騒音か賛美か、セミの声

.

.
 うるさいなお昼寝中のセミの声

 『蝉の声がしない!』、そんなことをよく聞くようになってしまった今日日、耳をすませるのですが、やはり聞こえてきません。どうしたことなのでしょうか。暑さの中、その暑さをいやましに感じさせる「蝉時雨」が、耳の底に残っていて、思い出させられます。小学校にプールができる前、川に行ってよく泳いだのです。その帰りに、アイスボンボンを買ってはなめながら、泳ぎ疲れての帰り道のお寺の近くで、声高にセミが鳴いていたのです。

 セミ捕りに出かけて、逃がしたセミがオシッコをして逃げて行き、その飛沫(しぶき)を被ったことが何度かありました。木造家屋が多かったり、道路も舗装される前には、いえ木々が多くあったので、セミにも住みやすかった時代だったに違いありません。

 弟の今住んでいる辺りに、けっこう大きな木があって、その幹や道路区分の鉄やコンクリートの仕切りに、セミの抜け殻、空蝉(うつせみ)と言うそうですが、それが多く残されていて、まだ幼かった甥っ子の息子に連れられて見に行ったことがありました。その多さに驚いたことがあったのです

 その木の樹皮の中で、セミが孵化するのだそうです。するとセミの幼虫は地中で樹木の根っこから、栄養分を吸って成長と、3年から10年もの長い間地中で過ごして、やっと蛹(さなぎ)となります。そして地表に出て成虫となって、飛び立つのです。飛び回る日時に比べて、成長までの時間の長さに、改めて驚かされてしまいます。

 そこは、戦後に、大きな公団住宅が、首都圏の近郊のあちらこちらに建てられた用地、皇室の御料馬場の跡地で、大きな木が多くあって、伐採されずに残された地なのです。子どもの頃に、父の家からの畑道を歩いて遊びに行った辺りでした。山の中で自分が生まれた頃に、生まれていたセミに、オジッコを見舞われたことになりそうです。

 閑さや岩にしみ入る蝉の声

 夏場に、奥州路の出羽国を旅した芭蕉が、尾花沢で、住民のお弟子さんからの勧めで、立石寺に出掛けて詠んだ名句です。この地は、最上川で名産の紅花を、舟運で坂田まで運び、北前船で京・大阪に運び出して有名です。その寺を開山したのは、下野国壬生に生まれた円仁でした。その生誕地の近くに、獨協医科大学の附属の大きな病院があります。深山の古寺の静けさと、蝉の声のうるささとを両方感じ、その「静けさ」を、「閑けさ」と記した芭蕉の感性にも驚かされます。

 この春に、次男夫婦が山形の地を訪れて、山形城の堀などに咲く桜を撮った写真を送ってくれました。美しい城跡が公園になっていたそうです。ついぞ知らない奥州路ですが、芭蕉が抱いた強い印象が共鳴してでしょうか、もし芭蕉か同行の曾良の手にカメラがあったら、同じように、その佇まいを映し撮ったことでしょう。またスマホがあったら、その蝉の鳴き声も録音していたかも知れません。

 今住む街にも、いくつもの公園があり、わが家の近くのうずま公園にも、メタセコイヤや樫の木などの大木があって、木陰が涼しいのですが、ジリジリジリ、ミーンミンミーン、チイチイチイ、カナカナカナの声が、8回目の夏になっても聞こえてこないのです。もしかしたら、人間の嬌声や蛮声や罵声や怒号や奇声が、騒々しく響く時代の只中にいますから、聞こえてこないのかも知れません。いや矢張り、蝉が少なくなってしまったのでしょう。

 それでも大相撲や高校野球などのスポーツの歓声や応援歌、コンサートホールの演奏会のブラーボーの掛け声や拍手、演劇や歌謡ショウの俳優や歌手への掛け声は、鬱憤を晴らすのでしょうか、声高に聞こえてきそうです。そう言えば、セミと同じように、嬉々として遊んでいる子どもの声も聞こえなくなっていないでしょうか。

.
.

 聖書の中には、多くの声があり、詩歌や賛美があります。

『私は、あなたのすべての誉れを語り告げるために、シオンの娘の門で、あなたの救いに歓声をあげましょう。(詩篇9:14)』

『昔から、いと高き天に乗っておられる方に向かい、ほめ歌を歌え。聞け。神は御声を発せられる。力強い声を。(詩篇68:33)』

『喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。主の右の手は力ある働きをする。(詩篇118:15)』

『また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。(黙示録19:5〜6)』

それ故に、私たち贖われ、罪赦された者は、次のように声を発し、上げ、叫ぶのです。感謝をもって、喜び叫ぶのです。

『感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。(詩篇95:2)』

 今日日、賛美の声を上げなくなってしまいました。セミの声と同じようにです。雑音や騒音が多くて、かき消されているからかも知れません。それでも、半世紀も前に、母教会を訪ねて来たアメリカ人の伝道者の方が、紹介してくださった賛美コーラスが、心の中から、唇から、その賛美の歌詞が湧き上がってくるのです。この週末、次男がやって来て、来るたびに、ウクレレを手に賛美するのです。すると家内が、それに合わせて賛美し、わが家を満たしていました。

『正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直き者にふさわしい。(詩篇33:1)』

(“いらすとくん”の蝉の抜け殻、“Christian clip arts“ の賛美です)

.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください