心が弱まらないためにも

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 「誤解」、 日本国語大辞典」によると、「[名詞]相手が言ったことの意味をとりちがえること。また、ある事実について、誤って思いこむこと。思いちがい。[初出の実例]「子は希臘の語を知らざるによりて、経中の文句を誤解すといひしかば」(出典:西国立志編(1870‐71)〈中村正直訳〉八)」とあります。

 今日のお昼にNHKラジオニュースに、大きな被害をもたらせた、阪神淡路大震災が起こってから、三十周年にあたり、兵庫県の斉藤元彦知事が、記念式典で次の様に述べました。

『災害はいつどこで起こるか分かりません。このことを今、改めて胸に刻みつけなければならず、必要なことは、災害の記憶やこの30年間の歩みを決して風化させないことです。』

 そう語っておいででした。そのおはなあいをきいて、この斉藤知事の不信任決議が、昨年の9月に、県議会で全会一致で可決されたのを思い出したのです。それに至るまでマスコミ各社の論調は、知事のパワハラや不正を取り上げ、糾弾していました。私は、その報道を聞いて、『ずいぶんひどい知事だ!』と憤慨したのです。

 県議会がこぞって、反知事の主張を唱えたのです。ところが真相が明らかにされていくにつれて、陥れられたのは斉藤知事で、有る事無い事が暴力的に語られていたのです。中央官庁から、出世前の業績づくりのために、地方で知事を経験している、根っからの悪徳官吏だと、私は思い込んでいたのです。

 まさに、マスコミの言うことを、そのまま信じてしまいました。それが「誤解」だと、やっと分かったのが、出直し知事選で、斉藤知事が、111万3911票を支持を得て、再選したことでした。この段階で、斉藤元彦氏を支援した、斉藤知事を信じ支援した兵庫県民が、多かったことで、私は、「誤解」していたことを恥じたのです。真相ではなく、県幹部がこぞって反斉藤をかかげた、作り上げられた悪意の世論に、そう決め込んで誤解していたからです。

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Himeji Castle in may 2015 after the five year renovation

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 自分の心の中で、『めんなさい!」と繰り返したのです。真剣に調べた上で判断したのではなく、間違った世論に、全く耳を傾けてしまい、同調してしまったのです。かつてナチス政権を担ぎ上げ、支持したドイツ国民を糾弾していた私でしたが、本来裁かれるべきは自分だと言うことが分かったのです。

『そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この国に聞こえるうわさを恐れよう。うわさは今年も来、その後の年にも、うわさは来る。この国には暴虐があり、支配者はほかの支配者を攻める。(新改訳聖書エレミヤ51章46節)』

 怒涛の様に、「うわさ」が、イスラエルの国に押し寄せてきたのです。今もまた、「うわさ」話が闊歩して、巷を行き来しています。まさに、「うわさ戦争」の渦中にあります。聞き分けずに、信じてしまわない様に、殊の外注意深くなくてはと、p思わされた、今日のお昼でした。「心の弱まり」を避けなくては!

(ウイキペディアの「姫路城」、「県花のノジギク」です)
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三島通庸の功罪について

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♬ 花は霧島 煙草は国分
燃えて上がるは オハラハー 桜島
(ハ ヨイヨイヨイヤサット)

🎶 雨の降らんのに 草牟田川濁る
伊敷原良の オハラハー 化粧の水
(ハ ヨイヨイヨーイヤサット)

見えた見えたよ 松原越しに
丸に十の字 オハラハー 帆が見えた
(ハ ヨイヨイヨイヤサット)

さつま西郷どんは 世界の偉人
国のためなら オハラハー死ねと言うた
(ハ ヨイヨイヨイヤサット)

桜島には霞がかかる
私しゃおはんに オハラハー 気にかかる
(ハ ヨイヨイヨイヤサット) ♬

 これは有名な鹿児島小原節です。この鹿児島は、一度訪ねたことがありました。桜島とおはら節と西郷どんは三大名物でしょうか。島津藩の街で、長州と共に、幕末から明治にかけた日本の大きなうねりの中で、中心的な役割を演じています。多くの人材を生み出していますが、その中に三島通庸(みちつね)がいて、少なからず栃木と関わりがありました。

 この三島は、1835年(天保6年)、薩摩藩の下級武士の子として生まれています。やはり賢かったのでしょう、大久保利通の高い評価を得て、中央政府に呼ばれました。最後は警視庁の警視総監を務めています。

