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一度訪ねたくて、果たせなかった街があります。それは、かつて長安とよばれていた、現在の陝西省の省都の西安です。大黄河に流域にあって、そこは周、漢、隋、唐などの時代の首都で、多くの日本の仏僧や留学生が、東シナ海を渡って出かけたこともあって馴染み深い中国の街なのです。
中学の修学旅行で訪ねたことがある、京都の正倉院と関わりのある、「絹の道」と呼ばれた、「シルクロード」の拠点です。NHKが長い年月をかけて取材をして、このヨーロッパとアジアを結んで、交易や文化や情報を伝えた道を取材した番組がありました。空撮をした番組で、天空からの映像に驚かされ、夢も浪漫も運んだ道だった様です。
阿倍仲麻呂が、500人以上の遣唐留学生の一人として、19才で出かけ、73才で亡くなるまで、その生涯を送った街でもあります。唐の都で、故郷の平城京、奈良の都を懐かしんで詠んだ、あまりにも有名な和歌があります。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に出でし月かも
留学生であった仲麻呂は、玄宗皇帝に仕えたのです。「科挙」と言われる高級官僚の登用試験、そのエリートとなる登竜門の「進士科」に合格し、その優秀さによって、玄宗皇帝に厚遇された人でした。詩作の才能も問われた試験だった様で、その文学的な素養があったからでしょうか、李白や王維といった唐の詩人たちとも交わりがあったと言われています。奈良の都、平城京に住んで、そこから眺めていたのが、三笠山です。
仲麻呂は、高級官僚の立場にありながらも、故郷への思いが強かったのですが、なかなか玄宗の許可がおりずにいました。やっとのことで遣唐使船に乗り込みましたが、東シナ海で、天候不良の嵐にあって、ヴェトナムに漂着してしまいます。そこから長安に戻って、生涯を終えるのです。
異国の地で、故郷回帰の思いを持ちながら過ごす思いは強いのでしょう。思い出すのは、室生犀星が詠んだ詩です。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
陸続きの金沢を、東京にあって思う、犀星の思いと重なって、仲麻呂の歌も切々として悲しいものがあります。ここから200キロほどの所に、自分のふるさとがあります。6才で家族で離れた地ですが、兄たちや弟と過ごした思い出が残っています。でも故郷への追慕の思いはないのです。ただ二親と兄弟たちの家族こそが、自分の「ふるさと」なのかも知れません。
犀星は、金沢と東京を、仲麻呂は、奈良と長安を思い比べているのでしょう。聖書の「ヘブル人への手紙」に次の様にあります。
『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル11章13~16節)』
ヘブル人の族長のアブラハムは、生まれ故郷のカルデアのウルの生まれ故郷と、「天の故郷」を思っているのです。そこは、「さらにすぐれた故郷」であったので、ウルには帰ろうとしませんでした。アブラハムは、神さまの用意された「天の故郷」に、「あこがれていたのです」、と、「ヘブル人に手紙」の著者は語ります。自分の憧れのふるさとも、この「天」にあります。
(“ウイキペディア”の阿倍仲麻呂、“いらすとや”に古時計です)
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