暑かったせいで、今夏、美味しかったのが「無花果(いちじく)」でした。糖度が高いのですが、8月から10月には、スーパーマーケットの店頭の果物コーナーに並び始めると、つい手が伸びてしまい、買ってしまうのです。
きっと、一番懐かしくて、美味しい思い出があるから、好きになったのかも知れません。実は、小学校の通学路を、少し外れた小道に民家があって、その庭に、無花果が植っていたのです。つい手が伸びて、とって食べたのが始まりでした。柿ドローボーならぬ、無花果ドロボーでした。
アメリカの西海岸に、日系キリスト教会の牧師さんがおいでで、毎月、週報をまとめて、mail で送ってくださるのです。4、5年前に、その週報送付の感謝の感謝をしたのです。この牧師さんの奥様の実家が、東京郊外の街にあって、その家の無花果こそ、私が毎年の様にとって食べていた代物なのです。
道路の方に枝が伸びていて、まるで『採って食べて!』と言うそぶりをしていたので、その誘惑に負けた私の所業でした。それを急に、思い出して、無花果ドロボーのお詫びをしたのです。
もう時効になっていましたし、その方のご両親も亡くなっておいでで、その家もなくなってしまって、無花果の木もないのですが、良心に責められた私の謝罪だったのです。一時季に一つ、二つと、小学生の頃の何年かにわたって食べたのです。そう告白しましたら、大笑いをされてしまいました。
子どもの頃の東京の郊外の街の農家には、柿や庭グミや苺の実が、庭に植えられていたのです。わが家の庭にも、父が好きだった葡萄を、父の友人がご存知で、その苗木を下さったのです。それが狭い庭に植えられていました。でも自分の家にない無花果は誘惑的だったのです。
冷蔵庫に、もう二つほど残っているでしょうか。もう高級果実の様になってしまって、驚かされるのです。『あんな不味くて硬いのを、よく食べましたね!』と、先輩、同じ学校の大先輩なのですが、そう言われたのです。
四字述語に、「悪木盗泉(あくぼくとうせん)」があります。どんなに困窮していても、不正や恥ずべき行いには手を出さない戒めを、そう言うそうです。どんなに食べたくても、無花果を盗むことをしない決断を、今再びしている私です。
ちゃんとお詫びをし、きちんと支払いをし、正しく食べる無花果は、今年も、格別に美味しいのです。そういえば、聖書にも、無花果が登場しているのを思い出します。
(ウイキペディアの「無花果」です)
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