 薩摩藩は、長州藩と双璧で、明治維新を推し進めた人材を多く出しています。その薩摩藩の西郷隆盛と会談をした勝海舟が、江戸を戦乱から守る立役者でもありました。明治新政府が誕生した時、無傷の江戸に、天皇を迎えて、大東京が誕生していきます。

 三島は、県令(知事です)として、山形、福島、そして栃木で、おもに土木事業を推し進めて貢献しました。栃木では、未開拓の荒地に、那須疏水、水路を引いて、農地を開拓し、主に牧畜業に貢献しています。自らも、那須の地に農場を経営しています。維新政府の重鎮は、栃木県下に、農場や別荘を持ったのです。

 昨年、長女が訪ねてくれた時に、那須に参りました。初めて那須の地に立って、明治の新日本建設のお膳立てをした長州人材が、那須に別荘を設け、農場を持ち、開拓を主導したのは、大きな貢献だと思ったのです。戦後、多くの農業青年を集めた山梨県の清里と同じ様なImpactを与えられたのです。その時は、ポール・ラッシュの果たした貢献は大きかったのです。そこにあった清泉寮のsoft creamを口にした時と似た、感慨が那須の地にあったのです。

 さて、栃木県が、宇都宮県ではなく栃木県とされたことに、いくつかの背景がありました。通常、県都にある町の名が、県名になることがほとんどの中、やはり栃木は異例だったことになります。同時期に、板垣退助が掲げた自由民権運動が全国的な広がりを見せる中、その運動が盛んだったのが、栃木市でした。

 明治維新が発生させた一つのことは、士族の維新政府への不平不満でした。その反乱士族を抑え込んだのが、この三島でした。栃木市は、その運動が盛んであって、三島は、そういった強い思いがあって、県都を移動させた様です。
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 明治維新政府が、「廃藩置県」を掲げ、藩が県になっていきます。当初、栃木県の県都、県庁所在地は栃木市とされました。ところが、1884(明治17)年1月21日、政府官報により、栃木町から宇都宮町への栃木県庁移転が布告されてしまうのです。その立役者となったのが、3代県令の三島通庸でした。

 政治的剛腕で知られた三島通庸は、県令になって3ヶ月で、栃木県庁を、栃木から宇都宮を移転させてしまいます。その後押しをしたのが、宇都宮の豪商たちの拠出金があったからだと言われています。

 力関係、経済的な理由、人的な問題が、やはり複雑にあった時代、少々強引な行政が行われたのは、ここ栃木県だけではなく、全国的にそうだったのでしょう。職安などなかった明治の御代、武士は失職して、大変な時を迎えていたのです。商人、教師、警官、兵士などになっていった様です。

 大きな政治的な変化のあった時代、この日本の土台が据えられていきます。様々な動機があって、それが日本を動かしました。その一人が、三島通庸だったのです。那須野が原開拓は、特記すべき業績でしょうか。人を、よくもてなした人で、家族や使用人以外にも食客を多く抱え、食堂には長机を並べて家族や親戚、知人が集めて食事を一緒にしていた、苦労人だったのです。

(ウイキペディアの広重の桜島、那須疏水です)

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峠を越えると、そこは

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 三国峠は、新潟県魚沼郡湯沢町と群馬県利根郡みなかみ町を境にして、位置する交通の難所です。江戸と越後を結んでいて、冬季の峠越えは大変に難儀したと言われ、数年前に、峠に差し掛かる手前に、かつての「須川宿(みなかみ町)」があって、そこに、家内の退院後初めての遠出をして、2泊したことがありました。

 越後の長岡藩をはじめ、越後国の諸藩の「参勤交代」の大名行列があり、佐渡・新潟奉行の行列や、罪人の佐渡送り、江戸への出稼ぎ人、江戸の商人、旅芸人にいたるまで、数知れぬ人が行き来しています。ある冬に、江戸から佐渡へ罪人を護送中に、遭難事故などもあって、越後の天下の険だったのでしょう。その須川宿に、資料館があって、多くの歴史的な民俗的な物品が展示されてありました。

