言の葉ということばを

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『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった(新改訳聖書 1章1節)』

 中国の学校で日本語を教える機会が与えられて、けっこう長くさせていただいたのです。ある時期、関西圏出身の同僚がいましたが、やはり関西訛りがあったのです。自分は、中部山岳の山の中で生まれて小学校に入学して一学期まで、そこで育ちました。それで、その地方の方言が、兄たちによって家の中に入り込んできて、真似したりだったのです。それで自分も真似していたのです。でも、家の中は、相模の横須賀生まれの父、山陰の出雲育ちの母でしたが、父の育った東京の歯切れのよい標準語の世界でした。

 訛りは、手形のように言われて、なかなか抜けないのです。母が歳を重ねるに従って、緊張感から解き放たれたのでしょうか、ポツッと方言が出てきることがあったようです。父がからかっていたものです。それで、母恋しの私は、家から出掛ける時に、母から学んだのではないのですが、出雲地方の言い回しの『行って帰ります!』を真似るのですが、身についていないので、チョッとおかしいらしいです。

 標準語で話しても、東京都下で、学齢期を過ごしたので、東京のど真ん中で育った人の語りには程遠い東京弁なのでしょう。何時でした津軽出身のアナウンサーが、ニュースを担当されていて、それを聞いて、郷土色があっていいなと思ったのですが、何言ってるか分かりませんでした。

 アルバイト先に、秋田出身の方がいて、だいぶ訛っていたのを聞いて、標準語を喋っているのですが、かなりなまっていたのです。それでも話の内容は理解できたのです。話し言葉が優しくて、鷹揚で暖かさを感じたことがありました。

 それにしても、京都弁を初めて聞いたのは、中学の修学旅行の時でした。二日間ほど案内してくださったガイドさんの口調がきれいで、優しくて、雅(みやび)さが溢れていて、その声に恋をしてしまったのです。男子校の中学生の淡い恋でした。それで、『大学は京都に来るぞ!』と決心したのですが、東京に戻ったら、その決心は、どこかに消えてしっかりと忘れてしまいました。

 私たちが13年ほど過ごした中国の華南の街は、一山越えると、言葉が違うのだと聞きました。『喋れないけど分かる!』のです。清国や中華と呼ばれた時代に、欧米からっやって来た宣教師さんたちは、何人かの通訳を通して、聖書を説教したのだそうです。共産党革命は、国中を混乱させたのですが、ただ一つの良かったことは、共通語を、小中の学校で教えたことによって、国語の統一ができたことだと言われています。

 広東省の広州のバスターミナルには、「普通話(プートンファ、Pǔtōnghuà)」で話すように、壁に大書されていましたが、どうも守られていませんでした。例えば、広島大学に留学されたご婦人は、私たちには日本語を、アメリカ人やギリス人には英語を、教会のみなさんには中国語を、親戚の方とは方言を、上手に使い分けていたのには、驚かされたのです。

 ある牧師さんが書かれた本の日本語訳書を読んで、感動した私は、その翻訳をなさった牧師さんと文通をしていたことがありました。ドイツ語の書物でしたが、それを翻訳されて、関心を寄せた私に、ドイツ語ではなく、その著書の主人公の出身のシュバーベン地方の言葉で書かれた 原本を、分厚く300枚ほどにコピーして送ってくれたことがあったのです。『簡単な方言ですから読んでみてください!』と言われてでした。言語から翻訳された、その方は、ドイツ語に造詣の深い学者先生で、ご自分には簡単でも、受け取った私には歯が立ちませんでした。

 「バベルの塔」の一件が、創世記(11章)に記されていありますが、高き塔を建てて、神に並ぼうと企てた、神への傲慢さを実行した者たちの暴挙、人間の野心を打ち砕こうと、神さまはされたのでした。その塔を打ち壊しただけではなく、「言葉の混乱」をもたらされたのです。一つの言語で神に罪を犯したので、互いが通じ合うことのないようにされたのです。それ以来、この言葉は混乱してしまったのです。

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 中国にいた間、家内は、家でも大学の予備校でも、請われて、日本語を教えていたのです。子どもたちのクラスで、10人ほどの生徒がいたでしょうか。そこに一人の女の子の従兄弟が、やって来たのです。しばらクラスの中で、その様子を見ていましら、突然泣き出してしまったのです。『僕だけ分からないよ!』と言ってでした。みんなの中で、一人疎外感を味わってしまったわけです。あんなに切ない鳴き声を聞いたことがありませんでした。なだめて機嫌を直すのに、家内は大変でした。

 そう言えば、長男も同じでした。15でハワイの高校に入学したのです。日本の中学校での英語では、できた方でしたが、実際の英語、と言ってもハワイの高校生の使う英語は、耳に慣れずにチンプンカンプンだったそうで、その男の子と同じ経験を通過したのです。でも、卒業時にはAA級の成績で終えたのです。彼の世話をしてくださった牧師夫妻の忍耐と愛と激励も忘れられません。苦労しながら異世界でもまれて、感謝の今があります。

 今、旅行者たちの手に、「通訳機(翻訳機)」があります。外国人旅行者が、道を聞いたり、買い物や食事の注文をするのに、これに頼れる時代がきているのです。言葉の障壁を感じないで、見ず知らずの地を旅行ができる便利な代物(しろもの)ができ、普及しているのです。でも、心と心の交流は、機器に任せられません。相手を知り、自分を知ってもらうには、たとえつたなくても言葉の交流がないと、真の理解には至りませんね。言葉以上に、心が通い合うことがあったと、中国の13年間を思い出すのです。人を生かす「ことば」を語りたいものです。

(“ウイキペディア”によるバベルの塔、広州の街です)

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