甲州街道は、日本橋から、四谷にあった大木戸を出て、内藤新宿から府中、多摩川を渡って日野宿、小仏峠にあった小仏関所を経て与瀬宿(相模湖)、大月宿、笹子峠を越えて甲府、諏訪宿に至り、中山道と合流して、京に至るのです。
木戸は、江戸時代には、江戸にも大阪に、どこの地方都市にも、町の保安のために、町境に設けられて、町中の安全を確保lしていたのです。その町木戸は「明け六つ」(午前 6 時頃)に開けられ、「夜四つ」(午後 10 時頃)に 閉まります。江戸の大木戸は、他に、東海道の中山道の高輪(たかなわ)、板橋があり、日光街道には大木戸はありませんでした。
甲州街道沿いの町に住んだからでしょうか、どうしても新宿を近くに感じてならないのです。ここ栃木のみなさんんは、千住とか、電車が繋いだ浅草なのでしょうか。この新宿は、江戸期にも、とても栄えた町だった様です。私の通った学校も最初の職場の本部も、都内にありましたので、ここが通過地点であり、下車地点だったのです。
新宿の伊勢丹の近くの路地に、寄席(よせ)がありました。いえ、今もあります。そこは「末廣亭」と言い、中学生だった上の兄が、新宿に住んでいた英語教師に誘われて、この寄席に連れて行かれていたのです。家に帰って来ますと、その寄席の様子を、面白おかしく話してくれたのです。
よく「猿真似」と言いますが、弟の私は、兄の真似をして、背伸びをしていたのです。それもあって、落語に、強い関心を持つ様になったのです。『神宮で、早稲田と慶応の試合があるってねえ!』、『そうけえ(早慶)!』とか、『隣に塀ができたってねえ!』、『へー!』と言った話をしていたのを聞いて、子ども心に面白いと思ったのです。学校に行くと、みんなの前でやったりしていました。
子どもの頃には、ラジオ全盛で、落語や漫才や浪曲、歌舞音曲を、よく放送していました。また歌謡曲の全盛時代だったでしょうか。テレビ放映が始まる前には、耳で聞いて、想像力を働かせて理解するのですから、聞き漏らさない努力が必要でした。
それだからでしょうか、言葉をラジオを聞いて覚え、意味が分からないと、父や兄たちに聞いたり、広辞苑を引いていたのです。そんなで、学校帰りに、新宿に下車して、この「末廣亭」に落語を聴きに行きました。同級生を誘っていったこともありました。やはり、日本の大衆文化は、洋物とは違って興味深かったのです。
『えーっ、一席バカバカしいお話を申し上げます!』と言った出だしで話し、口演者を、「噺家(はなしか)」と呼んでいました。座布団の上で話すのですが、そこを、「高座」と呼んでいました。もうお名前も題も忘れてしまいました。歯切れのよい「江戸ことば」を聞いて、一端の落語通になったように、笑いを誘われていたのです。
この末廣亭が、どんなところかの記憶はありましたが、今日、Youtubeで、「桂米丸追悼興行」を観たのです。お弟子のヨネスケ(桂米助)さん(落語界では師匠)が、その会を企画し、開催していて、寄席前の通りに出られて挨拶をしている、末廣亭の映像は、全く変わらないのです。高座も客席も、全くお同じ様子で、六十年前と変わっていなかったのです。改築なしで、椅子席のシートは張り替えられているでしょうけど、驚きました。
『わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ』と言った。(新改訳聖書 エゼキエル16章6節)』
『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(伝道者12章1節)』
あの級友は、北海道が故郷で、卒業式に、ご両親が見えらていたのです。『楽しい経験をさせていただきました!』と、お礼を言われてしまいました。札幌に仕事を見つけて、彼女は帰って行かれました。それっきりになってしまったのです。
まさに、「若い日」、「血に染まった」、「わざわいの日が来ないうち」の様な時を過ごした「場所」でした。私の「青春の譜」の一頁が、この新宿でもあったのです。あの伊勢丹の裏の通り道を、懐かしく思い出しています。
その興行に呼ばれた噺家さんたちは、当然、総入替されておいでで、若い頃に馴染んだ方々は、お亡くなりになり、名の知らない若手が多くなっておいででした。江戸期に始めれた寄席は、今や人気で、若い人たちの支持を得ている様です。
出し物も、「発泡スチロール芸」なんてものもあるのです。あの有名な「笑点」のメンバーも知らない方々に代わっていて、われわれ世代は、ほとんどおいでにならない様です。昭和は時と共に、過ぎて行ってしまい、この街を、新しい世代の人たちが漫(そぞ)ろ歩いていることでしょう。
(ウイキペディアの末廣亭、広重の内藤新宿図です)
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