 かつては交通の要衝であって、さまざまな思惑を抱きながら、登り下りで、峠道はにぎわったのですが、信越線の開通で寂(さび)れてしまいました。信越線の高崎・横川間が開通し、上越線が開通すると、三国峠は、役割を終えた様に寂れてしまいます。それから30年経ち、昭和34年、国道17号の三国トンネルが、峠の直下を貫通してからは、この界隈は、昔のにぎわいを取り戻してきた様です。さらに高速道路、新幹線の開業で、新潟と東京は往来が激しくなっていくのです。

 あの越後人の政治家で、総理大臣も歴任した田中角栄は、『ダイナマイトで、三国峠を吹き飛ばしたい!』と語ったのだそうです(「三国峠演説」でそう語ったようです)。そうすれば、大陸からの雪を運ぶ季節風は、太平洋側に抜けて、越後に雪が降らなくなるからなのです。

 そんな風に、越後人の本音を語ったようです。忍耐強い頑張り屋の県民資質は、そういった厳しい自然環境の中で培われたのでしょう。最初の私の職場に、新潟県の出身の方がおいででした。県立高等学校の校長をなさった方で、退職後、息子さんのおいでの東京に住まわれ、嘱託で働かれていて、実に穏健な方でした。昼休みになると、バトミントンを一緒に楽しんだのです。

 あの人心掌握に長けた田中角栄とは、違った雰囲気を持たれた方でした。また厚生省で、初めての女性課長を務めた才媛もいらっしゃって、賑やかな職場で、この方々がいることで、職場が落ち着いていたのです。学校を出たての私は、そこで多くを学ばせてもらいました。

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 面白かったのが、越後弁でした。主に北越地方だそうですが、「え」と「い」が、標準語と違って、発音されづらくて、「苺」と「越後」、「灰」と「蝿」、「米原」と「前原」とが逆になってしまって、話の前後で、聞き分けなければならないのです。そういえば、次男は、新潟県下の高校に学んだのです。

 そこは、地方出身の方が多くて、長野県伊那人、長崎県壱岐人、熊本肥後人なども、最初の職場にいて、みなさん、標準語しか喋らなかったのでです。

 「お国言葉」と言われる「方言」は、東京弁の自分には、聞くのが面白いのです。母は、出雲出身で、やはり「出雲弁」がありましたから、父が口真似をして揶揄(からか)っていたことがありました。父は、横須賀出身で、きっと相模弁の中で育ったのでしょうけど、それを聞いたことがありません。

 今住む栃木県ですが、群馬県、埼玉、神奈川の東京都を囲む県に共通する、『そうだんべ!(そうだろう)』の「べえべえ言葉」が、年配者の間で聞こえます。

 もっと興味深かったのは、華南の街にいた時でした。山でしょうか、峠でしょうか、そこを越えると、別の方言があって、『聞き取れますが、喋れません!』と言っていました。それで、北京語が標準語になっていたのです。教会では、北京語で説教がありますと、方言の通訳が立つほどで、驚かされた一つのことでした。

 三国峠を越えると、やはり別のことばが聞こえたのでしょうか。こんな狭い日本でも、溢れるほどの方言がありますが、徐々に消えつつある様です。でも、残しておきたいと思うのですが、これから育つ子どもたちの、郷土愛を増すために、そうして欲しいものです。

(三国街道と永井宿の標柱です)

 

喜び走ろうとする太陽が

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『太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。(新改訳聖書 詩篇19篇5節)』

 今朝、東に見える筑波山、その南側から昇る太陽が見えました。その光を反射しているビルのガラスが、負けずに太陽の光を反射しています。

 「勇士の様に喜び走る」と言われる太陽ですが、自然界は、喜んで存在しています。その創造の中で、最高傑作の私たち人は、自分に定められた生涯を、さらに喜んで生き抜きたいなと、今朝も思わされました。

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 高校3年の頃だったでしょうか、母が、一年近く入院し、やっと退院して、家に戻ってきた頃だったと思います。『お母さんの青春の頃の歌って、どんな歌があるの?』と、私が聞きましたら、この歌だと答えてくれ、『♫ 諦めましょうと、別れて・・・🎶』と歌い始めてくれ、歌詞を書いて、教えてくれました。まだフォークソングとか、歌声喫茶などなかった時代です。

 後にも先にも、少女期に出会って、信じた「イエスさま」一辺倒で、歌謡曲とか演歌といった歌など、歌うのを聞いたことがなかった母でした。初恋の頃を思い出し、憧れた人とは一緒になれなかった母が、流行歌に耳を傾け、自分の想いを代弁してくれる様に感じたので、思い入れの強い歌だったのでしょう。

