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子どもたちが集い、養われていた教会の信者さんの家庭や、付属の寄宿舎に入って、私たちの子どもたちは学校に通って、学ぶことがゆるされ、成長することができました。その西海岸にある街を訪ねた時に、その教会でお話しを、”3points Message“でさせていただいたのです。そのことを思い出しながらの今朝のブログの記事です。
私の二人の兄が通っていた小学校が、火事に見舞われて焼けてしまったことがありました。その焼け跡に、アメリカから寄贈された、ボール紙製の防水された缶が焼け跡にありました。そこには、"脱脂粉乳"が入っていて、手ですくっては、むせる様に食べたのです。それが"LARA"の贈り物でした。兄たちが、昼に弁当を食べる時に、いつも出されていた”ミルク”の材料でした。私も、兄たちを追って学校に入ってから、いつ頃まで続いたか覚えていませんが、弁当の時間には、いつも、その"ミルク"が供されて飲んでいました。
敗戦国・日本の「就学児童」の健康のために、アメリカの「篤志団体(在米日本人の働きかけで、教会が中心になっていたそうです)」が全国の小学校に贈ってくれた物だということが、だいぶ後になって分ったのです。
もちろんアメリカも、「植民地主義」で、あの"ハワイ王国"を支配下に置いてしまった様に、戦いに勝利し、占領国となった日本にも、虎視眈々と支配の手を伸ばしつつあったことは、歴史が証明しています。日本が、中国の東北部に「満州国」を建設しようとしていたのと同じようにでした。どの国も、そう言った強い野心があるのです。
しかし、そのアメリカの民間団体から占領国へ「優しい心」を向けた行為は、演技ではなく、その動機は「愛」でした。「日米時事通信社(日米タイムズ)」の編集長だった浅野七之助という、サンフランシスコ在住の日系アメリカ人が音頭をとった援助運動だったそう です。今、それを思い返して、自分の成長期の体が、そう言った「愛の物資」によって形作られたことが分って、感謝の念を覚えるのです。終戦直後の1946年に始まって、1952年まで続いた援助でした。
同じ様に「朝鮮戦争」後の韓国に対しても、同じ様な、食糧、衣料、医薬品などの援助が行われれていたと聞きます。私は、肺炎で死にかけたのですが、"ペニシリン"が投与されて生きる事ができました。これもまた、"LARA"のお陰でした。ですから、「鬼畜米英」ではない、祝福された面があるアメリカ社会には、感謝の思いが湧いてまいります。私たちも、「日本鬼子Ribenguizi」ではない反面を持っているのです。
成長期の自分は、父母が欠かす事なく食べさせてくれたのですが、病気が癒えた後は、いつも<食欲旺盛>でした。だから、あの焦げた《脱脂粉乳》のニオイと味は、"LARA"そのもので、今も鼻と舌が、その匂いと味を覚えているのです。そのことの感謝をお話しさせてもらいました。
そのお話の続きのニ点目です。中学の頃、アメリカ映画に魅了させられてしまったことを話させていただいたのです。西部劇映画が好きで、テキサスの大牧場の邸宅の庭で、一頭の子牛をバーベキューにしていた場面に、圧倒させられたのです。大牧場主、ベネディクト家でのパーティーでした。バンジョーが賑々しく奏でられていたでしょうか、多くの人が轟きのように話し合っていました。
そこに、美味しそうな、焼肉の匂いが、煙と共にしてきそうでした。今住んでいる家の隣に、大繁盛の焼肉店があって、窓を置けると、焼肉の匂いがしてくるのですが、まさにテキサスの邸宅の庭からの匂いを想像できそうです。あんなに、大声で話しながらモリモリと肉を食べる、アメリカならではの裕福な場面に圧倒させられ、「流涎(りゅうぜん)活動(ヨダレのことです)」が激しくて仕方ありませんでした。
ところで、子育て中の母は、街のお肉屋さんで、牛肉をミンチに挽いてもらって、それでハンバーグステーキを焼いて、食欲旺盛の四人の息子たちに、よく食べさせてくれました。手の平で、肉に、ミジン切り玉ねぎやパン粉に玉子を入れて混ぜて、塩と胡椒と醤油で味付けして、大きな小判のような形にして、油で焼いて作って、ソース味で食べさせてくれました。まさに、《アメリカ味》で、驚くほどに美味しかったのです。
それはともかく、そう言った様子を、隅から見ている、斜め被りのテンガロンハット姿のジェットという牧童が登場するのです。ヒネクレたような性格が、大スペクタルな画面の中で、対照的に登場していて感じられたのです。演じていたのが、ジェームス・デーンでした。翳(かげ)のある性格が興味深く感じられ、そして履いているジーンズが履きたくて、上野御徒町に行っては、古着を手に入れて、引っ張り上げながら長いGパンを履いていたのが十代中期の自分でした。
ジェットは、自分の土地を持っていて、石油が埋蔵されているその土地で掘削機を動かして、日を送っていました。ある日、その穴から、原油が噴き出すのです。彼は一躍、テキサスの「石油王」となります。歳を重ね、テキサスのホテルの大宴会場で、酩酊していた初老のジェットが、白いテーブルクロスのかかったテーブルの前で、話している最中に、倒れ込む、度肝を抜かれそうな、圧巻の場面もありました。
驚くほどの演技でした。ハリウッドのスター魂というのに圧倒されたのです。二十代初めの若い俳優の名演技でした。アメリカ映画のスケールの大きさ、realityに驚かされたのです。ホテルの地下にあった。酒の大きな貯蔵庫、酒蔵の中で、ジェットと牧場主ビックとの乱闘にも、驚かされたのです。
また、ビック夫妻と息子夫妻で、ドライブ中に入ったレストランの場面も印象的でした。席に座っていると、アメリカ原住民民の老夫妻が、そのレストランに入ってきたのです。すると、その店主が、保守的なテキサスでしたから、入店を拒否して、出ていくように人種差別をするのです。それを許せなかったビックが、そこでも店主と激しい殴り合いをします。力に勝る店主に殴り倒されたビックの勇気を、奥さんが慰めるのです。ビックの息子の嫁がメキシコ人であったことも、店主の振る舞いをビックが許せなかった暗黙の内に示されていたのです。
かつての大富豪と、それを凌ぐ石油採掘で石油王となった成金男との葛藤と格闘が描かれていて、牛の丸焼きやGパン以上に興味深く見た十代の自分でした。まだ、そのテキサス位荒やってきたアメリカ人宣教師さんとの母を通してに出会い以前の映画でした。
この後に、ジェームス・デーンが主演した「エデンの東」がありました。映画は、創世記のカインとアベルの物語を、第一次大戦下のカルフォルニアのサリナスという農村を舞台に、農場主の一家を、ジョン・スタインベックが描いた小説を映画化したものでした。
最初の人アダムに、二人の息子がいました。弟のアベルは、羊を飼う牧夫で、兄のカインは、土を耕す農夫で、畑で穀物や野菜などを栽培していました。ある日、神さまへの感謝を表すために、弟は羊の子を、兄は畑収穫物を、それぞれ持って、神に御前に出ます。神さまは、弟の捧げ物を、「目に留め」、兄からの物には、「目を止められなかった」のです。、先日、この映画を観たことのなかった家内が、観たいと言って、一緒にprime videoで観ました。
さて映画は、別れた妻に似た次男が、父が自分よりも兄を愛する父親に、拒まれても、その父の愛を執拗に求めていくキャルの心の葛藤、出来のよい兄の実際の心、母親を見つけたキャルに、強引に連れて行かれて健在の母の姿に衝撃を受ける顛末で、おヨーロッパの戦線に志願して行ってしまう兄。それで脳卒中に倒れて伏してしまう父の様子を描いていました。父親の愛を、キャルが獲得するのです。第一次大戦下のアメリカの農村が舞台ですが、自分たち四人の兄弟の父や母のことを考えさせてくれた映画でした。
その後に、彼は「理由なき反抗」で、十代の少年を演じたのです。アメリカで、いつでも、どこにでもある家族の中に起こりうる愛、和解、相克、葛藤、破壊、修復の話を、文化的にも心理的にも掘り下げていく現実、日常茶飯の描写なのでしょうか。
幼児教育を学び、多くの子どもたちの家庭の現実を見てきて、保母として働き、自分の四人の子どもたちの母親であった家内が、こう言っていました。『どんなに素晴らしい保育士も教師も、どんな背景で育ち養育放棄をするような親であっても、親は親であって、それに代わり得る人はいないの!』と言っていました。そんな繁栄の国の背後にある現実を知ったことに、感謝したのです。
第三の点です。
『私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。 私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。 私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。(2テモテ1章3~5節)』
私の二十代から三十代の8年の間、アメリカ人の宣教師さんの膝下で、聖書を学び、伝道者として生きていくための備えをしていただきました。この宣教師さんのビジョンは、パウロが、若いテモテを、福音の働き手となるように育てたように、私を育てたいと願われたのです。粗野で荒削りの私に忍耐した年月でもありました。
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このテモテは、聖書に登場する使徒パウロの忠実な弟子で、パウロが第二次宣教旅行をしていた時に、ルステラで出会っています。その街の教会で評判がよく、聖霊に促されて、パウロは宣教旅行の同労者として誘われるのです。テモテは、まだ20才ほどの若者でした。その彼の信仰ですが、お母さんのユニケ、お祖母さんのロイス譲りの信仰を受け継いだ、健全な「信仰の継承者」だったのです。
パウロがコリントにあった教会に書き送った手紙に、次のようにテモテについて触れた箇所があります。
『そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。(1コリント4:17)』
