起きて半畳寝て一畳

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 父の仕事仲間というのでしょうか、ずいぶんと親しくされていた方の中に、「まつださん」がおいででした。父よりも一回りほど年配の方でした。どうして父の友人を知っているのかと言いますと、『昼ごはんを食べよう!』と言っては、父は中学生の私を連れ出して、自分の机のある、東京の日本橋室町にあったビルの一室に連れていってくれて、そこで紹介されたからです。

 旧海軍の関係者だったと思いますが、それぞれに戦時中は、軍に関わる仕事をされていたのでしょう。お互いに情報交換やアドヴァイスをし合ったりして、戦争が終わって、平和の時代になって、それぞれの背景や特技を活かして、新しい生き方を始め、気が合っていたにちがいありません。5、6人の方々と、三越の近くのビルの一室に、机を並べていたのです。

 それぞれの机に、自分の電話を置き、ロッカーに書類を置いて、それぞれに自分の事業をされていたようです。父は、浅草橋や新宿にも会社を持っていたり、顧問をしていましたが、気の合う個人経営者たちが、助け合ったり、情報を共有しあったりして、その一室で、それぞれの事業を展開していたのでしょう。

 その他にも、日商の一部上場の会社にも連れて行かれたことがありました。そこには、兵学校の校長をされたと言うお父さまをお持ちの方や、皇室の宮さまの縁戚だとか言う方が、役員をされていました。父が紹介してくれたから知ってるのです。その中には、有名な薩摩武士のお子さんという方もおいででした。

 今思うに、まだ中学生の子ども私を、そんなところに連れて行ってくれたのが不思議でなりません。会社の組織の中にいる人たちと、組織の外の人たちとの出会いでした。日本橋の事務所にいた人は、個人事業者で、実業の世界には、こういった二様の形態があるのを知らされたのです。

 この「まつださん」と、とくに父は親しかったようで、手狭な家に住んでおいでだったそうです。そういった生き方に、父も倣って、大きな家に住むことがありませんでした。尊敬の念を込めての交流があったようです。都下の6人の家族で過ごした家は、電車で、東京駅まで小一時間の所にあって、幾つも会社に関わる男にしては、狭くって窮屈な家でしたが、父は平気でした。

 「起きて半畳寝て一畳」、人が必要とする居場所は、広くなくていいのでしょう、父は頓着しなかったのです。そんな父の生き方を見て、育てられて、とうとう家一軒持たずに、今になってしまいました。借家住まいの連続で、物を持つ煩わしさから解放されてきたのです。頂いた物を捨てられずに、持ち続けてきた家内の持ち物、着る物を、先日訪ねてくれた次女が、『天国に持っていけないから!』と、母親を納得させて処分してくれました。ずいぶんスッキリしたのです。

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 ロシアの文豪のトルストイに、「人にはどれほどの土地がいるか」という短編の小説を書き残してあります。一人の農民の男が、広い土地を求めていました。ある時、一つの村を訪ねるのです。村人が、こんな提案を彼に告げます。『一日歩き回った分だけの土地を安く売りましょう!』と、持ちかけたのです。それには一つの条件がついていました。日没までに出発点に戻って来なければならなかったのです。

 それで彼は、夜明けと同時に、宿を出て一日中歩き続けました。欲に負けて、折り返すのが間に合わなくなって、出発点に戻りますが、日が暮れてしまっていました。そこで何と絶命してしまうのです。結局は、葬られてしまいますが、その墓は「6フィート(約180センチ)」に満ちませんでした。

  人が必要としている時間も限られていて、聖書は、「七十年、長くて八十年」という時間の制限の中にもあると記しているのです。物も時間もこの身体も、必要とするところは、「わずか」なのです。父には、秘蔵の宝物がありませんでした、育った家の床の間に、山奥で軍のために働いた時の贈り物に頂いたのでしょうか「鹿の角」、軍名で働いた時に掘り出された一部の「水晶の結晶」、これだけが、父の「お宝」でした。父が帰天した時、どこにも、それが見当たりませんでした。

 一棹(ひとさお)の洋服ダンスと、その上部に衣装ケースを二つほどと小さな書架があって、靴も二足とサンダルが下駄箱にあっただけです。母は、父よりも小さな整理タンスと柳行李が三つほど、押し入れの中にあっただけで、持ち物の少ない人たちでした。いつでも引っ越せるような、身軽な生き方だったのです。

 天国に行く時に、持っていけない物は持たないで、今ある物で満足で生き続けて八十年、恥ばかりは多い人生でしたが、赦されて、神の子の身分を頂けたことへの溢れる感謝で、後は塵芥(ちりあくた)のみです。自分の大切なオモチャを壊してしまって、それを握って、「茫然自失」していた近所の男の子の顔を思い出します。

 義兄は、18歳でブラジルの開拓移民をして、サンパウロの近郊の街で時計や宝石や小物の商いを、小じんまりしていました。サンパウロの宝石屋に連れ出してくれて、イタリヤ系の宝石店で、義兄が作らせて、贈ってくれた「指輪」がありました。天津に住んでいた、7階の家の洗面台のストレートな排水管の中に落としたのは、初めて指にしたダイヤモンドでした。

 大事にしていたので指から外して、顔を洗っていて無くしたのです。涙と血を流した移民の悲哀の年月の中から這い上がって、やっと事業に成功した義兄が、義弟に心からの贈り物として頂いた、高価な指輪でした。その兄も召されましたが、キリストの救いに預かっているので、再会の望みがあります。その時、なんと言ったらいいのでしょうか。

 様々な人たちとの出会いがあって、ここに私がいます。素敵な思い出の中に、みなさんがおいでです。自分があるのは、この方々がいて、その交わりがあったからに違いありません。感謝ばかりの台風接近の日の朝です。

(ウイキペディアの「三越本店」、「孫娘と歩むトルストイ」です)

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