 大正6年(1917年)生まれの母でしたから、この歌が流れ始めたときは、「華の十八」だったことになります。瀬戸内海の江田島にあった海軍兵学校に行っていた人が好きだったのだそうです。母のアルバムの中に、その人の写真を納められていた、その人の凛々しい軍服姿の古写真を見せてくれました。

 1935年(昭和10年)に、作詞が佐伯孝夫、作曲が佐々木俊一、唄が児玉好雄で、「無常の夢」は、次の様な歌詞です。

1 あきらめましょうと 別れてみたが
何で忘りょう 忘らりょうか
命をかけた 恋じゃもの
燃えて身を灼く 恋ごころ

2 喜び去りて 残るは涙
何で生きよう 生きらりょうか
身も世も捨てた 恋じゃもの
花にそむいて 男泣き

 その人とは一緒になれなかったのですが、東京弁で話す、キリリとした父と、出雲だか松江だかで出会って、結婚をしたのです。父の子を四人産んで育て上げてくれました。たまの一日、父や子どもたちを送り出すと、電車に乗って、その母が、息抜きでしょうか、新宿までブラリと出かけ、デパート巡りをして、どこかで昼食を摂って、夕食のための買い物をしては、帰宅していたようです。

 十四でクリスチャンになり、その信仰を守り通しました。兄たちや弟にケーキにローソクを灯して、2012年3月31日、95回目の誕生日をお祝いしたのです。その日の晩、母は天に帰って行きました。私は、中国の地におりましたので、同席できず、4月5日に行われた「告別式」に、家内と帰国して、出席しました。

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 出雲、松江、京都、京城、やまがた、山梨、東京と父にしたがって、共に生活し、早世した父と別れて、四十二年間、次兄の家族とともに過ごした母でした。義姉がよく母の面倒をみてくれたのです。

 明治の終わりに生まれた父との別れは、涙を流したので、母の死の報を耳にした時にも、「告別式」にも、こちらに戻ってきても、泣くと、自分は思ったのですが、なぜか泣きませんでした。海外にいた二人の娘は、おばあちゃんの死で、彼女たちの父親が、きっと大変に違いないと、告別式に参列するためと、私を心配して帰国していたのです。

 ところが、悲しんだり、動揺していない父親の私を見て、意外な顔をし続けていました。母の死は、予測できたこともあり、行き先が分かっていたので、泣きませんでした。母の「無情の夢」も意外でしたが、母も恋する乙女であったことを知らされて、なんとなく安心したのを思い出すのです。『さようなら』ではなく、母への想いは、” See you agein “でした。

 母がいなかったら、育たなかったのでしょうけど、この年まだ、自分が生きながらえていて、母を思い出しますと、感謝の想いばかりです。ただ一度だけ、通院中の小さな母を背負ったことがありました。病む母のその小ささは、とても悲しかったのですが、母をおんぶできたのは、今になりますと、懐かしい思い出ばかりであります。

(ウイキペディアの「母親」、「京の鴨川」です)

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夕があり、朝があった

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『神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、があった。第六日。(新改訳聖書  創世記1章31節)』

 だれが地球を、宇宙を、人を作ったのでしょうか。この神秘の創造者は、神さまです。『神話だ!』と、また言い始めている人たちの主張が強くなり始めてきています。しかも、神を知って、聖書を読んで、信じた人たちが言っています。イエスさまは、

『それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20章27節)』

と、疑い深いトマスに言われました。21世紀の神不信の動きの中で、幼児の如くに信じる者になりたいものです。今朝の北関東は、曇り空ですが、朝な夕な、天空は、神秘的な色を染めています。木々には、春の芽吹きに備えをした、木々には、葉や花の芽が、寒さに耐えている様子が見られます。神さまをほlめ称えるためにです。

(夕空に宵の明星、富士山も見え、朝は筑波の峰を朝焼けが染めています)

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戦後、この様な人がいた

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 戦後間も無く文部大臣をされた方に、森戸辰男がいました。衆議院議員であった森戸を、1948年に総理大臣に就任した片山哲、次いで総理大臣となった芦田均も、文部大臣に任命しています。戦後の教育の舵取りをした方で、教育基本法を制定する、重要な働きをされたのです。

