On the way

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 日本キリスト教団の吉祥寺教会の牧師を長年勤められ、多くの方々を伝道と牧会の前線に送り出された、竹森満佐一牧師が、次のように記しておられます。

 『カルヴァンは最も忠実なる御言の役者となろうとした。彼は神の御言とこれを聞く魂との間に、自分が邪魔になることを最も恐れたのである。・・人間的なあらゆる粉飾を取り去って、ただ純粋に御言を伝えたいという願望は、・・精魂を尽くさしめた課題であったのである。カルヴァンの説教を読む者は、その文章のまことに地味な、まことに簡素なことに気付くであろう。・・ここにフランス語をつくった人の一人といわれる文章家であり、同時に歴史の有する最も強力な”ダイアレクテシャン(弁証理論家)”であった彼の御言に対する忠実さを見出さねばならぬ。豊富な才能と美しき教養とに富んだカルヴァンが、ただ御言を純粋に伝えんために、人々に魅力多き『人の知恵』を捨てて、謙遜な神の器になり切ろうとしたところに、われわれは偉大な説教者を見出すのである。ここに、彼がただ御言の講解に力を注ぎ、これを説教の中心にした理由があるのであった(新教出版社刊「イエス伝」)』

 また、イギリス教会史の中で著名な牧師で名説教家であったスポルジョンが、講壇を降りて、家路についた信徒たちの後を帰ろうとした時のことでした。信徒たちが、『今朝のスポルジョン牧師の説教は素晴らしかった。彼の・・』と言う言葉を聞くと、彼は踵を返して教会に戻り、椅子に跪いて祈り始めます。『主よ。今朝の説教で、あなたを会衆に印象付けることをしないで、自分を印象付けてしまったことをお赦ししください!』と祈ったと言われています。いかに彼が主の前で、謙虚であろうとしたかが分ります。

 説教者の誘惑は、会衆に受けること、特に新しく来た人たちに分って欲しいと願うことです。それで面白く楽しく、彼らに距離を置くことなく、冗談や駄洒落を連発してしまいます。ところがカルヴァンやスポルジョンの説教を聴いて(ほんとうは読んでですが)みますと、一見つまらないのです。飾り物や無駄、人の思いが省かれているのです。

 みことばが直截的に語られ、みことばを解説するのに、みことばだけが用いられているのです。もちろん本を著わすためには、編集がなされたのでしょうけれど、基本的に、装飾を省いて簡素な語り口であったに違いありません。この竹森牧師も、カルヴァンに学んだ教役者でした。

 ずいぶん前に、静岡県下の水窪で行われた「新年聖会」に、二人の講師が来られました。一人は、母教会の開拓をされたJ宣教師、もう一人はS牧師でした。J師は、カルヴァン的な説教をしましたが、S師は、面白おかしく話をされました。半世紀近くが経つのですが、S氏の説教の記憶は面白かっただけで内容を全く覚えていませんが、J師の説教はいまだに記憶の中にとどまっています。

 『あなたの説教は面白くない。A牧師の様に説教をしてください!』と迫った信者さんがいます。この方は、「説教」の本質を理解されておられないのですから、落語会か寄席に行かれた方がいいのではないでしょうか。説教は、時事講話でも漫談でも、自分の神学を語るのではなく、「いのち」を求めて来会される方に「いのちのみことば」を、分かつ霊的作業なのであります。

 説教の機会を与えられて、講壇に立って、初めて聖書から話をした時のことです。それを聞いていた宣教師さんは、二人きりの時に、説教の内容については一言も言いませんでしたが、態度と技巧について、けっこう厳しく批評をして下さったのです。それを忘れません。この方が、熊本においでの時に、献身するかどうかをテストされるために、結婚したての家内と訪ねました。その時、キャンプ場の夏季聖書キャンプで初めて説教の機会が与えられたのです。その時は一言も批評されませんでしたが、開拓伝道を始めて間もない頃の最初の説教の後でした。そう言われた日を、また思い出したのです。まだ、on the way の自分でしかない様です。

(“ウイキペディア”によるジュネーブの様子です)

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