『歌は世に連れ世は歌に連れ!』と言われますが、作詞が吉川静夫、作曲が上原げんと、唄が津村謙の「流れの旅路」が、昭和23年(1948年)に発売されたレコードの歌謡曲で、「一世を風靡した」歌で、日本中が溢れていたのです。ラジオから、繰り返し、繰り返し流れてきたのです。「国民歌謡」は、特別な日本的な文化に違いありません。
1 紅いマフラーを いつまで振って
名残惜しむか あの娘(こ)の馬車は
はるかあの丘 あの山越えて
ゆくかはるばる 流れの旅路
2 旅の一座の 名も無い花形(スター)
ビラの写真の さみしい顔よ
はるかあの町 あの村すぎて
ゆくかはるばる 流れの旅路
3 紅いマフラーは 見るのもつらい
別れ惜しんだ あの娘がいとし
はるかあの空 あの星見ては
ゆくかはるばる 流れの旅路
娯楽のなかった戦争後、馬車に、その後は木炭車に、一切の資材を積んで移動する集団がありました。日本中を巡り歩く、演劇集団やサーカスでした。白粉(おしろい)や「ドーラン(油性の練り白粉のことである。化粧品の一種として、主に演劇上演や映画撮影などでのメイク用途に使われていました)」の強い匂いがテントや小屋の中にあふれていました。そんな匂いの記憶が、さまざまにあります。
また、「サーカスの歌」をよく聞きました。作詞は西條八十 、作曲が古賀政男で、松平晃が歌っていました。
1 旅の燕(つばくら)淋しかないか
おれもさみしい サーカスぐらし
とんぼがえりで 今年もくれて
知らぬ他国の 花を見た
2 昨日市場で ちょいと見た娘
色は色白 すんなりごしょ
鞭の振りよで 獅子さえなびくに
可愛あの娘は うす情け
3 あの娘住む町 恋しい町を
遠くはなれて テントで暮らしゃ
月も冴えます 心も冴える
馬の寝息で ねむられぬ
4 朝は朝霧 夕べは夜霧
泣いちゃいけない クラリオネット
ながれながれる 浮藻の花は
明日も咲きましょ あの町で
旅のサーカスや剣劇芝居を何度か見たことがあります。お祭りの行われた神社の境内に、簡易に芝居小屋が組み立てられて、暖簾をくぐって席に着くと、拍子木がキィーンキィーン、パーンパーンと打たれ、芝居が始まるのです。伊那の勘太郎月夜とか国定忠治などのシャンバラ芝居の演目が演じられていました。拍手が起こり、擬音が沸き起こり、必死な演技が舞台に上に見られたのです。
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日本の移動演劇は、懐かしい文化の大切な一部分だったのでしょう。演歌歌手の藤圭子は、ご両親が浪曲の演者と三味線の曲師だったそうです。東北や北海道の町や村を巡ったのです。その一座の前座のとして、幼い頃から歌謡曲を歌っていたそうです。とても頭の良い子だったのですが、一週間とか一ヶ月ほどでしょうか、公演が終わると、隣街に移動していく旅芸人でしたから、落ち着いて勉強するいとまがなっかったようです。
「流れの旅路」、「旅の一座」、「旅の燕(つばくら)」、「あの町」、「この村」と歌にあるように、ラジオから流れてくる、これらの歌を、子どもなのに、すっかり覚えて歌って、今になっても誦(そらん)じることができるのです。あの時に頬に感じた風、鼻で嗅いだ匂い、手で触れ、目で見たものの全てが、懐かしく甦ってまいります。
何年前だったでしょうか、よく遊びに行って、お母さんにご馳走になった級友の家に泊まった時に、壁にお父上の写真がありました。軍服姿の凛々しい青年の姿でした。子を残して戦死しておいででした。お母さんが電電公社で働いて、彼を育て上げていました。お父上と一緒に旅芝居やサーカスを見ることもなかった戦後を生きてきて、彼は、やはり寂しそうでした。
戦争のない80年は、私たちの父母や曽父母の世代の犠牲があっての平和な年月でした。お父さんの軍帽をかぶって別府の町裏を遊んでいたと言っていた級友もいました。もう曾孫を持つ年齢になっている我々世代ですが、戦争後の間もない時期の様子の懐かしさに、なぜもなく圧倒されてしまいます。
そんなことがあって、もたらされた「平和」が、絵に描いた餅にならないで、「作り出す(マタイ6章9節)」ものと、主イエスさまは言われたので、私たちにかかっています。人と人の間に、国と国との間にあるのは感謝なのですが、現実には争いが絶えません。根本的には、「神との平和」なのでしょう。神との断絶にあった私たちのために、平和な橋渡しをされたのが、イエスさまであり、十字架です。神の御子の死によってもたらされたものは、永遠なのです。
(ウイキペディアの蓄音機、サーカースのテントです)
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