 これ以前、1947年5月3日に、日本国憲法が施行されていますが、その憲法の草案を起草した委員の一人でもあったのです。新憲法に、「基本的人権」、「健康で文化的な最低限度の生活(生存権)」などが盛り込まれたことで、戦後日本の歩みに大きく貢献した人物であったと言えます。

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 その後、新制大学が誕生するのですが、1950年から1963年までの長い期間、広島大学の学長になっています。国会議員、文部大臣、広島大学の初代学長といった役職に就かれた、この森戸辰男は、広島県人で、一高、東大に学んでいます。第一高等学校時代には、新渡戸稲造に学んでいて、同級に、一高の教授をする三谷隆正がいました。この三谷は、内村鑑三の弟子でした。

 『理想を行動に移すことが人生である。理想なしにぶらぶら流れるままに生きているのでは、存在するというだけで、人間の生活をしているとは言いがたい。(「自警録」より)』を、新渡戸稲造から学んだ人でした。

 戦後の教育や政治の世界で活躍した人物の中に、クリスチャンが多くいたのも大きな特徴だったといえます。森戸辰男は、新渡戸の倫理学講座で、人格教育を受けており、『職業的能率ではなく、専門的知識でもなく、人格の涵養にある。』という学んだ理念を、広島大学で実践したのです。

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 青年期に受ける影響というのは実に大きく、その人の一生にわたって感化され続け続けるのです。森戸は、『(新渡戸の教育は)吾々の精神の一般教育(ゼネラル・カルチュア)であった。』としていたと言われています。国立大学でなされた教育に、キリスト信仰の感化が、多くあったというのも、素晴らしいことではないでしょうか。

 それほどの感化を、森戸に与えた新渡戸稲造ですが、一高校長を辞任する時に、dramaticな出来事があったそうです。当時、学生だった矢内原忠雄(森戸より5学年後に入学しています)は、『新渡戸校長と別れがたく、五百人ほどの生徒が「新渡戸校長惜別歌」を歌いながら、ぞろぞろと新渡戸のあとをついて新渡戸邸にまで行ったことは有名なシーンです。(大正2年5月1日)』と言い残しています。

(ウイキペディアの戦前の第一高等学校のキャンパス、森戸辰男、新渡戸稲造です)

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華々しくなくも素敵な野球人がいた

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 大リーガーだった、イチローや松井の名前を知らない人はいないのですが、大家友和(おおかともかず)という選手がいたことをご存知でしょうか。横浜ベイスターズ球団のピッチャーとして活躍した選手でした。日本の球界では名が知られていませんでしたが、勇躍アメリカにわたって、ボストン・レッドソックスに入団し、それ以降、多くの大リーグのチームで、現役大リーガとして投げ続けておられた好選手でした。

 彼は母子家庭に育ったのだそうです。学生時代には、国から援助を受けながら育った経験から、『日本の若者たちに夢を持って生きて欲しい。夢を持って頑張る若者たちを応援したい!』との願いから、《Tomo Ohyaチャリティーツアー》を始められたのです。彼へのインタビューを聞いていて、実に好感の持てる野球人だと感じ入ったのです。

 実に訥々(とつとつ)として、野球少年然として話されるのでしたが、話の内容がしっかりとしているのに驚かされました。こういった青年がいることで、安心するのは私だけではなかったと、思い返すのです。

 2006年の新聞のトップに、「海外で蓄財数十億円」と報じられていました。この三十代前半の青年が、隠し資産をスイスの銀行の口座などで、“ 〇〇マネー “ などと言って蓄財しているのとは違って、私財や時間や夢をささげて、恵まれないこの時代の子どもたちに、『夢をつないで生きていって欲しい!』と願ってでした。そんな風に生きている大家選手に、『今年もがんばって!』と拍手をしたのを思い出すのです。

 実は、同世代の松井選手たちに比べたら、大リーグ通算51勝を挙げていますが、それほど多くない収入でした。今年も、指名打者として大リーグのMVPを獲得した、大谷翔平選手の莫大な収入には、はるかに及びませんが、その収入の多くを投じ、スポンサーの協力を得て、このような働きをし続けているのには、胸が晴れるような思いがした覚えがあります。

