《アンダーパス》、NHKニュースで、線上降水帯の発生による集中豪雨で、車の走行の危険箇所を知らせ、水没しやすい箇所のつうか知らせるために、道路や鉄道線路と立体交差する、雨水の溜まりやす地下道を、そう言っているようです。大阪市の広報に、
『アンダーパスとは、交差する鉄道や道路などの下を通過するため、周辺の地面よりも低くなっている道路のことをいいます。地形的に雨水が集中しやすい構造となっています。』と、大阪市の広報に解説がありました。道路が大雨で冠水している可能性があるので、走行に十分に注意をするようにとの知らせなのです。
その英語表現が、分かる人には理解できても、疎い私には、聞き様によっては、under pass、under path、under passportなのか、どうも判断がつかず、どんな状態なのか、ニュースで聞いただけでは意味が分かりませんでした。その原稿を書く人は、音声で聞く人を思いながら、言葉選びをしなくてはならないのでしょう。意味調べで辞書を引いているうちに、水溜まりにはまってしまいそうです。
『道路に深い水溜まりができた箇所ができています。侵入しないように!』、『注意⚠️前方水没!』でしたら、分かるのではないでしょうか。この数年、カタカナ表記の英語が、NHKニュースでは、よく聞かれます。検索して意味を調べて、納得しますが、ニュース原稿に作成をされる方は、そういう視聴者の現実を知っておいでなのでしょうか。
英語の発音の上手なアナウンサー、キャスターと言うのでしょうか、時折、native speakerのような発音で語られる方がいますが、それならよいのですが、「カタカナ英語」は判断が難しいのです。
によりますと、
・path 発音記号・読み方 、pˈæθ(米国英語), pάːθ(英国英語)
・pass 発音記号・読み方 pˈæs(米国英語), pάːs(英国)
との発音なのです。台湾に出掛けて、新幹線に乗車と下車を繰り返して、台北から高雄まで、3、4ヶ所の都市の教会を訪ねて、お話をさせていただいたことがありました。通訳してくださる牧師さんや姉妹が、打ち合わせで、異口同音に言われたのが、『カタカナ英語を使わないで!』とお願いされたのです。それは日本語であって、英語ではないからです。英語を使うなら、英語発音をすれば、分かってもらえるのです。
アメリカ西海岸の教会で、証詞させて頂い時に、「アメリカと私」というテーマで、とくに3点を取り上げて、日本語でお話をしたのです。通訳をしてくださったのは、ご両親が日本で宣教されていた方で、その奉仕の間に育った方でしたから、日本語が堪能で、カタカナ英語でもしっかり通訳してくれました。
私の子どもの頃に、アメリカの在住のクリスチャンのみなさんが呼び掛けて、“LARA“と言う支援物資を送ってくださったことがありました。その主な物は、「脱脂粉乳(skim milk)」 で、それを沸かして、大きなヤカンで、教室に運ばれてきて、アルマイト製の器で飲んだのです。栄養価は高かったのですが、残念ながら、生の牛乳でないので美味しくなかったのです。
“ララ“は、License Agency for Relief in Asia(「アジア救済連 盟」)の頭文字で、第二次世界大戦後の日本は、衣・食・住の全てが欠乏していました。人々は食糧難での生活を強いられていました。焼け跡に、バラックを作って雨露をしのぎ、着た切り雀のように衣料も不十分でした。「米穀通帳」と言う町発行の通帳で、スズメの涙ほどの配給を受けていたり、後に、母に言われて、その通帳持参で、お米屋さんに買いに行ったのです。そんな毎日だったのです。
父の仕事が、戦時下での軍関係で、村長さん、農協役員、郵便局長さんと同じほどの村での立場だったので、戦中戦後のしばらくの間は、お米や野菜を農家から頂いて、糊口をしのいでいたのだそうです。都市部で、戦後を生活した家内の家は、お母さんの嫁入りで持ってきた着物を、農村に行って、芋や雑穀と交換していたと言っていました。当時の学校では、「欠食児童」がほとんどで、日本は一時期、栄養失調を経験したのです。
