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ずいぶん前に、三浦綾子原作の「海嶺」が映画化されて、映画館で観たことがありました。知多半島、小野浦の「宝順丸」が、大阪で米を積んで、江戸に運ぶ途中、遠州灘で、颯風(はやてかぜ)にあって遭難してしまいます。1832年(天保三年十月)のことでした。
宝順丸の船長の決断で、帆柱を切り捨ててしまう場面があり、そう決断せざるをえない状況が、とてもリアルに描かられていたのです。なぜなら、帆柱を失えば、船は航行不能になってしまうからです。案の定、宝順丸は東風に任せて、太平洋を漂流するのです。その間、壊血病で水夫は次々と亡くなっていき、岩吉、音吉、久吉の若者3人が生き残ります。
宝順丸は、1834年にアメリカ太平洋岸のワシントン州ケープ・アラバ付近にたどり着くのです。インディアンのマカ族に助けられた後、イギリス船がやって来て3人は救われます。コロンビア川をさかのぼった場所にある毛皮商人に助けられ、そこで3人は、英語とキリスト教に出会います。彼らは、ハワイを経てロンドンに至るのです。
3人はロンドンを見物したりしますが、けっきょくイギリス政府は日本との交渉に熱心ではなかったため、中国ののマカオへ送り出されてしまいます。すでに知多半島の小野浦の港を出てから、3年の月日が経っていました。
マカオは、外国人居留地だったのです。そこで、3人の世話をしてくれたのは、ドイツ人宣教師のカール・ギュツラフです。語学に自信のあるギュツラフは3人を相手にして聖書の翻訳に取りかかり、1年がかりで「ヨハネ伝福音書」や「ヨハネの手紙」の日本語訳、ギュツラフ訳聖書を完成し、出版したのです。
マカオで聖書翻訳に協力した3人は、日本に帰国するために、モリソン号で日本に着くのですが、外国船打払令で、江戸幕府も薩摩藩も大砲で脅して3人の帰国を許しませんでした。それで、音吉は、上海に行き、そこで、日本人の漂流民を助けるのです。
長男の嫁は、この知多半島の出身で、結婚披露宴の折に、ここを訪ねた折に、「三吉顕彰碑」に行ってみました。幕末の変動期とは違って、穏やかな海風が吹いていたのです。
そこでご馳走になった、伊勢湾の「海老」が、こんなに美味しいものかと驚かされるほどのもてなしをいただいたのです。音吉たちが、年配の船乗りたちが、次々と亡くなっていくのを見た若者たちは、何を感じたのでしょうか。雨水を集めては飲み、生魚をとっては食べて生き延びたのは、奇跡的だったのでしょう。
漁師や商人の船に、遠洋航海をさせないように、船舶の重量や船艇の深さに制限を加えたことの結果、夥しい数の船が難船したわけです。まさに鎖国政策の大きな問題であったわけです。沼津の人、山田長政が、遠洋に漕ぎ出して、シャムに渡って、アユタヤに日本人街を形成し、東南アジアで大活躍した、江戸初期との違いを知らされて、三吉は、どんなに残念だったことでしょうか。
三浦半島の出の父も、日本海軍の軍港で生まれ育って、海に出たかったのかも知れませんが、真反対の陸の奥、山に入って鉱脈を掘り起こした青年期を過ごしたようです。音吉は、望郷の思いを持ち続けて、1867(慶應3)年1月18日に、50歳で、シンガポールで亡くなっています。明治開化の前年のことでした。
(“ウイキペディア”による千石船、ギュツラフ訳聖書です)
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