栃木県下に、明治になってから、小さな村落が合併して、「桑村」とか、「絹村」、そして、この両村が合併して「桑絹村(町)」と呼ばれる村落があった様です。今では、私たちの街に隣接している小山市に含まれていて、この市の南部にあるのです。
信州や北関東は、かつての地域区分帯の中には、養蚕、絹織りが盛んに行われてきていて、その絹糸を得るために、絹糸を吐き出す蚕(かいこ)が飼われていました。群馬県の水上に、三国街道の宿場で、須川宿があって、そこに栃木市と提携の宿泊施設に泊まったことがありました。村の農家は、二階が養蚕部屋の造りになっていたのが診られたのです。養蚕は昔から盛んだったからです。
ここ、下野国も同じだったのでしょう。元々、養蚕は、大陸からもたらされたもので、日本でも盛んに行われてきていました。穀物や野菜の栽培以外に、養蚕が行われていたようです。昔、唐の時代には、国家を機能させるために、そのための経費を得るために、「税」の制度を定め、人々に納税の義務を負わせました。
その納税義務には、「租庸調」があったのです。「租」は米、「庸」は労役、「調」は各地の特産品の献上でした。その税の取り立てを定めたのです。この唐の税制に倣って、日本でも、国家統一で、朝廷が誕生し、その行政のために、この税収が定められて、法律化されていました。
その納税義務は、けっこう過酷なもので、国と民の間での揉め事が多かった様です。その「調」の中に、「絹糸」があり、その高級な糸は重宝されていたのです。そのため日本各地で、養蚕が、さかんに行われていきました。米づくりの難しい地方では、さまざまな特産品の生産が、工夫されて行われていたのです。そう小学校の社会科で学んだのです。
.
庶民は木綿の生地で服を作って着ていましたが、上級武士や宮人たちは、絹糸で織った服を着ていたので、高級生地は、現金収入になっていたのです。その名残で、通った東京郊外の多摩地区の小学校の近くに、蚕糸試験場があって、間引かれた蚕が捨てられていて、拾って帰っては、飼いましたら、繭になった覚えがあります。
そのために桑の葉が必要で、桑畑も、けっこう広く栽培されていたのです。あの桑の木は、和製ナイフの「肥後守」で切って、皮を剥くと、チャンバラの剣になって、よく桑畑に入り、木刀を作ったりしました。それを、お百姓さんに見つかって、叱られたのです。もう宅地化が進んで、桑畑は消滅していることでしょう。
長く過ごした街から、車で40分ほどの農家で、このお蚕を買っていました。一斉に、桑の葉を食べる音が実に賑やかでした。あの音は、繭作りのための音であり、養蚕農家では騒音ではなく、生活を潤す音だったのです。その蚕を両手で取ると、手のひらのムズムズ感が、気持ちよかったのです。
養蚕農家は、今どうされているのでしょうか。子どもの頃、ドドメを摘んだ桑畑も、宅地化してしまい、時の流れを感じてしまいます。4階のベランダから、その小山の街がうかがえるのですが、茨城県の結城市に隣接し、「結城紬(ゆうきつむぎ)」を生み出した地です。そんな産業史を考えながら、人の営みの変遷を、しばし思っておりました。
(ウイキペディアの「桑の実(ドドメ)」、「繭」、「機(はた)織り機」です)
.