リスペクトと信ずることを

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 「リスペクト(respect)」、尊敬、敬意、尊重という意味で、英語の中で最も好きなことばなのです。感謝も謙りも学ぶべき態度なのでしょう。

『兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。(ローマ12:10)』

『すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。 しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。(1ペテロ2:17~18)』

 12歳の中学一年生に、15センチほど高い教壇の上、教卓の向こう側からではなく、そこを降りて、私たちの立つ床の高さに、共に立たれて、静かに見回して頭を下げて、挨拶を欠かさなかったのは、「年若い学徒」への担任教師の私たちへのリスペクトだったのでしょう。その学校で、ただ一人、東京大学を卒業されて、学徒で戦争に行き、無事帰って来て、学校に奉職し、そういった姿勢で教壇に立たれておいでだったのです。

 陽に焼けた背広を、いつも着ていました。父が着ていた仕立て服とは違っていました。何人かの同級生で、吉祥寺にあったお宅にお邪魔したことがありました。お子さんがお二人いて、ちゃぶ台の代わりに、リンゴ箱の上に、奥さまの出してくれた茶碗とお茶と駄菓子がありました。先生と奥さまは悪びれずに迎え、接待してくれたのです。

 その先生の家は、お兄さまの家の2階でした。1950年代の中頃、戦後復興がやっと軌道にのろうとしていた時期、私立の中高の教師は、そんな生活状況だったのです。中3年の卒業式の前に、この先生は、『よく立ち直ったね!』と言ってくれました。まさか、手を焼かした生徒が、やがて高校の教師や伝道者になるとは、思いもしなかったのでしょう。長男を連れて、先生に挨拶に行った時に、『君もお母さんと同じ信仰の道を行くんだね!』と感慨深く言ってくれました。

 その時、中学生の息子を連れて、母校に挨拶に行ったのです。息子を見て、『君はお父さんと違って、大丈夫そうだね!』と、余計なことまで言われてしまいました。大丈夫でなかった教え子の子に、そう言い得た教師でした。

『また、だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい。(テトス3:2)』

 また、態度の良くない若者を、忍耐して、主の僕、弟子に育ててくださった宣教師のみなさんに、今も感謝を忘れないでおります。母の牧師さんだったみなさんです。母ばかりではなく、家内も家内の両親も兄弟姉妹の魂のお世話をしてくださった方々なのです。このみなさんは、日本の教会の慣例に倣って、ご自分を「先生(Reverend)」とは呼ばれようとはされませんでした。

 同じ兄弟、年嵩(かさ)の上の人であるだけで、主にある「兄弟姉妹」のように接してくださったのです。” Mister“のジャックさん、“ Mistress “ のベティーさんで、宣教師さんでも牧師さんでも、その夫人でも「さん」で、姓名ではなく名で呼んだのです。その精神は、私の中学の担任と同じで、信者さんたちへの”respect“があったのです。

 魔法用語の「先生」は、『先生と呼ばれるほどの◯◯でなし!』と言われて、そう言われるのを喜ぶ人たちを揶揄したのです。人を持ち上げる呼称で、人を「得意」にさせることができるようです。ある時、韓国の長老教会を訪ねたことがありました。訪問の一団のお世話をしてくださった方に、初めは「さん」付けで団長さんが呼んでいたのに、その一生懸命さを評価したのでしょうか、『もうこの人は〈さん〉ではなく、「先生」と呼びましょう!』と言って、敬称で呼び直したのです。そんなものなのです。

 敬意は、呼称にはよりません。真に人を自分よりも優った人として、接してこそ、人と人との交わりが祝福に変えられるのではないでしょうか。人間関係ってヤヤッコしいのです。ルステラの街で、福音を語り、足の不自由な人のために、パウロたちが祈りましたら、その人が飛び上がって、歩き始めたのです。それを見ていた人たちがびっくりして、パウロをギリシャの神、ヘルメスと呼んで、神のように扱い始めた時、パウロは、『私たちも皆あなた方と同じ人間です(使徒14:14)』と言って、群衆の中に飛び込んで、その受けるべきではない行為を拒んだのです。

 パウロもバルナバもペテロも、ただの人です。牧師さんも、宣教師さんも同じです。赦された罪人であるなら、互いに謙って、リスペクトし合うべきなのでしょう。人の間の権威主義は、政治や軍事の世界だけではなく、一般社会の中にもあるようです。ある教会で、一番謙遜な人が選ばれ、メタルが与えられました。翌週の礼拝の時に、その方は、首からにメタルを下げて集って来てしまったのだそうです。

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 謙遜さを表された、最たる事例は、神さまが人の子の姿をとって、女性の胎の中に、聖霊によっておいでくださったことです。それがイエスさまでした。人を罪から救うために、十字架に架けられ、贖罪の生贄となられるためでした。それ以外、私たちの罪の赦しの方法はなかったからです。あり得ないことが、イエスさまの全き献身によってなされたのです。それを信じ、告白しましたので、私は義とされ、聖とされ、子とされ、やがて栄光化される望みの内に、今、あるのです。

このイエスさまは、私たちがリスペクトするお相手ではありません。信仰するお相手でいらっしゃいます。

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8~9節)』

聖書は、そう記しています。

(“ある信徒から”のイラストです)

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