過去を知り、明日を拓く

.
.

 中学生の頃だったでしょうか、父が一冊の写真集を買って来たとがありました。広島に原爆投下された後に、撮影された生々しい写真が表表紙から裏表紙まで、今のように加工できない時代の、ありのままの被爆後の広島の街の様子が映し出されてありました。

 その悲惨でむごい様子に、目を逸らすほどで、息を呑んだのです。長崎の被害状況も同じだったのでしょう。それは、戦争末期に、アメリカ軍の空襲で、日本の多くに街に焼夷弾落とされて、焼け野原になっていった、最後の巨大爆弾の投下によるものでした。

 両親と二人の兄と私は、戦時下の父の任務が、中部山岳の地にあった、軍需工場の責任者を拝命し、防弾ガラスに原石である石英に採掘に従事していました。陸軍の連隊のあった麓の街も、米機による空襲にあって、市街地が焼けてしまったのですが、父の作業場は、空襲目標地ではなく、無傷でした。ふもとの街の空が真っ赤になっていた様子を、5歳だった上の兄は覚えていると言っていました。

 生後七ヶ月でした。その時の様子を、学校で学んだ覚えがありませんが、父は、歴史の事実を知るようにと、原爆投下後の広島の街の惨状を、写真集を買って、見るようにしてくれたのです。確かに、息を飲んで見たのです。

 今日、8月15日は、81回目の終戦記念日でした。戦没者のための行事が例年行われて来て、今年も日本武道館に行われたとニュースが伝えていました。暑く大雨に見舞われている今夏でも、あの写真の悲惨さは忘れることができないのですから、被曝された当事者のみなさんは、鮮明な体験をお持ちなのだと思います。

 広島では56万もの人が被爆し、長崎でも20万人もの被爆者があったのです。亡くなられた方は、今なお増え続けています。第二次世界戦での日本の戦没者は、310万人だと報告されています。毎年繰り返される式典ですが、被害状況は知らされるのですが、父が掘った鉱石を原料にした防弾ガラスを搭載した爆撃機で、私が、13年過ごした天津と華南の街には、日本軍支配の歴史や爆撃の記録が、大きな記念館のなかに、また、大きな河川の堤防に、石板に刻まれて 掲出されていたのです。

 

 

 30年ほど前、中国からの留学生と、住んでいた街で出会いました。国立大学の工学部の大学院で研究をしていた方です。当時、彼女が言った言葉が忘れられないで、今も思い出されます。この方は、広島の原爆記念館を見学して帰って来られた頃のことでした。

 『どうして日本は、被害者の記念館を作るだけで、加害者としての記念館を作らないのでしょうか。それは片手落ちではないんでしょうか!』と、厳しい口調でおっしゃっていました。軍靴で踏み荒された故国の歴史を思い返して、正直な応答でした。私は、『そうですね。』と、ただ認めるだけでした。加害者として、戦時下に、アジアや太平洋諸島で、軍人や民間人を含めて、な亡くなられた方の総数は、1000〜2000万人、それ以上に上ると言われています。

 この八月がくると、その女子留学生の言葉が、重く思い出されるのです。歴史学習が、歴史の中の事実の学びが、日本では足りないのではないでしょうか。歴史の中で起こった真実、事実を学んでないと、事実が曖昧にされて、次の世代に、正しく継承されないままなのです。

 東京大学の一年生の庭田杏珠さん(広島女学院出身)が、「AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦後(光文社新書)」を、東大大学院情報学環教授の渡邉英徳さんと共同で、6年ほど前に刊行されました。

 「記憶の解凍」の活動を通して、「平和教育の教育空間」について研究されてたのです。この本は、戦前戦後に撮られた白黒写真を、カラー化することによって、色彩を持った過去の事実を表現する努力をされています。付け加えているのは、感情ではなく、色彩だけです。写真を眺めていると、過去の現実が、いま蘇っているかの様に感じられるのです。

.

 過去をありのままに、いえ、より現実化させて、わが生後七ヶ月の時の前後の事実を、思いっきり知らされる様で、素晴らしい写真集です。その中に、戦後の「青空教室」の写真があって、全てのものを失っても、教科書を喰い入る様に見ている向学心の旺盛さに、戦後復興の第一歩が、この小学生たちから始められたのを感じたのです。未来に自分たちの夢や理想や幻を解き放そうとしたのでしょう。

 でも過去の加害者としての歴史的な事実は、伝えられる必要があるのです。華南の街で出会った高齢のご婦人は、子どもの頃、上海の北の方の村で、日本軍が焼き討ちで放った火で、火傷を負われておいででした。懇願して、見せていただいた左腕に、ケロイド状の火傷がありました。彼女のお孫さんが、日本のアニメが大好きで、わが家に週一で訪ねて、それで知り合った方なのです。家内を歓迎して、その腕でハグしてくれるほど、過去の出来事を赦しておいででした。

 その華南の街には、日本軍の爆撃機が投下した爆弾で、四十人近い人が亡くなっていたと記録されていました。また、海から上陸した日本軍が、井戸に毒を投げ込んだりしたとも言っておいででした。

 もちろん過去は忘れてはなりません。ただ感情的に修飾された過去はいけません。事実と真実を学ぶのです。それは、輝ける明日、未来に向かって思いを向けて行くためにです。来週、一緒に礼拝を守って、今は上海の近くの大学で法律を教えている姉妹が、家内の見舞いに来てくださると言っておいでです。

(“いらすとや”のイラストです)

.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください