博士号を固辞した漱石

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 昭和30年代の初めの頃でしたが、父に言われるまま、中学受験をしました。父の友人に、大正デモクラシーの時期に創立された中高一貫校がある、と勧められたからでした。まだ「末は博士か大臣か」と勉励努力の目標が掲げられていた時代だったのでしょうか、四人の息子たちの一人くらいはと、父も思ったのかも知れません。何もわからないまま受験したのです。一緒に入学した同級生が120人、くぬぎ林の中にあった、中高6年の男子だけの一貫校で学んだのです。

 高校生と一緒の運動会があって、一学期から、校庭にあった、大運動場に集められて、校歌や応援歌の練習が行われたのです。早稲田や明治などの大学の応援歌の替え歌を歌わされ、東京六大学を目指して学ぶ様に鼓舞されたのです。担任は東大出で、3年間、社会科を教えてくれました。高等部の教師は、「奥の細道」を、特講のように教えてくれ、「月日は百代の過客にして、行きこう年も・・・」と、大人になったように感じたのを覚えています。

 数学が好きだったので、東工大を目指して、土木を学びたかったのですが、教壇を降りて、生徒と同じ床の上に立って、朝礼も授業の前後の挨拶をしていた担任の影響で、教師になろうと思ったのです。バスケットボール部に入って、高校生と一緒に練習させられ、ノッポの中のチビの自分は、必死になってボールを追いかけ回していました。そこには、OBの大学生や社会人が出入りしていて、可愛いがられたり、ビンタを張られたりもありました。都内の高校で行われた試合に、ボール持ちで付いて行って、帰りには新宿で、どんぶりメシをおごってもらったりして、実に楽しかったのです。

 勉強もクラブも面白かったのです。南極探検隊の副隊長された方がOBで、講演会があって、興味津々で話を聞いたりしました。けっこうOBが社会で活躍していて、大学の教授になったり、博士がいたりで、男子の本懐は、その博士になったり、社長になったりの刺激が一杯の学校でした。

 さて一通の手紙が残されています。

「拝啓、昨20日夜10時頃、私留守宅へ(私は目下表記の処に入院中)本日午前10時頃学位を授与するから出頭しろという御通知が参ったそうであります。留守宅のものは今朝電話で主人は病気で出頭しかねる旨を御答えして置いたと申して参りました。学位授与と申すと、2、3日前の新聞で承知した通り、博士会に推薦されたに就(つい)て、右博士の称号を小生に授与になる事かと存じます。然(しか)る処、小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、是から先も矢張りただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。従って私は博士の学位を頂きたくないのであります。この際御迷惑を掛けたり御面倒を願ったりするのは不本意でありますが、右の次第故(ゆえ)学位授与の儀は御辞退致したいと思います。宜しく御取計を願います。』

 そうです、これは夏目漱石の記した一封の手紙なのです。1911年(明治44年)2月に、<博士号〉を推挙する通達を、彼は受け取るのです。生まれながらでしょうか、漱石は称号や勲章や褒章などを好みませんでした。そんな彼に、文学博士のタイトルを差し上げたいと言われた訳です。

 その前年に、漱石は胃潰瘍になってしまっていました。その時、ひどく吐血をして、命の危険を経験しています。伊豆の修善寺の旅館で、温泉療養をしていたのです。やっとの事で、病状が平泰し、秋口になって帰京していました。といっても家に戻ったのではなく、市中の病院に入院していたのです。心も体も疲れ果てて、気も滅入っていた時に、文学博士授与の通達でした。そのお役所仕事、一方的な知らせが、反骨漢の漱石は気に入りません。それで辞退したわけです。

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 潔いではないでしょうか。と言っても、文筆家としては、「吾輩は猫である」、「坊ちゃん」、「草枕」などのベストセラー作家で、名を馳せた人でしたし、松山中、熊本の五高、東京帝国大学で教鞭をとった教育者でもありました。留学経験もあります。宮仕えが不得手だったので、朝日新聞に入社してしまいます。専属作家となった漱石は、もう44歳になっていましたから、博士になっても良い頃合いだったのです。でも、それを固辞したわけです。そればかりではなく、東大の教授への就任も断っていたのです。

 そんな漱石の脳が東大の医学部の棚に残されているそうです。重さまで測られていて、1,425gだったそうですから、平均値の1300gよりもだいぶ重い人だった様です。人の価値は、脳の重さでは測られなさそうですが、名小説家の脳を残そうした意図とは、何だったのでしょうか。当時の文部省は、漱石の脳には関心はなかったのでしょうけど。

 夏目漱石の功績の中で注目したいのは、多くの小説を書いたことと関係がありますが、近代日本語を形作ったことだと言われています。シェークスピアが、イギリス国語を形作った様に言われるのと同じでしょうか。何度もブログに書くようですが、漱石の日本語は、明治の落語界の祖とも言われる三遊亭圓朝(1839年~1900年)に学んだ、寄席に出掛けては、寄席噺をよく聞いていたと言われています。

 この圓朝は、江戸末期に、江戸の湯島切通町で生まれ、5歳で高座に上がったそうで、江戸、明治の落語界で活躍されています。江戸落語を集大成したことから、〈落語界の祖〉とまで言われています。圓朝の噺に、日本語の根があると言われています。言葉に関心を向けていた漱石は、江戸っ子でしたから、その生粋の言の葉を、寄席で、圓朝に学んだことになります。

 たぶん漱石贔屓(ひいき)の自分は、そんな庶民的な、江戸気質が好きなのかも知れません。ちょっと関係がないのですが、家内の本籍は、湯島聖堂の近くの湯島切通坂町なのです。文学者のような厳つい文体ではなく、庶民の言葉で平易に徹した物書きだったから、庶民の支持を得て絶大な人気を博したのでしょう。一万円札ではなく千円札の肖像に選ばれたのも、そんなところにありそうです。大臣や博士に縁のない私たちの様な庶民でいたい、と願っていた人だったのかも知れません。

(“いらすとや”の博士、“ウイキペディア”の東京・千駄木にあった漱石の家です)

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