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 かつて、アイルトン・セナと言うレーサーがいました。ブラジルの青少年の憧れは、彼がカー・レーサーとして活躍するからだけではなく、ブラジルの社会の底辺で、あえいで生きている家庭の青少年の育成のために、莫大な私材を投じていたからだと聞いています。

 レース事故で亡くなった彼の死を惜しむ声も、哀悼も信じられないほど大きかったのだそうです。多分、ブラジルの元大統領が亡くなっても、あのセナに対しての全国民的な思いほどには大きくはなかっただろうと言われています。
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 [Tomoのオフィシャル・ホームページ]に、『大家友和って誰?』とあって、『誰とも変わらない27才の普通の日本人男性、元病弱な少年・・・夢を追い求める男!』とありました。自分の夢の追求のためだけにではなく、日本中の青少年少女の夢の実現ために活躍している彼の真摯な姿に、彼の ”追っかけ”をしてみたい気持ちでいっぱいになったのを思い出します。

 聖書に、『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見・・(新改訳聖書 使徒行伝2・17)」』とあります。青年が青年であるのは、夢や幻や理想を追い求めて生きることにあると言うのです。

 聖霊なる神さまは、青年に、実現可能の「幻」を見せてくださるのです。イエスさまも、『青年よ。あなたに言う、起きなさい(ルカ7・14)』と言われました。蓄財のためには手段を選ばない、死んでいるかに見える様な生き方ではなく、『青年らしく生きるために、安全地帯から出て、冒険の世界に雄飛しなさい!』と言っているに違いありません。

 18年も前の2006年の大リーグの試合に、Tomoの活躍を期待したのです。彼から夢を託される青少年たちが、健全に成長することを願って、祝福を祈ったのです。今は、プロ野球のチームのコーチに就任されておいでです。

 この暮れに、4人の孫たちが、ジジババを訪ねてくれました。十代の彼らには、それぞれに夢があり、その実現をきして、ハツラツと生きています。世界に起こっている、悲惨な出来事に心を痛めたり、自ら悩んだり、もがきながらある青年期の真っ只中にあります。私の安心は、彼らが神を恐れて、人を愛し、感謝して生きていることです。夢の実現に、エールを送る今です。

(“freepik”の野球イラスト、ウイキペディアの機上のセナ、横浜時代の大家投手です)

 

様々な衝突を超えての今が

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 「衝突」、アメリカ空軍の基地が、隣街にあって、その最寄りの駅の近くのお菓子屋さんには、アメリカ製の菓子を売っていたのです。チョコレート、干し葡萄、ガムなどです。餡パンや煎餅や饅頭や団子といった、純日本風のお菓子と、アメリカ製のクッキーは、この街で衝突していました。

 アメリカ兵の移動のために、汽車が走っていた時代、日本の電車運行の間を、その列車が走っていましたので、家の近くの電車の引き込み線では、その列車が待機していたことがありました。アメリカ兵は、物珍しくその電車に近づいて来た子どもたちに、電車の窓やデッキから、菓子を投げていました。それを拾おうと競争する日本の子どもたちを眺めで、大喜びして、笑いながらそれを投げていたのです。戦勝国と敗戦国との衝突の光景でした。

 占領軍の優位性の中で、非占領国の子どもたちは、菓子拾いに狂奔していました。大人も混じっていたのです。そんな子どもの頃の恥ずかしい経験が、自我が芽生えると、思い出されて、自分の心の中に、反米的な日本主義が、まるでブクブクと音がする様に芽生えて来て、過去と今が、自分の内で衝突していたのです。そんな時代を、私も通過しました。

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 一方では、母の少女期には、仲良しの級友に誘われて、カナダ人宣教師が始めた、教会学校に行く様になったそうです。そんな中で、母の心の内で、人生の中で信仰が芽生えたのです。兄弟姉妹のいない一人っ子の母は、教会の中に見られた、その家族の温かさの中で、父なし子の自分とカナダ人の父母に愛されている子の関わりの中で、母の心の中で衝突があったのでしょう。彼らが語り見せた聖書の神が、「父なる神」、お父さんだと言うことを知ったのが、母の心に宿った信仰の切っ掛けだったのです。

 日本の暦では、「神無月」と言われる十月には、母の生まれ育った山陰の出雲には、神々が、全国から集まると言われるほど、宗教的な街で、文化も宗教も衝突していたのでしょう。日本の神々ではない、カナダ人の宣教師さんが伝えた、天地の創造主、その父の御子のイエスさまの十字架を、母は信じたのです。

