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「後遺症」、病気でなくても、次の様に、使ってよい言葉でしょうか。私の「後遺症」は、住まいの浴室で、湯船を使わないことなのです。中国に13年いましたので、入浴には、シャワーだけになってしまい、それを長く続けてきた生活習慣が、と言う意味での後遺症のことです。
中国で出会った友人が、通勤の道路際に、風呂桶屋がある、と知らせてくれたことがありました。風呂が恋しくて、友人の車で買って持ち帰ったのです。檜(ひのき)作りではなかったのですが、木造りで、タガでまとめてありました。沸かし口がないので、スーパーの売り場に売られていた電気コイルを買って帰り、水を張った風呂桶の中に、そのコイルを入れてお湯を沸かしたのです。
けっこう時間がかかりますが、ちょうど良い油温になって、入ることができたのです。『 ♭ いい湯だな いい湯だな ここは華南 和園の湯 ♯ 』と歌いながら日本を思い出しながら、実にいい気分で入りました。でも長続きがしないで、その桶は休眠状態になってしまい、しばらくして、その桶を知人に上げてしまい、結局シャワーだけの入浴に戻ってしまいました。
砂埃が多かった華南の街では、沸かし湯に入るよりは、シャワーの方が合っていたのかも知れません。今住んでいる街に、温泉が数カ所あります。市内循環の「ふれあいバス」のコースに、それがあって、バスに乗ると、その二箇所に行けて、温泉に入ることができるのです。一箇所は、散歩コースにもしています。
月に一、二度ほど行くのですが、休憩室がありますので、持って行った本を読んだりしながら、3〜4時間もい続けることがあります。日本の一番の文化なのでしょうか、やっぱり「温泉浴」はいいものです。ボーッと一日倒れていたい時には、実にいいものなのです。
大きな手術を終えて、回復した頃に、上の兄が、湯治場を探してきてくれたことがありました。その地元では、「ラジウム温泉」と呼んで、小さな温泉宿は、鄙びた木造で、湯治客のための炊事場などもありました。そこに一週間ほど籠って、温泉三昧で過ごしたことが、術後、数回ありました。
その一週間は、傷口の回復というよりも、日常から離れて気分的に最高に開放の時でした。家内が、それを許してくれたのは感謝でした。テレビに出ているという名物社長さんなども一緒で、みなさん、厳粛な手術をしていて、腹部や背中に手術痕を持っておいでででした。それを隠すことなく、じっと温泉に身を沈めていました。まだ四十過ぎだった私は、年配の入浴客の必死な話を聞いて、社会勉強をしていたのです。
そこは男女混浴でしたが、同病愛憐れむで、互いに意識などしないで、和気藹々だったのが、やはり日本文化の一面だったのでしょうか。男性客との相部屋で、賄い付きと自分で炊事をする人と様々でした。一度、お昼をご婦人に誘われて、その方のお部屋で、お昼をいただいたことがありました。温泉宿で見知らぬ男女二人で、食事をとるのも後ろめたくて、一度きりにしました。危なっかしいくて、ちょっとスリリングでした。
ある時、アコーデオンを持って、個室で過ごしている方がいて、誘われてお部屋に行き、お茶菓子でお茶をご馳走になりました。『一緒に歌いましょう!』と言って、『♭ 花積む野辺に 陽は落ちて みんなで肩を・・♯ 』など、古賀政男の作った歌を何曲も歌ったとことありました。
また、ドイツのバーデンバーデンという街は、温泉浴、温泉治療で有名なのだそうです。クアー・ハウスという入浴施設があって、もうローマ時代に始まっているのだそうです。傷ついた兵士や病んだ人たちに利用されてきた様です。ドイツと日本は、何か、国民性や習慣に似た点が多い両国の様です。
この国の南部に、バート・ボルト( Bad Boll )という街があります。ドイツ福音主義の牧師であった、ヨハン&クリストフ・ブルームハルトの父子や、宣教団体のモラビア兄弟団でも有名なのです。ここにも、ブルムハルトの牧会や伝道の働きの中で、クアー・ハウスがあり、経営主体は、今では教会から団体に移行していますが、それは現在も運営されている様です。
ちなみに聖書の創世記に一箇だけ、「温泉」が出てきていますが、私たちの国やドイツの様な、入浴や医療利用ではなさそうです。長く住んだ、中国の華南の街中にも、温浴施設があって、温泉がありましたし、日本文化の影響でしょうか、大型の温泉施設が、あちらこちらとでき始めていました。誘われたのですが、温泉の本場に生まれた自分としては、衛生上や風紀上の理由で、遠慮していました。そんなことを思い出した、過ぎた一週でした。
(今はなき温泉の湯船、ウイキペディアのバート・ボルのクアハウスです)
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