今まさに、万軍の主が

.

.

 栃木県下にも、悲しい歴史の名残の地がいくつか残っています。日光の「戦場ヶ原」は、その一つです。これは氏族と氏族に戦いではなく、中禅寺湖をめぐって、男体山の神と赤城山の神が争った「戦場」だったと言う「神話」によるものです。昔は湖であったのが湿原となったもので、広大な面積の広がりを見せています。

 この湿原は、多くの種類の植物の自生地で、植物学の宝庫でもあるようです。また、野鳥の種類も多く、鳥類学の研究にも貢献しているのです。中禅寺湖の魚を餌にして、営巣する水鳥も多いそうです。ラムサラール条約に登録されるほどの湿地帯で、動植物研究の宝庫でもあります。

 数年前に、案内していただいて、訪ねることができました。明治以降、文人たちにjも愛され、外国人に人気の観光地でもあります。JRや東武の日光駅前のバス乗り場には、多くの外国からおいでの観光客がいました。家内と足尾へのバスに乗り継ごうとした時に見かけたのです。神話とは別世界が広がっています。

 市内を運行する「ふれあいバス」に乗って、市の北部に行くバスの通る道の脇に、「小平邸」があります。そこは東武日光線の「合戦場駅」で下車しても行くことができます。国産で電動モーターを作り、その業績で、日本の工業化に貢献した小平浪平の生家が残る街なのです。

 かつて群雄割拠した戦国時代に、宇都宮氏と皆川氏(栃木市皆川に居城しています)が合戦した戦場のあった場所で、標茅ケ原での合戦のなくなった今では、地名だけが残され、合戦の大騒動など、全く感じさせない静かな住宅街になっています。江戸期には、大権現とされた徳川家康の墓所、東照宮に至る、例幣使街道の道筋に位置し、宿場町でした。

 お百姓さんは、合戦に兵士となって連れ出され、耕す田畑は踏み荒らされ、大変な時代だったのでしょうけど、やはり平和な時代がいいですね。強くなった日本は、大陸や南方に兵士を送って、領地獲得に狂奔したのですが、出征兵士を送り出した記念碑が残されています。そればかりではなく、私の散歩道には、出征軍馬の記念碑も残されているのに、驚かされます。
.
.

 息子を取られるだけではなく、農耕馬も、戦争に送り出された歴史は、悲しいもので、しばし佇んで、大きな石碑を眺めていました。嘶(いなな)きも聞こえてきそうでした。しなければならない戦争があると言うのは、人の世の大きな悲しみと限界なのでしょうか、音頭をとって送り出されるのは、いつの世も、どの国も、必ず「若者」なのを思うと、悲しくて仕方がありません。

 私の父の世代、出征兵士を歓呼の声で送り出した親は、戦場で倒れた息子、戦場で奉仕なくした看護女子の屍(しかばね)を、涙で抱きかかえて受け取ったのです。父の弟は、「南方」の何処で亡くなったかが分らないまま、空(から)の「骨箱」に、勇士とか軍神とか書かれた紙を入れられて、それを家族が受け取っています。

 人類は学ばないまま、今も、世界のあちらこちらで、同じように戦争が繰り返されているのです。同級生のお父さんは、中国の内陸部で亡くなっています。旧軍の高級将校だったと、友が言っていました。わが家に泊まりに来た時に、お父上と同世代の私の父親に会って、チラッと悲しそうな、羨ましそうな、そしてチョッと悔しそうな表情を見せたのです。私はそれを見逃しませんでした。

『また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。(新改訳聖書 マタイ24章6~8節)』

 今とこれからの時代に起こり、起こるであろうことを、聖書はそう記しています。平和な80年を生きてきて、それがひっくり返させられるような不可避な時が、来るのでしょう。今まさに起こっている時代に、私たちが生きている現実を憂えるのです。でも、私の信じる神さまは、義なるお方で、万軍の主でいらっしゃいます。

(“いらすとや”の戦争関係のイラストです) 

 .

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください