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「伯楽」と言う仕事があります。野生馬や生まれたばかりの馬の子を、躾けるのですが、そのタイミングを外してしまうと、もう躾けるのが難しいのだそうです。華南の街に住んでいた時に、障碍を負われた少年を訪ねたことがありました。お母さんは、その子の養育を、おばあちゃんに任せて、アメリカに密航していたのだそうです。
そのおばあちゃんは、孫の世話を一生懸命されたのだそうです。リハビリの専門家に診てもらったところ、今のうちに矯正訓練を続けるなら、身体機能をある程度恢復することができると言われて、おじさんたちの援助でし始めたのです。主におばあさんが、メニューに従って矯正を行っていたのですが、それは世話をするおばあちゃんには、耐えられにほどに辛く見えたのです。可愛さのあまり矯正をメニューの通りにせず、遂に、同情心でやめてしまいます。
それで、矯正の時期を過ごしてしまったのです。第三者が、しかも専門の立場でする様な体制が、まだ整っていない時期でもあって、家族の間で行われていたわけです。半年でも1年間でも、矯正センターで、厳しい訓練をしていたら、と悔やんだのですが、時期を失ってしまったわけです。
彼はニコニコして、私たちを迎えてくれ、舌でパソコンを操作して、仕事ができる様になっていました。古い軍港の近くの養老院が、この若者を受け入れてくれて、世話をされながら一室で、お世話をいただきながら過ごしていたのです。
私たちの住んでいた街の郊外に、アメリカ人が運営する、障碍を負われたお子さんたちのお世話をしている施設がありました。何人もの師範大学の学生のみなさんが、ボランテアでお手伝いをしていたのです。その運営者が、この少年のお世話をしてくださると言うので、転院したのです。そんな重度の障碍を負っている少年のお世話を、愛の限りを尽くしながら懇切にお世話しておいででした。
この方は、クリスチャンで、そこでは定期的に聖書研究という名で集会が持たれていて、私たちも訪ねて一緒に集会に参加したのです。珍しくも大胆に異言を語られていて、賛美礼拝が行われていました。隣国で奉仕している方たちの多くが、聖霊派の背景が多かったのではないでしょうか。東北部で過ごした1年間、ホテルが外国人のための宿舎になっていて、そこで週日には、有志が誘い合って、祈ったり賛美したり集会が持たれていました。その集いも、聖霊派の背景のみなさんが多かったのです。
そこでは、政府公認の外国人のための超教派の礼拝がもたれていました。劇場の様な、大きな講堂の一室を借り受けて、入口でパスポートの提示が、礼拝出席には必要でした。そこの礼拝に出たり、街中の公認教会にも出席しました。その伝統ある教会には、400人ほどの会衆が集っていたでしょうか。ものすごい熱気でした。聖餐式には、多くのみなさんが、泣きながら感謝して、パンと杯に預かっておいででした。本物の信仰者でした。
その国では、外国人は宣教活動ができなかったので、ビジネスマン、エンジニア、教師、福祉活動などをしながら、間接的に福音の宣教をしてたのです。それぞれ教派とか教理などの立場から離れて、助け合いながら、それぞれを認め合って交わりが行われていたのです。とても素晴らしい和合の交わりでした。ですから、教えている学生さんたちや、一緒に働いておでの方たちや、街で出会った方たちの中から、信仰を持つ方たちが起こされ、秘密裏に浸礼でのバプテスマが行われていました。
その大きな街の私たちが住んでいた宿舎に、訪ねて来られた国立の名門のN大学の学生さんがいて、彼も信仰を持ち、バプテスマを受けたのです。彼は、英語と日本語ができて、私の父が青年期を過ごした、鉱山で名のあった街の出身者でした。下の息子が役員をしていた会社への就職の話があったりしたのですが、なぜか叶いませんでした。いろいろなことがあって、華南の街に移ったわけです。
そこでは、12年間を過ごしたのです。中には五代、六代のクリスチャがいて、みなさん助け合いながら、励まし合いながら、信仰生活や訪問、証をし、社会生活も忠実に励んでされておいでです。主への愛を隣人への愛として押し流しているのです。どんなに私たちは、みなさんから助けられ、支えられたか知れません。今ものその交流が続いていて、何回か訪ねてくださったこともあるのです。
その障碍を負っておいでの少年は、もう大人になっておられて、彼のおじさんと従兄弟の方が、今の様子を話してくれます。このご家族が、東京にいて、北海道で事業を計画中しておいでです。私たちを、時々訪ねてくれるのです。素晴らしい出会いや交わりに感謝しています。
(“いらすとや“の教会、“ある信徒”さんのイラストです)
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