『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(新改訳聖書 マルコ16章15節)』
海や浜辺での健康志向、リゾート地でも信仰への思いのあるハワイです。泳いだり、波乗りをしたり、ヨットのセーリングをしたり、カヌー競技の練習、ジョギングや海浜体操のグループが、それぞれに活動をしています。そればかりではなく、日曜日には、椰子の林の中で、賛美したり聖書を学んだりし、ワイキキ周辺には教会堂も見られます。
ハワイに原住する人たちに、福音を伝えるために、アメリカのボストンから宣教師がやって来たのが、1820年だったそうです。1885年には、ハワイ島のさとうきび畑で働くために、日系の移民が始まります。3年契約で1ヶ月26日労働で、4ドルの契約だったそうです。得たお金を、酒と博打に使ってしまい、喧嘩などで、心が荒んだり身をもち崩していく日系移民の彼らへのハワイでの評判がすこぶる悪かったのです。それで伝道が、サンフランシスコのメソジスト派の牧師たちによって行なわれていきます。
その一人、美山貫一牧師は、『兄弟よ。お互いに日本人であることを光栄とし、その体面を保つためにはどんな苦労もしようじゃありませんか。怠けたり不品行すれば、自分が一文無しになって困るだけでなく、万世一系の我が国体を傷つけ、汚名は同胞3千万の頭上に繋がるのだから!』と、移民たちの働くハワイ島のコナで、福音を説き、禁酒を勧め、英語の学習会も始めるのです。
その福音宣教を受け継いだのが、土佐の郡奉行を父に生まれ、京都の「同志社」で学んだ奥村多喜衛牧師で、ホノルルを拠点に、その生涯を、日系移民への伝道に捧げたのです。教育や娯楽、共済組合、医療事業や慈善事業、売春の廃娼運動の面にも貢献しています。奥村牧師の始めた小学校の卒業生の中から、エール大などで学んで、ハワイの日系社会の柱になっていく人物も起こされていきます。3年の契約を延長し、生涯を、その働きに捧げたのです。
お城のような建物の教会が、ホノルルにあります。この群れは、奥村牧師が伝道して建て上げた教会なのです。勤勉で礼儀正しい日本人は、偶然に生まれて来たのではなく、奥村牧師のような献身的に、日本人社会を形作った人たちによって、多くの課題や苦難を越えていること、戦時中には日本人排斥運動があり、ハワイ哀史などある、それらの哀しみも越えて今があるのも忘れてはなりません。
身体も精神も霊性も、健全である願いがあって、アメリカの社会は、多様なのですが、全存在が活動的な印象です。80年代の中頃に、山中湖で聖会が開かれ、そこにハワイ島で伝道を始められた教会の牧師さんが、講師として来られたのです。この方との出会いで、その教会の信者さんの家庭で、長男と次女が高校生活を送ることになったのです。礼拝を守り、愛と好意を、十代の時期に受けることができたのです。
その牧師さんが、ホノルルの高校の講堂を、日曜日ごとに借りて、土曜日と日曜日に、礼拝を長く守っていたのです。そのために、メンバーのみなさんの奉仕で、礼拝のために楽器や歓迎ブースなどのセッティングがなされ、その週末に行われる、週ごとに3、4回の礼拝が終わった後の片付けや掃除が、あのレビ人のように、教会でボランティアでなされていました。借りる前よりも綺麗にし続けて、学校側から感謝されていたのです。
西海岸にあった学校に、長男は進学をし、学び終えて、ここホノルルで、その教会の奉仕をし、やがてスタッフになり、教会で行われていた聖書学校で学んで、市内にあったマスターコースの聖書学校でも学びつつ過ごしたのです。日本人留学生がたくさんいましたので、メッセージの通訳もしていました。
その教会の礼拝に、この日曜日に出席したのです。賛美に溢れ、福音が説かれ続けています。この教会を始められた牧師さんは、その務めを後任に任せて、西海岸の街での伝道牧会を始められ、若い人々の教育にもあたっておいでです。日系社会の初めの時期から、伝道がなされてきた尊い歴史を覚えつつ、ハワイで過ごす今に感謝しております。
(“ウイキペディア」のサトウキビ畑、ボート競技の練習をするクルー、椰子の海岸です)
.