パウロは自分の子のように思い、忠実な信仰者として見ていたのです。両者には深い信頼関係があったわけです。それで、マケドニアやアカヤにあった教会に、おもに困難な状況下にあったエペソの教会などに働き人として、テモテを遣わしていたのです。子が親に仕えるように、彼がしていたからでした。
新約聖書の「テモテへの手紙第一」、「テモテへの手紙第二」は、パウロが若いテモテの奉仕を励まし、教会の指導者として、どうあるべきか、その聖書的な教えを示しています。
パウロのテモテに対する信任は篤く、「テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です」、「主のみわざに励んでいる」などと、まるで自分の子のように、手紙の中で、父親のように、愛を示し、その奉仕を高く評価しているにです。ピリピ人への手紙には、
「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいない」、「子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました」と言っているほどです。ところで、このように評価されたテモテその人の性格は、パウロが心配して「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく」と語っていますから、きっと彼は気が小さく、くよくよする性質だったのではないでしょうか。
また、彼の信仰が「純粋」であったとありますから、反面では悩むことも多かったのではないでしょうか。胃腸が弱かったというのも、性格から考えると何となく分かる気がします。少量の葡萄酒を摂るように勧めていますから、消化器官に弱さがあったのかも知れません。創建でない点では、私を導き教えてくださった宣教師さんも、胃潰瘍気味だったのです。それだけ、プレッシャーを感じる敏感な人だったかも知れません。
それで、宣教師さんは祈り、賛美し、よく断食をしながら、聖書を必死に学んで、細かく分析しておいでだったと思います。パウロは豪胆な人というよりは、繊細な学者肌の人だったかも知れません。同じように、この方が、「ローマ人への手紙」を深く学んで、チャートにした研究原稿を、残してくれたのです。CDもありますが、録音状態がよくなく、再生できませんが十分に学べるのです。
パウロは、宣教の助け手として、次の時代の宣教、教会形成を担っていけるように、テモテを選んで、宣教旅行に同行させ、育てたのです。このように気弱で臆病だったとも思えるテモテは、前述のようにパウロによって、「私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいない」と言われるほどの人物だったのです。
さらに不思議というより、考えさせられることは、パウロはこのテモテに特別な思いがあったようです。パウロが獄中という孤立的な状況の中で、「あなたに会って、喜びに満たされたい」、「早く私のところに来てください」、「何とかして、冬になる前に来てください」と記していますが、そこにはただ用事があるからと言うだけではなく、励まされたい、親しい交わりを切望していたようです。一見、強くて大胆そうなパウロですが、内気で気弱なテモテに共感する心が、赦された罪人の内にあったのではないでしょうか。
パウロが、福音に仕え、諸教会を、異教の世界に打ち建ていくという働きは、容易な業ではないことを、身をもって知っていたから、真の理解者を、身近に起きたかったに違いありません。私が仕えた、霊的な戦いの最前線で戦いをしておいでの宣教師さんのことを思い返しながら、その真の理解者、同労者でいて欲しかったのだろうと、今思うのです。
同時に、まだ若かった自分を、顧みて思いますと、足りなかった自分だったのです。伝道者として生きてきて、今になっての反省が、人の常なのでしょうか。外国人が、異教の地で宣教をするというのは、送り出し祈っていてくださる母教会や、生まれ育った地の親族と離れている孤独感、祈られていても、戦いは大変だったのだろうと思うのです。家内と二人で13年を過ごした地でのことを思い出しながら、自分を育ててくださったことに、今、新たな思いで、宣教師さんへの感謝が湧き上がってまいります。
『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言17:1)』
『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:23)』
育った自分の家庭環境、両親の現実が理想には程遠くても、創造主である神と出会うなら、だれも回復、修復、補填されるのだと、固く思っています。神さまに、《赦されること》か鍵です。もしかすると人生とは、《赦し赦されること》に尽きるのかも知れません。それが、家庭であり、教会なのでしょう。そのように、キリストの教会に関わり続け、家庭建設をしてきたことに感謝する今なのです。
(“Christian clip arts“のイラスト、「エデンの東」のジェームス・デーンです)
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