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「美談ビジネス」と言うのがあるのだそうです。つまり、善行や美談を物語にして、YouTubeなどでアップしているビジネスなのです。そして、その物語の多くが、“ fake news ”だと言われています。現に、YouTubeに、お金稼ぎを目的に記事やAIによってビデオ映像を作成し、それを観て共鳴した人たちに〈チャンネル登録〉の誘いが多くされています。
世の中が、世知辛くなって、殺伐とした様相を見せてくると、美談に耳を傾けるお人好しが、それを読んだり聞いたりしては、涙するのです。高校生の頃に、フジテレビ系列局で、1959年12月6日から1961年12月30日まで放映された西部劇で、「拳銃無宿(スティーブ・マックィーン主演)」がありました。「賞金稼ぎ」の話です。それは、お尋ね犯罪者を捜して、退治する物語でした。でも善人を騙しての金稼ぎは頂けません。
つい騙されやすい自分がいて、それを信じては、ブログにアップしてしまうのです。大谷翔平の美談を、Youtubeにあっても時々アップされていますが、そんなことをしそうな善意に溢れた人柄ですから、それは、まあいいかなと思うのです。でも彼自信はどう思うかを聞いてみたいし、真実を知りたいものです。
人をハッピーにさせる話は、さもありなんでよいのですが、脚色をし過ぎて、面白おかしく泣かせたい人は、直木賞や文学賞でも狙って、筆を振う方がよいのではないでしょうか。
2026年熊本地震の被害も多大で、余震も多く起こっているとニュースが知らせていますが、落ち着いて眠ることもできず、車中泊をされている方も多くおいでだそうです。親しい友人や知人の多い地で、心配しております。そこでも、偽情報が飛び交ってると聞きます。どんな心理が働いて、そんな情報を流すのでしょうか、人間の悪意というのは計り知れず、残酷さが溢れています。
AIの時代になって、だれもが指先と口先で情報を発信できるようになってきてる時代に、溢れかえる情報に翻弄されている現実がありそうです。正しく” judge(判別)”できないと、その偽情報に、こころを踊らされてしまいそうです。
「右往左往」と言う言葉がありますが、混乱している様子を表すようですが、まさに現代社会は、上下左右に、揺さぶられているように感じられてなりません。情報過多の中、どうしても必要とされるのは、選択能力ではないでしょうか。正しく判断、見極める冷静さと、真実を求める願いに違いなさそうです。
朝のラジオニュースを聞いたり、配達された新聞を読んで、世に中で何が起こっているかを知っていた時代と、今とでは、情報量は比べ物にならないほどに膨大です。父から聞いて、世の中で何が起きているかを初めて知って、社会性を養われたのです。でも今や、ボタンを押すだけで、またチャンネルの選択一つで、真逆なニュースを聞かされる時代になっているようです。
家内が、息子にスマホを買ってもらって、新聞もテレビも見ない中を生活してきて、爆発的に情報量が増えてきていて、どうも戸惑いを見せているようです。しかも疑うことをしないで信じやすい性格ですから。子どもの頃から聖書を読んで、生きてきていますし、教会の狭い善意の人の多い社会の中で育ったので、視野が狭いかも知れません。
でもこの世は、海千山千、悪意や抗争や儲け話の坩堝(るつぼ)です。前世紀の遺物のように、娘たちに評されてしまっている家内ですが、世間ズレていないと言う意味では素晴らしいのですが、悪意と出会うと、善意さが邪魔をして、どうも戸惑ってしまっていそうです。
戦後、アメリカからの援助物資を、宣教師さんから頂いて、それを着て学校に行ったたばかりに、ハナタレの悪童にいじめらたことがあったのだそうです。また高校生の頃に、根性曲がりの級友に、帰宅時にカバンを持たされ続けたり、ありもしない噂を立てられたりしていたこともあったそうです。
ケンカをしてきた男と結婚して、反発心も身につけたようですが、彼女は根っからのお人好しなのです。いじめた相手を見つけ出して、『ブン殴ってやる!』と言っても、大笑いして、本気にしないままの今です。いじめた子は、残念なことに、教会の中にもいたのです。その同級生は、すでに亡くなっているのです。いじめた子は、何の罪責感もなく、全く覚えていないのが常です。ところが、いじめられた子には、心の深みに傷が残されているので、やっかいなのです。
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私たちの救い主のイエスさまも、悪意の中で過ごされました。とくに当時のユダヤ教の指導者から、訴えられて、ピラトの法廷に、ユダヤ社会の律法を守らずに、神を冒涜したとの汚名を着せられて、法廷に立たされます。エルサレムの住民の支持を得ようとした、ローマ総督のピラトは、「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」と、手を洗って責任を逃れてしまいます。
不実の罪を着せられて、カルバリーの丘に立てられる十字架に架けられて死なれたのです。宗教界の悪意によって殺されたのですが、それは、イエスを信じる者の罪の身代わりの死だったのです。信じる者を永遠の命に救うための死でした。イエスさまは、
『三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27:46)』
と、十字架上で言われました。人となられて今の今まで、父なる神の愛の視線を受けながら生きてこられたのに、十字架上で、その父に視線を逸されたのが判ったイエスさまが、そう叫ばれたのです。罪なきお方が、罪となられた姿を、御父は正視できなくなって、目を逸らされたからです。
その死は、信じる者の身代わりであって、信じた者たちに永遠のいのちをくださるためだったのです。私は、子どもの頃から、母のてに引かれて兄弟四人で教会に連れて行かれました。17で信仰告白をし、22でバプテスマを受け、25才で、聖霊の満たしを受けて、その十字架の意味が明確に、電撃的に解ったのです。
このことも、物語であって、fakeだと言う言う人が、教会の中、それも指導者と言われる人たちから言われているのです。天地創造も、奇跡的なエジプト脱出も、イエスさまのなさった奇跡も、眉唾物、単なる創作された物語にされてしまっています。科学的な目を持ってしまった説教者には、もう聖書を信じられなくなっているのです。
幼いわが家の子が、『十字架上のイエスさまは、痛かったんだろうね!』と、涙を流して泣いたことがありました。今や四十代になった、その彼が、わが家にやって来ると、決まってウクレレを持ち出してきて、この神を、この救い主イエスさまを、弾きながら賛美するのです。二親から聞いたイエスさまを、今も信じ続けているではありませんか。
(“ウイキペディア”のジョッシュを演じたマックイーン、ウクレレです)
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