『「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。(新改訳聖書 ヨハネの黙示録22章12~14節)』
2025年1月元旦、素晴らしい年の始まりです。何が素晴らしいのかと言いますと、『主は素晴らしい!』のです。人の幸せを願われるお方が、好いことをしてくださるからです。まどろむこともなく、眠ることなく、この365日の一日一日を生きる私たちを、見守り続けてくださるのです。
間もなく陽が昇ってきます。その光と温もりは、全地を照らしてくれます。地に雨も与えてくださり、食べ物を養い育ててくださりるのです。間もなく春が来て、花を咲かせ、灼熱の夏が続き、実りの秋が来て、休息の冬が、めぐりめぐって到来します。
嵐の吹く日も、病む日もあることでしょう。全地を統べおさめておられる主から、どんなことも受け取り、どんなことも楽しみ喜ばせてくださるのです。主がなされる「新しいこと」に、期待も膨らんでいます。間もなく迎えに来てくださる主にあって、いつも喜び、絶えず祈り、全てを感謝して、新しい日を迎えようと願っています。
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コメント失礼いたします。
以前の記事で,子どものスパンクについての投稿を読み,とても慰められました。
わたしは夫と娘たちと教会に通っていて,2人の娘はホームスクーリングをしています。そして教会でも,本当に必要なときに限ってスパンクを行うことが励まされています。絶対に落ち着いて行うこと,おしり以外には行わないこと,何をしたらスパンクになるか,子供がよく理解していること,事前に回数を伝えてそれ以上はしないこと,などを具体的に教えられています。夫とよく話し合い,娘たちにもよく説明しつつ,その通りにしています。
娘は10才と8才で,かなり稀ですが,本当に必要なときのみ,スパンクします。おしりを5回,むちで打ち、抱きしめて終わりです。もちろん泣きますが,娘たちが従順で素直で明るいのは,じゅうぶんに抑制されたスパンクによって,親の基準がはっきりしているからだと思っています。
ですが最近,同じ教会に通う仲間から,スパンクをすることについて厳しく非難されてしまいました。その方は,エホバの証人の報道のことにふれ,スパンクは虐待だとおっしゃいました。特に,下着を下ろさせておしりをじかに打つことと,むちというツールを使うことを,ありえないと批判されました。
私たちは,夫婦でよく話し合って決めていることなので,揺らぐわけではないものの,おかしなことをしているのだろうか,とわずかに思ったのも事実です。
投稿者さまはどう思われるでしょうか。こうした聖書にのっとったしつけは時代遅れで,残酷だと思われますか。おしりを出させたり,むちを使ったりするのは異常でしょうか。よかったら,忌憚のないご意見をお聞かせください。