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『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言17章1節)』
人生の目標も、信仰者としてもゴールも、”successful “ だという、指標を掲げた教会で、救いに導かれて、育てられ、やがて献身して、伝道者としての訓練と教育を受けて、宣教師さんの建て上げられ教会に、牧師として招請された方がおいででした。
そこは大きな都会ではなく、地方都市にあった教会でした。2年ほど続けてお招きくださって、教会の特別集会でお話をさせていただいたことがありました。その最初の年の最初の集いで、この箴言のみことばを読んで、お話をしたのです。
実は、家内と私の子育ては、子どもたちの級友たちと比べると、だいぶ厳しかったようです。それでも、かつてあったスパルタ式でも軍隊式ではありませんでした。私を育て上げてくださった宣教師さんは、二人の男のお子さんに、しなやかな鞭を振るって育てておいででした。彼が、そうした根拠は、聖書にあったのです。
『むち(鞭)と叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。(箴言29章15節)』
長男が産まれて大きくなっていき、物心がついて、2歳ほどになっていた時に、長男が反抗的なことを言って、短気を起こしたことがありました。それを見ていた宣教師さんが、『コウキ、今、ヤコブをスパンク(spank、お仕置きとして尻をむちで打つことです)する時です!』と言って、その行為と態度と思いをを、見逃さないで、規律する様にと言ったのです。
それで、彼と二人の部屋で、彼のお尻にベルトを使ってスパンクしたのです。もちろん、なぜスパンクするかの理由を言い聞かせてでした。そしてそれが終わると、彼を抱いて、話し合って、痛みによって、いけないことを教えたのです。今でしたら、児童虐待で、その光景を見たら、警察に通報されるかも知れません。そうやって、四人の子供を育てたのです。
不従順と短気、他者を顧みられる人間になって欲しかったのです。そんな風に子育をしてきました。その根拠となったのが、初めの箴言のことばだったのです。ユダヤの社会では、乾いているパンは、スープに浸して食べるのだそうで、そのスープさえもない家庭の方が、ご馳走を食べて争いをする家庭よりもよいのです。肥えた牛肉や野菜のスープの並んだ食卓で育っても、家族の中に争いが絶えない方よりも、はるかに幸せなのだというお話なのです。
それを聞いて、牧師さんが驚かれて、そんな箴言のみことばからの説教を聞いたことがなかったと言われたのです。それで、翌年もお招きいただき、その後では、そんなことを話す私を育てた、クリスチャンの母の話も聞かせていただきたいと、その教会の「婦人集会」に、母が招かれて、私も一緒に集ったのです。
さて、ダビデの食卓には、親友ヨナタンの遺児、メフィボシェテが着いていました。敵の攻撃から逃れる時に、抱いていたこの子を、乳母が落としてしまったことで、足が不自由な子だったのです。王の食卓に、足の不自由な子を着かせたのがダビデでした。これもまた弱い者への憐みの心を、ダビデの子たちに学ばせるための配慮だったのでしょう。
私の家には、両親を亡くした姉と弟がいた時期がありました。家族愛を知らないで、施設で育ったのです。少年鑑別所にいた弟を引き受けて、その姉も受け入れて、生活を共にしたのです。また自殺をしかけて、教会にやって来た若い女性や、高校で問題を起こした男の子を、家に迎えたりもして、いつも10人近い人がいたでしょうか。
豊かではなかったのですが、子どもたちが弱い立場の人へのいたわりを学ぶ機会になったでしょうか。そんな私たちの子どもたちが、今や五十代になりつつあります。私の入院、手術、退院を機に、この暮の押し迫った時に、長男家族、次女家族、次男夫婦がやって来て、孫娘二人と私の誕生会と退院祝いの会を開いてくれたのです。あんなに賑やかで、楽しい時はありませんでした。長女は、主人の怪我後のリハビリで、そこに加われませんでしたが、FaceTimeで参加して、それは楽しいひと時でした。
『塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」(マルコ9章50節)』
四人の子どもたちは、スパンクされたことを恨んでいないようです。私が心掛けたのは、「一切れの乾いたパンでも和合している家庭建設」でした。豊かでも貧乏でもありませんでしたが、ほどほどの家庭ができたのではないかと自負しております。そして今や、子どもたちの家庭が、子育ての晩期を迎えています。
優しい、他者を顧みられる子どもに育っているのでしょうか。この孫たちと同じ世代の頃に、われわれ世代は、アメリカ製の〈ナナハン(750cc/ HARLEY-DAVIDSON〉、国産の〈メグロ(650cc)〉や〈陸王〉などのバイクに憧れていた時代でした。でも、とても乗れる立場ではなく、諦めてしまいました。
結婚し、家族が増え、車が必要になった時には、高級車種の〈トヨタクラウン(今ならレクサスになるでしょうか)〉を手に入れたかったのです。また、山麓にある別荘のような家に住んで、この車に乗り、歩く時には、〈REGAL〉の靴を履きたいなと思ったものです。
ところが、主は、『あなたは、高校生が乗り古したバイクで、免許証をとりに教習所に通い、中古車センターに並んでいる日産サニーで十分です。靴も、靴センターの特売品が似合い、借家住まいでいいのです!』と仰りたかったのでしょう、まさに、その通りになりました。今は、自動車事故の代替の中古折り畳み自転車を、ハアハアと喘ぎながら、健康管理と言いながら跨いでいます。
豊かではなくとも、心豊かにされている子どもたちが4人いて、彼らの四つの家族と、2024年の年末のひと時を、共に過ごせたのは、何にもまさって嬉しいことでした。夕刻にlは、長男家族、次男夫婦が帰って行き、2週間ほど滞在してくれた次女家族も帰って行きました。また二人だけになりましたが、二親の今後を、色々と配慮をしてくれているのです。
自動二輪免許しか持たないでいた次男は、合宿で普通運転免許証を取得できる教習所で、二週間で免許証を取得して、東京からレンタカーで、奥方と同伴でやって来てくれました。今回の手術の三ヶ月前に、老いた父親が救急搬送されたのを機に、すぐに駆け付けられるようにと、一念発起して取得した、その免許証で運転し、駆け付けてくれたのです。
狭い家が、賑やかだったのが、みんな帰って行き、広々としてしまいました。きっと、自分たちの両親も、同じ様な思いで、老いを迎えていたのでしょうか。4人の子持ちは珍らしかったですし、母親は大変だったのでしょうけど、今になると、家族が一緒だったことが楽しかったのを思い出します。
私たちも四人の子がいた家庭でした。そこで育った子どもたちが、『心配しないでね!』と言って帰って行きました。感謝なことに、この地の近所のみなさんと、良い交わりが、私たち二親にあるのは、大きな助けであり、感謝なのです。
何をさておき、感謝なことは、子どもたちや孫たちが、信仰を継承してくれていることです。
( “ Christianclip srts ” のイラストです)
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