母が導かれた、私たちの母教会では、宣教師さん夫妻を、「ジャックさん」、「エドナさん」と呼んでいました。〈紙〉の会社から、《神》の教会の牧師さんになった兄は、「マンさん」と呼ばれていました。『それでは、示しがつかないのではないですか!』とのよその教会のご意見もありましたが、母教会のみなさんの呼び方が変わることがありませんでした。
私が学んだ学校は、ミッシンスクールでした。教師も学生も、”Mister“ で呼ばれていたのです。教授も、事務の方も、「さん」をつけて呼んでいました。上下関係の難しさのない社会で、みなさんが横に一つ並びだったのです。偉さの尺度を置かない関係は、立場をわきまえながらも、和やかでした。上智大においでだった教授も、「デーケンさん」でした。親しく敬意にあふれた一年間の師弟関係でした。
ある時、〈二十世紀日本のパウロ〉と呼ばれた牧師さんを迎えて、伝道集会が持たれました。この方は、威厳があって、寄せ付けないオーラを発しながら、牧師や宣教師の呼称の仕方を、秩序という言葉で、呼称を変えようとされたのです。この教会では、呼称の仕方でも、敬意に欠けているのではないのです。
窓の淵を手の指でこすって、ホコリを見つけて、姉妹たちの行き届かない掃除を指摘、糾弾していました。まるで旧日本軍の上官が、内務班でするようなことだったのです。「神の国」には、それは不必要で、よその教会の牧師さんのすることではないからです。権威主義であってはならないのです。教会の主でいらっしゃるお方は、まるで僕のようにして、人々の間で謙って過ごされました。
ある時は、イエスさまは、ひざまづいて弟子たちの足を洗うほどだったと、聖書は記しています。お隣の国で、大きな国際的な集いがあって、そこに参加したときのことでした。あるセッションで、敬称抜きで「イエス」と言っている著名な説教者が、「パウロ」と呼びにくくなったのでしょうか、「パウロ先生」と呼んだのです。義認や聖化や栄光化の十字架の贖罪の教えをするほどの鋭さに敬意を感じたのでしょうか、もう呼び捨てにできなくなって、そう言い直していました。聖書の関係を、日本的な権威主義で解釈され、平民主義の教会で育った私は、違和感を感じてしまったのです。
パリサイ主義の碩学だったパウロは、復活のキリストと不思議な出会いをして、その僕となったのです。その福音宣教は、熱烈でした。ルステラの街で、次のような騒動に巻き込まれています。「使徒の働き14章8~18節」にそのように記述されています。
『ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。 この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、 大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。 パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。 そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。 すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。』
『これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら言った。 「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。 とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」 こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。』
赦された罪人の過去を持ったパウロが、キリストに弟子となって、留守寺で、その道を教えると、ギリシャの神のひとり、ヘルメスのように、ルステラの人々には、パウロが尊く思えたのです。驚いたパウロは、そんな立場にないことを証明するために、着ている服を破り、人々の間に駆け込んで、『みなさんと同じです!』と言った行動をとったわけです。イエスさまも、
『しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイ23:8)』
とおっしゃって、先生主義、権威主義の悪弊を指摘されておいでです。教会の社会は、そう言った兄弟姉妹の関係で、成り立っていることになります。今日は、東京駅で、乗ってきた電車から降りてきた私たちを出迎えてくれた次男夫婦の招待を受けたのです。生まれて初めて、グリーン車の座席に座って、駿河国一の鰻料理をご馳走になる旅で、三島駅に降り立ったのです。酷暑にさらされる年老いた両親を、丑の日の直前に、健康増進のために供してくれたのです。
その駅頭で、代議士さんを出迎える一団を見掛けたのです。上にも置かない十数人の方々がいたのです。その接遇に、お取り巻きのみなさんがあわただしかったのです。初め「ヤ◯ザの親分」さんの一行かと思わせるほどでした。その、「傅(かしず)かれる」様子の先生と目が合ってしまいました。得意げで、ちっと戸惑い風にも見受けたのです。日本社会の「大先生」でした。
上下関係で傅かれるのと、孝行の親子関係でもてなされるとの対比に、こちらの方がはるかに喜ばしいと感じている今宵でした。舌鼓を打つ時を設けるために、休暇を取って、嫁御を伴って、かつての東海道一の大きな宿場町、名峰富士の麓で、その伏流水で養われた、実に美味しい鰻の料理に、老親二人は感謝ばかりの一時でした。
自分の子が美味しそうに食べている様子に、目を向けていた自分たちが、立場逆転で、次男夫婦が目を細めて、私たちを眺めているのを知って親冥利に尽きるとは、このことなのでしょうか。お店をでると、夕立が激しく降っていて、傘を持たなかったのですが、濡らすまいと、嫁御が大雨の中を跳んで出て行って、傘を用立てて戻ってきてくれ、傘を開いて差し出してくれたのです。
この社会に中で、三度ほど「先生」と呼ばれる仕事に携わらせていただいて過ごしてきましたが、そのタイトルで生きるのを終えて、微細なキャリアもタイトルもみんな置いている、今の自分たちを、このように饗してくれる私たちの次男、それを喜んでいてくれる、一緒に育った兄姉妹の三人が、遠くから祝してくれているのです。2ヶ月前、羽田空港の行き帰りを送迎してくれた長男、同行してくれた次男、今住むハワイで出迎えてくれた長女、そこを本土から訪ねてくれた次女家族、その家族の交わりに。こんな幸せなことはありませんでした。
子育て時代、夏休みに海水浴に出掛けて、通りかかった休憩エリヤで、イカ🦑の姿焼きを見て、食べたかった子どもたちに、買って上げなかったことを、今も悔いている自分を、そんなに篤く孝行してくれる幸いに、二人で感謝しているホテルの床の上です。明日は、名峰が見えるでしょうか。
(“いらすとや”の説経者、ルステラ、偉い人です)
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