「今もあるのでしょうか、新宿駅の線路下に、西口と東口を結ぶ地下通路がありました。「きれいな日本」とは恐れながらも言えなかった当時、まだ公衆トイレもわずかしかありませんでした。そこには、オシッコ臭が立ち込めていたのです。両親と死に別れた「戦災孤児」が何人もいたのです。われわれ兄弟には、二親がいても、彼らには、戦争が父親と母親を奪い取っていたのです。
そればかりではなく、米兵の子を産み落とし占領地ニッポンに、母親にも捨てられた子どもたたちを街中で見たりしました。あの戦争の落とし子たちを、沢田美喜という方が、大磯で「エリザベス・サンダース・ホーム」で、お世話しておいででした。
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お父さんの遺品の軍帽をかぶって、九州の町で、チャンバラごっこをして少年期を過ごしたことを、話してくれた級友がいました。彼のお父さんは、中国の各地を転戦した職業軍人でした。敗戦と同時に、蒋介石率いる「国民軍」に参加して、中国大陸で戦死するのです。彼には、高名な軍人の叔父さんがいて、何よりも、お国のために戦い、死んでいった父親への誇りがありました。
また父性の見えなかった級友がいました。いつも担任に怒られていました。父性をタップリ味わっていた自分と、この二人がいつも担任の怒叱られ役でした。終礼をスッポかしてきょうしつにもどると、『準、オジイが、すごい勢いでおこっていたぞ!』と言うので、職員室に謝りに行くと、『おお、準来たか!』と笑って迎えてくれ、なんだか世間話をして終わるのが常でした。要領の悪い彼だけが怒られていたのです。
こうこの頃は、よく遊びに行ったこの悪友の家に、40過ぎだったでしょうか、泊めてもらったことがありました。もう家は、彼が立派に建て直していました。その泊まった室の壁に、軍帽軍服の凛々しい青年将校の写真が掲げてあったのです。彼もお父さんを、戦争で亡くして、母親の手で大きくなっていました。
それでも、写真に写った父親の面影しか知らないで、母や親族に父を聞かされただけで、父親に抱かれた実感を持たない、二人の同級生だったのを記憶しています。戦争は、彼らから父親を奪い去ったことになりますし、彼らの子どもたちからお爺ちゃんを取り去ったことになります。二人とも、重役職についていました。
私の父は、戦争中に、軍需工場の工場長をしていました。零戦の戦闘機の部品の生産にかかわる仕事をしていたのです。父のアルバムに、日の丸で鉢巻し、従業員と一緒に、報国、戦勝祈願をした記念集合写真を見付けえて見たことがありました。ですから、私は、陸軍が父に支払った俸給で買った食料で生きていた母の母乳や、購入したミルクや離乳食や衣服で育てられていたことになります。
それででしょうか、私は戦後に育った子であるのに、軍国少年魂を、亡霊のように内に宿して、予科練に憧れていたのです。『若い血潮の予科練は・・・』と、七つボタンで身を包んでいるような錯覚に陥った私は、お酒を飲んでは、そう高吟するのが好きでした。
そんな私を見て、『予科練ではなく海軍予備学生に憧れなさい!』と母に言われたことがありました。母には、広島・江田島にあった海軍兵学校に通い、戦死した幼馴染がいたのです。その彼の海軍予備学生の写真を、母の写真帳に見付けたこともありました。母は山陰で、伝道していたカナダ人宣教師の教会学校で、クリスチャンとなっています。そんな母が結婚したのも、横須賀の海軍一家の青年だったのです。父のことですが。
そんな背景の私は、戦後の無条件降伏で、占領下に平和を与えられ、救援物資で養ってくれたアメリカなのに、まだ敵国だと思っていました。でも宣教師のみなさんは、、『こんな非道なことをする日本人が変えられるのは、福音以外にはない!』、そう一念発起して、アメリカの教会から遣わされて、日本のあちらこちらで伝道し、幾つもの教会を生み出していきました。母は、その教会に導かれたのです。
結局、私たち4人の兄弟は、その教会で信仰を持ち、バプテスマを受けました。そして上の兄と私は、その教会で献身させていただきました。そして私は、アメリカ人宣教師から聖書の読み方や学び方を学び、さらには家庭の建設や、子供の育て方まで教わるはめになるのです。軍国少年が、アメリカ空軍の元パイロットと至近の距離にいて、8年間共に働き、聖書を学んだのですから、彼の忍耐がどれほどだったか想像に難くありません。
イエスさまは、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣によって滅びます(マタイ26・52)」とおっしゃいました。私は、自分の腰にではなく、心の中に吊り下げていた剣を捨てる必要があったのです。生まれながらに受け継ぎ、自ら好んで求めた「軍国主義の霊」とか「軍国少年魂」と言うものがあるのでしょうね。
そういった亡霊や精神を取り扱い除くのは、一筋なわでは行かないなことだったようです。今は、平和を希求する者に変えられ、すでに天のふるさとにお帰りになられた宣教師さんに心からの感謝を覚える、真夏です。
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真珠湾攻撃の攻撃隊長であった、淵田美津雄さんという方が、戦後、クリスチャンになられて、伝道者の道を歩まれておいででした。アメリカに行かれて、いくつもの教会で福音を語られたのです。東京の中野にあった「天門教会」で、この方のお話を聞いたことがあります。父よりも上の世代の方でした。軍人が、柔和な表情の伝道者になっておられたのですから、喧嘩に明け暮れ、心のすさんでいた軍国少年だって、「天国の使いっぱしり」にはなれるんだ、と思はされた出会いでありました。
隣国の街の学校で、日本語を担当していた時期に、新幹線の車輌の設計に携わった、三木忠直氏のことを話ししたことがありました。戦時下で、多くの若者の操縦で米軍の戦艦に突撃をした「桜花」を設計した方でした。戦後、平和に役立つことのために生きようと、旧国鉄で、「東海道新幹線」の車輌の設計をした方です。旧軍人が、平和を願って生き直したことを、中国の学生さんに伝えたかったからでした。
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三木忠直氏は、戦後クリスチャンになり、晩年になっても、鎌倉の教会で礼拝を守り、讃美歌を歌い、聖書の話に耳を向けたのです。同世代の私の父も、「主われを愛す」を口ずさみ、子どもの頃に、軍港の街、横須賀の教会で、歌った讃美歌を歌う人になりました。軍需工場で軍属として働き、召される少し前に、上の兄に導かれて、信仰告白をしています。それぞれの戦前戦後を、「戦争」を「平和」に変えて、昭和の後半を生きたのです。彼らの人生に、大きな祝福への転機があったのです。
先週、その新幹線に、久し振りに乗車しました。ずいぶん乗らないまま過ごして、これらのことを思い出したのです。父と同世代、父は、戦時下で重い鉱石を掘りましたが、戦後は、旧国鉄の車両に、新幹線にもだったのでしょうか、車体に装着する制動機の部品を扱ったのです。一生懸命働いて、私たちを養い育っててくれました。
父は、上の兄に満州の「満」を名前につけましたが、戦後は「円満」に生きるように願い、下の兄には大和健児の「健」を、戦後は「健康」に変えて生きるように願いました。戦後に生まれた弟には、黒鉄(くろがね)の「鉄」で、平和の時代を強く生きるように願って命名したのです。
(“ウイキペディア”の新宿御苑、エリザベス・サンダース・ホーム、Pearl Harbor、新幹線です)
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