで、人を堕落させるから、その罠に陥らないで、十二分に注意して生きていきなさい!』と、何度も促された若い日がありました。

 ダビデは破廉恥な、悍(おぞ)ましい罪を犯しましたが、「赦しの神」は、赦されたのです。人は赦してくれませんが、父なる神は、イエスさまの十字架のゆえに、赦してくださるのです。赦されるとは、その汚点さえも、消し去ってくださるほどのことなのです。これこそ驚きの極みです。

(ウイキペディアのイラストです)

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春まだき流れの漣に思う

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※動画  IMG_3292(巴波川の瀬音です) 

 この写真は、まだ淡き春の巴波川の漣です。今朝方、氷点下の気温の中、冷たい雨が降り止んでいましたが、大平山が白くなっていましたから、夜間には雪だったのでしょうか。

 これは、昼近くなった我が家のベランダから撮った写真です。春の陽光を波が輝かしているのです。この街の北の湧き水を集めて、数えきれないほどの時を、恩恵に預かった人々と関わり合いながら、綺麗な川の流れがあって、その川のl水は、太平洋に届き続けてきました。

 この流れの上流、私の散歩する、巴波川の流れで、起こりかねない洪水を防ぐために、地下に、逃げ水を送る水路の工事を敷設する工事が始まっています。工事責任者が、私に行く道を横切っておいででしたので、こちらから話し掛けて、お聞きしたお話で知りました。

 想像を絶する量の防雨が降ることを予測しながら、市が企画して、工事が始められています。この栃木県は、海のない内陸の県ですので、海が見られない分、河川の利用が、かつて盛んだったのです。この巴波川が流れ込む渡瀬川、日光連山から流れ下る鬼怒川、那須岳を原流にする那珂川などでは、どこも「舟運(しゅううん)」が行われてきていました。

 鬼怒川や那珂川の上流の山林には、和紙の原料になる楮(こうぞ)が刈り出され、樹皮を加工して和紙作りが行われてきたのです。とくに「烏山和紙(程村紙)」を産する那須烏山は、常陸国と上野国境に位置していて、かつては常陸国で、江戸期には水戸藩の領地だった様です。その和紙は水戸藩の貴重な財源だったそうです。

 仏教が、中国を経由して日本に伝わる様になって、その仏典の写経(しゃきょう)が行われてきて、そのための用紙として、この烏山周辺で作られた和紙が珍重された様です。奈良時代の760年に発信された文書の中に、「写経料紙を産出」と書かれていて、厚紙の高級紙が、中央に送られていたようです。

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 山深い、下野国と常陸国の間の村では、和紙の原料の楮の需要が増すに従って、植林がなされていった様です。また烏山の東側に、現代の常陸大宮市ですが、高部(たかべ)という村があって、そこで産出するから「高部和紙」も、同様に盛んに作られていったそうです。

 その和紙は、山を越えて、那珂川や鬼怒川の舟運を利用して運搬されていて、帰り舟で、他に物資の運送も、運ばれて来て、驚くほどに舟運が盛んになっていったのだそうです。

 きっと川辺の河岸までは、馬や牛の背に乗せて運んで、集積されて運び出されたのでしょう。鬼怒川は、陸奥(東北)の諸藩の年貢米の輸送のためにも利用されたのだそうです。宇都宮の北に、氏家という、奥州街道に宿場町だった町がありますが、その流れにある阿久津河岸も、舟運の集積地として栄えた様です。

 車や鉄道が誕生する以前、交通革命が起こるまでの長い期間、全国で、河川は輸送路として、大いに活用されていたのです。時々氾濫しますが、川の恩恵は大きかったのでしょう。静かに流れ下る川の流れを、朝な夕な眺めて、そう思うこと仕切です。

 我が家の窓下の巴波川に落ちる一滴の雨水が、運ばれて江戸湾や銚子あたりに到達するには、どれほどの時間がかかるのでしょうか。そんな研究もなされているのでしょうか。ですから、発泡スチロールで舟か筏を作って、川下りしてみたい様な誘惑に、いまだに誘われている私です。

(ウイキペデイアの栃木県下の河川の様子です)

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