ただ感謝する今を

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 戦国の悲運の武将、真田幸村が、こんなことを言い残しています。

「定め無き浮世ニて候へば、一日さきハ不知事候。我々事などハ、浮世にあるものとハおぼしめし候まじく候(運命の定まるところのないこの浮世のことですから、一日先のことはわかりませぬ。我々などはもう浮世に在るものと思われないようになさって下さい。(出典 上田情報ライブラリー )」

 浮世、今生の世のことを言うのでしょうか、そこには何時までもはいられずに、必ず去らねばならないと、戦国の名武将の真田幸村(信繁)は嘆いています。運命に従わなければならない、自分の一生なのでしょう。明日のことは知る由もなく、皆目分からないのです。幸村は、そんな一生を忘れ去って欲しかったのでしょうか。亡くなったら、自分なんかいなかったと思っていいですよ、と言ってる様です。

 関ケ原の戦いで西軍に加わって敗れてしまいました。家康は、幸村を死なせないで、高野山へ幽閉させるのです。彼はお父さんの昌幸と二人で、そこにいました。妻を娶り、子が与えられて家庭生活を許され、高野山の麓の部落に住み着いたのです。兄の信之らからの仕送りでの生活は厳しかったそうで、援助をたびたび願う手紙を出しています。

 十数年、そこでお父さんは、志半ばで死んでいきます。大坂夏の陣が始まると、幸村は戦場に駆けつけるのですが、戦死してしまうのです。信州上田に生まれ、最後には異国に住み、戦さで果てた悲運の武将だったわけです。その生き様を思うと、昭和の平和な時代に生まれ、今、令和の時代を生きられて幸せなのかも知れません。聖書は、次の様に記します。

『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。(新改訳聖書 詩篇90篇10節)』 

 過ごした年月を思い返して、アッという間に年月は過ぎ去り、飛び去っての今です。自分の一生が、不思議なものであったことを思い返し、一日たりとも、一時たりとも偶然はなく、いのちを付与してくださった創造主に導かれてきたのです。人と機会とに出会って、あちこちと動き回って、北関東の静かな街に住み着いて、ここでも多くの人と出会ってきました。

 そして、これまで関わってきた人たちとの死別が時々あり、人生の短さを痛切に感じてしまう年齢になってきました。人は亡くなると、告別式が行われ、故人の遺徳や思い出が語られるのです。みなさんが善人として一生を過ごしているのでしょうか。汚職、選挙違反、家庭を顧みない、ふしだらの行状、税金の不正申告などの過去を持ち、どうでなくても不満ばかりの一生だった人が亡くなって、その方への弔辞を聞いて、時には、『ウソだ!』と思っている弔問客が多くおいでなのではないでしょうか。

 ところが、好々爺だった晩年に知り合った、過去や真実を知らない人は、『素晴らしい人生を生きたのですね!』と、隣席の方に言っています。スクリーンに映し出された故人の写真は、どうも苦笑いしているのでないでしょうか。なぜ笑ってるのかと言うと、そうではなかったからです。

 被害者は、鞭打ちたいほどに憎い相手なのに、死んでもらって、ホッとしている人だっておいでです。なぜ日本人は、死んでしまうと、みんな善人になってしまい、神や仏になってしまうのでしょうか。と言うよりは、悪い過去は封印してしまい、触れないのです。だから故意に、そう「してしまう」のわけです。過去はともかく、日本人は、みんな成仏して冥土に行けるとになっているのです。

 きっと葬送する人が、自分の時を迎えたら、悪口や真実を語らないで、良い人で、極楽往生したいから、美辞麗句をならべるのでしょう。秀吉は、「浮世のことは夢」だと言う辞世の句を詠んだのですが、どうして善いことばかりではなく、辛いことも暗いことばかりなのに、死んでしまうと、褒められてしまうのでしょうか。真実を知る人にとっても、被害を被った人、貶め入れられた人、痛烈に嘘で訴えられた過去を過ごした人がいるのにです。

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 今改めて、自分の最後について、子どもたちに思いを書き記しておこうと思っています。失敗や行き過ぎが多く、短気で、すぐに怒ってしまい、それて最悪なのは、一晩眠ってしまうと、したことを都合よく忘れててしまうのです。ちっとも良い夫や父親でなかったこと、『善い人でした!』なんて言われたくないのです。それでも、赦されて、精一杯生きてこられたのです。

 それで、葬儀不要、墓不要、持ち物は全部廃棄、骨は粉末にして眼下の川に流すこと、これらを守って欲しいだけなのです。総合的に思い返しますと、いい人生だったと思うのです。思い置くことは多くないので、召される日まで、生かされ、赦されて、みなさんには、もう少し我慢をしていただこうと願うばかりなのです。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(新改訳聖書 1ヨハネ1章9節)』

 ただ憐れみ深い父なる神さまに罪赦されて、ここまで生かされてきました。この不動の確信を、主イエスさまが与えてくださって、聖霊なる神さまが、その証印を押して下さって、今があります。それだけで他は要りません。ただ感謝あるのみなのです。

(“いらすとや“ のありがとうのイラスト、朝まだき巴波川です)

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