老いていった父のこと
六十代の初めの頃の父が、小田急線の電車の急停止で、体調を崩して、胃病院に行って診てもらいましたら、クモ膜下出血との診断が下されました。医者にかかったり寝込んでいることのなかった父が、初めての様に、入院し弱さを見せたのです。せんごすぐのころ、トラックの助手席で、車の横転事故で、大怪我を負って以来の入院でした。
四人の男の子の子育て真っ最中には、敗戦後に残された軍需工場の索道を利用して、木材業に携わっていました。昭和26年の夏に、東京に出たのです。子どもたちの教育などを考えてだったそうです。化学工業の会社、旧国鉄の車両の制御用の部品の生産会社、書籍出版の会社など、幾つもの仕事を兼務しながら働いていました。
東京の大田区に見つけた家の契約を、すませたとかで帰って来て、その話は詐欺で、全く騙されてしまったこともありました。戦時中には、馬蹄さんに馬を潰されて、食用にして食べられたり、けっこう騙されやすい人だったのです。
サラリーマンと言うよりは、会社経営に携わっていました。旧海軍の軍人たちの戦後の転職に、従ったのでしょうか、父の周りには、軍人だったり宮様などの親族がいた様でした。そんな父に連れて行かれて、父よりもずっと年配のみなさんとお会いしたのを覚えています。江田島の海軍兵学校の校長をされた方の息子さんと言う方がいたり、幕末史に出てくる薩摩藩の藩士の御子息がいたりしました。
なぜ父は、そんなみなさんのおいでになる会社に、自分を連れて行ったのでしょうか、今でも不思議なのです。父自身や祖父に、私が似ていたのでしょうか、入った中学校の制服が、海軍兵学校の制服に似ていたからでしょうか。それで連れ出したのかも知れません。
戦後の父の生き方は、クリーニング仕上げのYシャツにネクタイ、背広、磨き上げた黒革靴で都内の会社に通勤していました。背広の内ポケットやお尻のポケットに、札びらをしまい込んでいました。参議院議員選挙になると、全国の旧国鉄に乗車できる選挙運動用パスで、各地を跳び回ったりもしていました。自分の会社の製品を納めていた旧国鉄のトップの方で、東海道新幹線を開業する頃に活躍されていました。
.

.
そんなダンディな父で、「昭和の伊達男」でしたが、60歳前後の頃は、醸造会社の嘱託かパートをしていて、上の兄のジャンバーや帽子を着て、ズックの靴で通勤していたのです。あんな仕事や姿は想像することができませんでした。その意外さに驚かされていたのです。輝いていた分、その輝きが消えてしまった父だったのです。愛された三男は衝撃でした。
社会的な責任を降りた今の自分を、そんな父を鏡にして見直している今です。もう服装に気を遣わなくなってしまっている、かつてはオシャレだった自分です。娘たち、息子が、買っては送ってくれたり、持参してくれる物を着たり、履いたりしています。父に真似て、三越で買ったりしたことも何度ありましたが、主の働きへの奉仕をしてからは、全くしなくなりました。
みすぼらしくはないと、自分では思っていますが、そう見えない様に、歳を重ねた今は、さらに注意しようと思っているのです。主の栄光を表すべきでしょうか。オシャレを構わなくなるのではなく、身だしなみをキチンとしなくてはと、自らを諌めているのです。
孫の置いていった物を着たり、使ったりしていますが。髭を剃り、髪の毛を切り、背筋をのばして、もう少し気にして生きていかないといけないかなの今なのです。
老いていく自分を、父の最後の時期を思い起こしながら、自分の時を考えさせられています。医者いらずだったのか、医者嫌いなのか、それでも人生の最後に、医師に自分の身を委ね、入院中の病床で、上の兄の導きで、信仰を告白し、創造者の元に帰った行った父でした。あの退院の喜びの日に、何も言い残さずに召されて波乱の多かった生涯を終えて、主の元に帰っていきました。あの日から、五十数年の年月が経ちます。
(ウイキペディアによる父が乗ったであろう南満州鉄道の「列車のダイヤ」、一緒に食べようと父が何度も言っていた浅草の「どぜう鍋」です)
.