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まだ、運転免許証を手にしていた頃、あちらこちらとハンドルを握って出掛けていたのを思い出します。アメリカ合衆国の属領グアム市内は、免許証を、そこでもらったので、米本土のハイウエーでも中国の街の工場の構内でも、国外でも走ったことがありました。日本では、北は仙台、南は熊本、日本海側は新潟の糸魚川(いといがわ)などを訪ねたでしょうか。
首都高速の江戸橋の出入り口に、アジアの32カ国を結ぶ、“ASIAN Highway ” の起点があって、福岡から海を渡って、釜山、ブノンペン、ニューデリー、そしてカプクレ(トルコとブルガリアの国境)を終点とする、国際間道路[AH-1]があります。この首都高の標識を見ると、東京がトルコ国境まで繋がる一本の道路で結ばれていると言う、不思議な感覚に襲われるのです。もちろん海を船で渡りますが。
その日本橋のたもとに立った時と同じ感覚で、世界を捉えられるのも不思議の思いに駆られます。江戸に幕府が置かれ、諸国とを結ぶ道路網が整備されることになって、その起点が、この日本橋でした。ところが、1974年に、東京でオリンピックが開催されることになって、首都高速道路の工事が始まり、日本橋の上を高架で走るルートが計画されて、名橋の日本橋は、高架下の陰になってしまったのです。
道路の橋桁の下に、主要な橋がかかっているようで、お江戸の景観にはそぐわになくなったなと思っていましたら、近い将来、首都高は地下を走るようになり、日本橋は陽の目を見られるようになるそうです。
そういえば、随分、あちらこちら歩き、旅をしてきたものです。今は、散歩道を辿り、春夏秋冬の植生の移り変わりを目にし、人と行き交うのもまた興味深いのです。先日は、眼下に見える日光例幣使街道が、梅雨の雨に濡れていました。今日も、35℃の猛暑になるとか、アスファルトが柔らかくなってしまうのではないかと心配になるほどです。
父は、旧甲州街道の近くの南新宿あたりに家を買おうとし、繁華街に近いので、これから成長していく4人には相応しくないと思ってやめたり、また自分が転校し、卒業した旧制中学校のあった街の近くを、国道1号線(旧東海道)があって、その道沿いに家を見つけたのですが、そこもやめ、東京の郊外に家を買ったのは、私たち4人のためには賢明な決断だったようです。そこも旧甲州街道の道筋にありました。けっこうこれまで、よく道路沿いに住んできたように思います。
五世紀頃、唐の街道の整備に倣って、日本でも統治上、街道の整備が行われ始めていました。江戸期になってからは、「五街道」が整備されたのです。江戸勤めの侍や旅の商人、温泉療養や寺社参拝で、江戸期の人たちは、幕府の整備した街道を、少ない携行品で旅をしました。今のような観光目的の旅は、富裕層だけの特権だったのでしょう。各地方にも街道が整備されていきました。
その起点とされたのが、江戸の日本橋でした。その主要街道は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥羽街道で、「五街道」と呼ばれていました。それは大土木道路整備工事だったのです。ブルトーザーもパワーショベルもなければ、アスファルトもコンクリートもない時代、縄編みの簣(もっこ)や木製や鉄製のシャベルやツルハシを使っての工事だったようでした。
江戸から京の都までの53宿の「東海道」、江戸から武州千住、下野宇都宮から日光までの21宿の「日光街道」、宇都宮から分岐して磐城白河までの24宿、白河以北の陸羽街道・仙台道・松前道・外が浜道でした。 郡山、福島、陸中盛岡、陸奥青森、三厩まで、そして海を渡って蝦夷松前を経て函館までの114宿の「奥羽街道」、さらに江戸から上州高崎、信州下諏訪、信州妻籠、草津に至るまでの67宿の「中山道」、江戸から内藤新宿、八王子、甲府、下諏訪までの44宿の「甲州街道」などがあったのです。