その窮状を救ったのが、この《ララ物資》だったのです。粉乳以外にが、1946年(昭和21年)11月、横浜港に待望の輸送第一船(ハワード・スタンズベリー号)が、ミルク、米の粉、バター、ジャム、缶詰を運んでくれ、衣類や医薬品もありました。
その《物資援助》を始められたのが、在米の浅野七之助氏で、「ララ物資の父」と言われています。盛岡市の出身で、サンフランシスコに住んで新聞記者をされておいででした。戦後、祖国の窮状を知って、日系人を中心に、日本に対しての救済運動を、全米に呼びかけて、展開されたのです。それは主に、クリスチャンたちの協力によった運動でした。
兄たちの通っていた、山奥の小学校に火事があって、焼け落ちてしまい、保管されていた脱脂粉乳缶も被害を受け、焼け跡でオコゲになっていました。それを火事場で手に取って舐めた記憶が、私にあります。確かに学童へのミルクは、大きな感謝があったのです。その感謝を、教会のStageからお話しさせて頂いたのです。
二つ目は、アメリカからやって来られれた宣教師さんたちが伝えてくださった福音宣教への感謝でした。自分の母は、カナダからおいでの宣教師さんとの出会いを通して、昭和初期にキリスト信仰を持ったこと。戦後、東京に出てから、アメリカからの宣教師さんの教会の一員になったこと。私の兄弟たちは全員、その母の教会で、バプテスマを受けたこと。また四人とも、その教会で結婚式を挙げたこと。さらに上の兄と自分は、そこで献身し、聖書やさまざまなことを学ばせて頂いたことなどを感謝したのです。
家内の母親も同じでした。当時住んでいた東京都下の街の駅頭で、「ヨハネ伝(ヨハネの福音書)」の分冊を、家内の上の姉が貰って帰って来て、それを手にして、義母が読んだのです。その巻頭には次のようにありました。
『1:1 太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。 1:2 この言は太初に神とともに在り、 1:3 萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。 お11:4 之に生命あり、この生命は人の光なりき。』
この「言(ことば)」を読んだ時、食糧事情が悪く、6人の子に食べさせるのに精一杯で、お母さんは食べたり食べなかったりで、ついに「肋膜炎(結核)」に罹ってしまいました。それで近くの結核病院に通院していたのです。そこに若い女子大生の病友がいて、主治医から『もう治らないし、そう長くは生きられないよ!』と言われたそうです。それを聞いた晩に、Shockだったのでしょう、亡くなってしまったことを知って、通院日に、そう言った医師に、強く叱るように抗議したのです。『医者の語るの言葉は、病人を生かしも殺しもするのだから、語る言葉にじゅうぶんに注意してください!』とです。
そんな悲しい出来事があって、「ことば」の重さを痛烈に感じていた時に、『太初に言があった!』と読んで、その冊子を配った宣教師を訪ねたのです。納得するまで質問をし、答えを得るまで執拗に通い続けたそうです。それで、「ことばなるイエス・キリスト」を知って、クリスチャンとなり、後に出会う私の母と同じ教会で、礼拝を守るようになっていました。不動の信仰者でした。
戦後、マカーサーの要請に応答して、来日されたアメリカ人宣教師に、日本語を教えたそうで、それには後日譚があります。『私はニンジンが好きでした!』教えたら、『私はニンゲンを生で食べます!』と、その宣教師さんが言ってしまったそうです。生ニンジンが好きだった方の笑い話です。
昨日は、両毛線の線路の高架下を、under pass して買い物に行きました。水溜まりにはなっていませで、自転車でもあったので無事でした。
(AIによる図解イラスト“Christian clip arts“の福音宣教者のパウロとシラスです)
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