自然界の神秘に驚かされて

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 私たち四人の父親は、明治男だったのでしょうか。洋服箪笥と、箪笥の上に置いた二つの衣料ケース、これに夏冬交互に畳んでしまわれていました。その他は本箱があり、靴箱に何足かの父の靴や下駄がありました。戦争を経験したからでしょうか、まだ物質文明の嵐の前だったからでしょうか、実に持ち物の少ない生活をしていました。押入れには、夏と冬の衣料が、交互に出されて仕舞われる行李(こうり)があり、和服は、別の箪笥にあって、母が整理していました。 

 そんな簡素な生き方できるのは、父が明治に生まれ、母が大正に生まれたからでしょうか。新婚時は、京で過ごしたと言っていました。和服を解いて、洗い張りをして、縫い直している母の姿を覚えています。良い物を持ち、その持ち物を大事にしている生き方は、合理的で理想であっても、なかなか真似できません。

 父の和服は、独身時代の豊かな時に誂えたとかで、「大島」だと言っていました。「紬(つむぎ)」で、奄美大島の特産の高級な絹織物なのだそうです。それを、母が解いて、私の身丈に合わせて縫い直してくれたことがありました。それを一度、袖を通したことがあったのです。もう五十年以上も経つのに、絹の光沢が失われていませんでした。

 東京に出てきて最初に住んだのが、都下最大の街で、織物で名を馳せた「桑都」八王子でした。一年の後に、隣町に越したのです。そこには、蚕糸試験場があって、隣町の機屋に納めたのでしょうか、蚕業農家が多くありました。桑畑が、台地に広がっていました。桑の枝が、チャンバラの刀に良くて、肥後守で枝を切って、皮をむいて作った刀で斬り合う遊びをした日があります。

 繭を作る蚕が珍しく、不思議で仕方がありませんでした。また糸を撚って、生糸を作る工程を知って驚かされたのです。まさに細い糸から、織物の生地になっていく工程が珍しく、試験場の窓下に捨てられてあった蚕を持ち帰って、桑の葉で育てたこともありました。

 蛹(さなぎ)が、桑の葉を喰んで、蚕(かいこ)の成虫になります。大きな農家で、その葉を喰む音が、何千、何万匹もの蚕の合唱のように聞こえたのです。まさに命の躍動の音でした。すると糸を吐いて、繭を形成していきます。吐いて絹糸を吐きながら繭を紡(つむ)ぎ、その糸は、生糸と呼ばれ、上質な絹糸となって、高価な和服生地になっていくのです。まさに神秘の業ではないでしょうか。


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 中国で、人の手の世話で、蚕が飼われ、生糸が紡がれ、蚕糸業が始まっていますわが国に伝えられ、その産業を試行錯誤で作り上げて行ったのでしょう。それが、「絹の道」と、後になって呼ばれるような商業路で、ヨーロッパに運ばれたのです。徳川の統治下、甲州街道の要衝であった、八王子は、群馬(上野国)や栃木(下野国)を含めた繭の飼育、生産地でした。

 旧国鉄の八高線の沿線に、通った小学校がありました。まさに、それは日本版の「絹の道」でした。両毛線で、高崎、八王子、横浜と鉄路で運ばれ、海外への輸出は、日本の近代化を促した、主要な外貨収入源だったのです。群馬に富岡製糸場、長野の諏訪地方の製糸業は、上質な生糸の生産がなされ、日本の近代化を促したのです。

 絹は、中国語では「丝绸sichou」と呼ばれ、弥生時代には、日本に伝えられたとも言われています。野生の蚕を育てて、養蚕業、生糸生産、絹織物を機織りして、美しい生地を作り上げた知恵は、どこからきたのでしょうか。世界に冠たる自動車メーカーのトヨタ自動車ですが、その創業者は、画期的な機織り機を改良、製造した豊田佐吉でした。

 蚕糸試験場で拾った蚕で、実験してみたり、蚕糸農家で作った真っ白な球状の繭玉を手にして、これが生糸になり絹の生地になるのを知った驚きを、今も思い出すのです。手の上で蠢いていた、拾い上げた蚕の感触も昨日のように覚えています。父の残した大島の着物を、縫い直してくれて着物を着た、心地よいあの感触は、母や父を思い起こさせてくれます。

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垂乳根之母我養蚕乃眉隠馬聲蜂音石

[読み]たらちねの 母が飼ふ蚕の繭隠り いぶせくもあるか 妹に逢わずして

( 母が飼っている、蚕が繭(まゆ)にこもっているように、もやもやとした気持ちです。あの娘(こ)に会えないので。)

 蚕や繭は、このように万葉にも詠まれているのです。自分の鬱々とした思いを、蚕が繭の中に籠っている様子を思い浮かべて表現しているのですが、繭の中の世界に閉じ籠って、あんなに光沢のある生糸をはいて、蚕が繭を作るのは、実に神秘の世界です。そういった習性を見抜いた最初の人の観察眼にも、老いという殻の中にいるような自分は、今も驚かされてしまいます。繭の最先端を、どうやって見つけるのでしょうか。驚くべき技術です。この自然界の神秘に驚かされての今です。

 

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