ラムレーズンが食べたい

.

.

『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(新改訳聖書 pp2コリント5章17節)』

 過去を教訓にして、今を生きるのは大切なことです。でも過去の縄目に縛られ過ぎて、今のことを考えたり、これからのことに思いを向けていかないと、今が勿体無いのではないでしょうか。

 「戦後80年」、「ジャンボ機墜落40年」などのニュースを聞いて、歴史に学び、二度とないのを願うのは大切ですが、過去から立ち上がって、今を思い、やがてくる将来に向けて、希望を繋いでいくことの方がいいのだと、パウロは言ってるいるのでしょう。

 最近、自分の思考が、過去にばかりに偏っているなと思い、その傾向が強いので、その轍(わだち)から抜け出さないといけないのを痛切に感じています。きっと歳を重ねて、これからの時の短さに、振り返ってばかりいるのでしょう。

 親鸞が残した言葉を、高校生だった上の兄が教えてくれたことがありました。   

明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かむものかは

 過去ではなく、明日のことを考えてばかりだと、どの様な期待も、嵐に咲きさらされた桜の花びらが、舞い落ちて、飛び散って行くように、夢も希望も去って行くのだと言ったのです。その高僧の言葉に、明日への希望を削がれたように感じた、中学生の私は、ゾクッとしたのを思い出します。夢を明日に繋いで生きていかなければならない少年の私に、そう教訓を授けたわけです。

 私たちが培って来た考え、思考って、どうも、こうも「諦念(ていねん)」に裏打ちされてきたのでしょうか。ところが預言者エレミヤは、次のように言います。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ9章11節)』

 災いや病気や老いで、健康な頃にばかり思いを向けている私に、将来に光があると言っているのでしょう。その光の中に、平安や、将来や、希望があると言うのです。万物の創造者で統治者で、私の神さまは、過去の禍や、苦難、病気や失敗にばかりの囚われてるいる私に、輝く将来のあることを言ってくださっているのは、なんと感謝ではないでしょうか。

.
.

 今だからこそ思いを転換して、これからの日々に起こることに集中せよとおっしゃっておられるのでしょう。昨日、3ヶ月ぶりの診察で、大学病院に行ってきました。主治医との話し合いで、『もう一度、カテーテ・アブレーションをする可能性があるので、これを考えていったらどうでしょうか?』と勧められ、11月の再診で、どうするかの結論をしたいと言っておきました。

 今の自分の世代の年齢の余命時間を調べますと、3〜5年ほど残されていそうです。病院から帰って来て、『どうしよう?』、『もう3年ほど生きられるかな?』と家内に言いましたら、『主にお任せ!』って言っていました。いのちの付与者で、その年数を定めるのは、その人の意思や願いではなく、主が、70か80年と言われた寿命であって、主に生かされて生きてるのだ、と言う根拠での「お任せ」なのでしょうか。

 孫たちの結婚式に出たいし、ひ孫も抱いてみたいのです。ガリラヤ湖も、ハイデルベルクも、瀋陽(旧奉天)も、アラスカも行ってみたいのです。でも、やがてやってくる、新しいエルサレムに住めるからいいかとも思うのです。でも、今日を、喜びと感謝とで生きねばなりません。今日に責任を持つことですね。それでも、『ラムレーズンのアイスが食べたい!』と思っている、散歩帰りの私なのです。

(“いらしとや”の「ラムレーズンアイス」、“看護roo”の「点滴の看護師さん」です)

.