 山陰は、神々が参集するだけではなく、浄土真宗の盛んな地でもあったのですが、大陸伝来、祖先伝来の宗教ではなく、聖書の語る父なる神を、14歳で信じたのです。そういった意味では、母の内では、神道や仏教とキリストの教えとの衝突を超えて、世界と自分の造り主を、素直に信じ得たのでしょう。

 母の内に宿った信仰と、日本の文化の衝突があったのですが、そんな母の手に引かれて、教会に通った私の子ども時代、大人になる途上で、母を捉えた十字架のメッセージに、素直に耳を傾ける様になり、やがて、この心で信じ、口で告白して、イエスが救い主であることを信じられたのです。母は、子どもたちを祈りにあって育ててくれました。拳骨親父と優しくかばってくれた母の思いとが我が家で衝突し、また一対となって、4人を育ててくれたのです。

 自分の信仰を、4人の子どもたちに、母は強要することはありませんでした。神に向かって祈り、聖書を開いて読み、礼拝や集会や祈り会を守り、キリストがイエスさまであることを、近所のみなさんに証しし、信ずる者の姿を見せていたのです。

 真性の日本男児になろうと、私は思っていましたが、文化や宗教的な衝突は、わが家にはありませんでした。父は、母の信仰を認め、家で、宣教師さんを迎えて、家庭集会を開くことを許したのです。その父も、子どもの頃、父親に連れられて、横須賀の街のキリスト教会に連れて行かれていたり、満州時代の知人の始めた教会にも、戦後、出入りしていた様です。亡くなる少し前に、上の兄の勧めで、イエスをキリストと心の中で信じ、口で告白して信じたのです。

 様々な衝突を超えて、今の自分があります。主がおいでになる日が近い様に感じられます。この時代と神の時、この世と神の国との衝突の声や音や光が、世界のあちらこちらから聞こえたり、見えたりしてきています。更なる衝突が起こる時代になっているのでしょうか。「福音」、神のよき訪れの使信のことばは、その衝突を超え、納めて、人を、民族を、国を変える力を、今も持っているのです。

(ウイキペディアの車時の衝突、太平洋戦争時の日米の衝突の様子です)

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人の帰りを待たれる神がいて

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 「十年待ち続ける」、何を待ったのでしょうか。一昔と言う時を費やして待つと言うのは、忍耐だけではなく、愛されたことへの愛の応答に違いありません。愛された者が、愛してくれた人の帰りを待つのです。人だけではありません、一匹の飼い犬が、慕う主人を駅頭に待つと言う美談が、かつてありました。

 渋谷駅前に、10年も、主人の帰りを待ち続けた「ハチ公(渋谷の街で愛されたので〈公〉をつけて呼ばれたのです)」の像があります。「忠犬」と言うタイトルを持つ、秋田犬で、ハチの飼い主は、愛犬家だったそうで、東京帝国大学の教授の上野英三郎で、家を出る時には、このハチを伴っていたそうで、渋谷駅で、別れるのですが、帰りの時間が近づくと、ハチは大向(現、松濤一丁目)から、駅に迎えに出ていたのです。ところが、飼われ始めた次の年に、主人が急死してしまうのです。1925年、大正14年のことでした。それから10年後に、駅頭で、待ち続けたハチは死んでしまうのです。

 この渋谷駅は、通学には通過した駅でしたが、時々降りては街歩きをしたり、喫茶店に入ったりしました。二度ほど、その愛犬、「ハチ公」の前で、人と待ち合わせをしたことがありました。ハチって、10年も待ち続けることができた、忠実な犬だったのですね。

 聖書の中にも、「待つ」話があります。ルカによる福音書 15章11~32節)に、二人息子を持つお父さんに、財産分与を、生きているのに要求して、全てをまとめて、父の元を去る弟息子の話があります。本当は、主人公は、お父さんなのですが、どうも多くの教会の中では、弟息子を「放蕩息子」と呼んで、こちらを主人公にしてしまっている様です。その方が、劇的であって面白いし、そう言った息子が多いからでしょう。

 中国語では、「浪子」と言います。きっと海の波のように奔放で、放縦で、自分を波の動きに任せている様子から、そう呼ばれるのでしょう。日本語に訳しますと「道楽者」とか「放蕩息子」になるでしょうか。模範児でなかった青年期の私も、きっと,世間から「浪子」のように思われていたかも知れません。両親の寵愛を受けて、我侭いっぱいに育てられた井の中の蛙、それが私でしたから。