各街道には、「一里塚」が置かれ、「宿場」が設けられ、本陣、脇本陣、旅籠、木賃宿、高札所、代官所が置かれていました。こちらに越して来て住み始め、今年は8年目に入った、この栃木市は、中山道の倉賀野宿から、日光に至る「日光例幣使街道」の宿場だったのです。この私たちの住む街は、幕府の佐野藩の統治下にあったので、街の中央に代官屋敷跡が残されていて、ここに来た当初、見学したことがありました。
そんな宿場町や、街道沿いに、「報謝宿(ほうしゃやど)」と呼ばれる宿泊施設が、所所にあったようです。旅の途中で病んだり、路銀をなくしたりしている人に、宿と食べ物を提供する、今で言う、民間の篤志家による福祉施設があったのです。旅の途中での難事をした場合、宿や食事の世話を、個人や地域でしていたそうです。
中山晋平の作詞で、野口雨情の作曲の童謡、「あの町この町」があります。トボトボと歩いたり、スタスタと歩いた道があって、今も歩いている自分なのです。
あの町この町 日が暮れる
日が暮れる
今きたこの道 帰りゃんせ
帰りゃんせ
おうちがだんだん 遠くなる
遠くなる
今きたこの道 帰りゃんせ
帰りゃんせ
お空に夕べの 星が出る
星が出る
今きたこの道 帰りゃんせ
帰りゃんせ
家内の入院を機に、住み始めた街は、何よりも、日光東照宮の造営、維持のために、さらには近郷の物資の搬入や搬出のために、食料や味噌醤油の調味料や郷土品や日用品や資材を集積するための「舟運(しゅううん)」の河岸で栄えた商業の盛んな所でした。その舟運を担った巴波川の周辺は、そんな時代の雰囲気を残していて、舟子たちの掛け声や舟唄や、綱手道を舟を曳いて歩く水夫たちの仕事唄が聞こえてきそうです。
陸路は人が動き、舟運は物資が動き、日本中で、都賀舟や高瀬舟が、荷を運んでいて、鉄道ができるまで盛んに行われたのです。今のような自由に行き来をすることができない時代で、街道筋には関所や番所があって、今のように国外に出かける時のように、県庁から「査証(Visa)」の発行をしてもらい、それを携行しなければならなかったのですが、国内の移動にも、「通行手形」が必要でした。
その通行手形は、武士の場合は領主が、庶民の場合は在住地の名主などが発行したもので、それを携行する必要があったのです。江戸期には、「出女」、「入り鉄砲」が厳しく取り締まられていたと小学校で学んでいましたが、女性だけの旅行は大変難しかったそうです。参詣や湯治の場合は、緩やかな方法で、関所を通過できたようです。
東京に出てきた父が買った家は、旧甲州街道沿いにあった家でした。なんの変哲もない、まだ舗装前の石ころも転がる道路でした。その道が、江戸期には主要街道であったことを知ってから、大名も侍も農夫も商人も、あの目の道を黙々と旅をしたことを想像すると、興味が尽きなかったのを思い出します。
この両の足で、どれほどの道を歩いて来たことでしょうか。だいぶ半月板もすり減ってきたようです。北原白秋が作詞し、山田耕作が作曲した童謡に、「この道」があります。
この道はいつか來た道
ああ さうだよ
あかしやの花が咲いてる
あの丘はいつか見た丘
ああ さうだよ
ほら 白い時計臺だよ
この道はいつか來た道
ああ さうだよ
お母さまと馬車で行つたよ
あの雲もいつか見た雲
ああ さうだよ
山査子の枝も垂れている
いつか来た道ですが、その道筋の景観は大きく変わったことでしょう。自分勝手に脇道も間道も歩いてきたのですが、引き返すことができました。しかしこれから歩み行く道は、「わたしが道」とイエスさまがおっしゃった道であって、永遠につながる正道、不変の道なのです。この道を行く者は、永遠のいのちを頂くことができるのです。間もなく走破することができるでしょうか。
『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14:16)』
(“ウイキペディア”の日本橋、ベイブリッジ、線路下を走る国道20号線です)
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