 その住んでいた世界の「狭さ」と「平凡さ」とに飽き足りなく、不満で、この弟息子は、心を満たしていました。『きっと遠いあの街には、面白いこと、刺激的なことがあって、俺を満ち足らせてくれるに違いない!』と、日がら思い続けていたのでしょう。父の目も、親戚の干渉も、兄との競争も避けたかったのかも知れません。それで別世界での生活に憧れ、「新天地」での生活を夢に見始めます。雑誌もテレビもない時代、その別世界が、どんなに素晴らしいかを目と思いとに、はげしく誘ってきたのです。

 未知の世界は、『広さと刺激に満ち溢れて楽しい世界だ!』と、すべての情報は誘っています。そうなると、日常の義務が手につきません。遠い空を眺めては、ため息をつくばかりです。その夢の実現のために、大雑把な計画を立て始めます。どんなに算段してみても、彼には自立する能力も資金もないのです。

 それでスポンサーを捜しますが、この未熟な男に用立てる大人は皆無です。叔父や叔母は全く相手にしてくれません。銀行だって貸してはくれないのです。それで父の財産の「自分の相続分」に食指を動かします。それは父親の存命中には、相続することはできません。それで父親の泣き落としにかかったのでしょう。

 その芝居のうまさに、騙されやすい父は負けてしまったのでしょうか。それで相当分の財産を、お父さんは分与してしまいました。彼は旅支度をして、父と母と一緒に育った兄を、故里と共に捨てます。大金が彼の手に握られているのです。憧れの地にやって来た、こざっぱりした身なりの彼の周りには、大勢の若者たちが群がってきました。

 金払いの良い彼は、おだてられると湯水のようにそのお金を使っていくのです。彼らと過ごす時間は、夢のように過ぎて行きました。夢から覚めて、ポケットの財布を開き、銀行の講座をの残高を見ますと、一円も残っていません。無一物になったことを知った遊び仲間は、潮が引いていく様に彼の元から離れていきました。完全な金銭的な破産でした。そればかりではなく、精神的にも破綻をきたしていたのです。

 夢が、これほど短時間に、しかも容易に砕けて仕舞うとは、夢にも思いませんでした。その現実に直面して、初めて彼の目が覚めるのです。「瞬きの間の独り芝居」という名の幕が下がってしまうと同時に、彼は父の家を思い出すのです。幼い日から、ふるさとを捨てた日までの楽しい思い出が、走馬灯のように思いの中を巡ったのでしょう。

 父の笑顔と、その額から流れ落ちていたの父の汗を思い出します。そして、『きっと父は、私のために涙だって流しているに違いない!』と思い始めると、いても立ってもいられなくなりました。『そうだ、父の家に帰ろう!』、そう思うと同時に、彼は、故里に向かって歩き始めたのです。はかない夢から覚めたのです。
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 父の家に近づいた時、彼が父を見つけるよりも早く、父が見つけてくれていました。彼が走るよりも早く、父が走り寄って来たのです。父を裏切り、傷つけた彼を抱きかかえ、幼い日にしてくれたように頬ずりをしてくれたに違いありません。想像が膨らみます。まるで彼が遠い過去に負った傷を癒すかの様にしてです。

 ここに描かれている父親は、「待っている父」なのです。条件なしで、帰ってくることを信じて、待っていてくれるのです。あのハチが10年待ったのと違って、いつまでも、信じながら待つのは、この父親なのです。今も、待っていてくださる「父なる神」こそが、この二人息子の、弟息子のお父さんのタイプなのです。神が接近してくださるのです。だから、私たちの救いは、「恩寵」であり、「一方的」であり、「憐れみ」であり、「圧倒的」なのです。

 喜び勇みながら、故郷に戻り、そこで待っていてくださる父のいる家に向かうこの弟息子の顔は輝いていたことでしょう。そこに、ありのままで受け入れてくださる父がいるのです。やがて歓迎の宴が開かれたのです。私も、待ちたもう神に、受け入れられ、赦された者であります。

(ウイキペディアの上野さんの家族とハチのl写真、 “ Christian clip arts “ から「待ち抱きかええ迎える父」です)

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