アネハヅルの驚異的な飛翔が

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 戦時下に、十代後半を過ごして、軍需工場での仕事に従事したことを、「わたしが一番きれいだったとき」で読んでいます。それは、19歳だったと、茨木のり子が、自分で書き残しています。そんな詩を詠んだのり子が「鶴」を詠んでいます。

 1995年に、NHKが、「謎のヒマラヤ越え〜飛行ルート5000kmを追う〜」を放映したことがありました。「アネハヅル」の驚異的な飛行の様子を記録した秀作でした。そのアネハヅルの神秘的な習性を、映像で観て詩作をしたのです。その驚きの思いが伝わってきます。

 鶴が
ヒマラヤを超える
たった数日間だけの上昇気流を捉え
巻きあががり巻きあがりして
九千メートルに近い峨峨(がが)たるヒマラヤ山系を
超える
カウカウと鳴きかわしながら
どうやってリーダーを決めるのだろう
どうやって見事な隊列を組むのだろう

涼しい北で夏の繁殖を終え
素だった雛もろとも
越冬地のインドへ命がけの旅
映像が捉えるまで
誰も信じることができなかった
白皚皚(はくがいがい)のヒマラヤ山系
突き抜けるような蒼い空
遠目にも賢明な羽ばたきが見える

なにかへの合図でもあるかのような
純白のハンカチ打ち振るような
清冽な羽ばたき
羽ばたいて
羽ばたいて

わたしのなかにかわずかに残る
澄んだものが
激しく反応して さざなみ立つ
今も
目をつむればまなかいを飛ぶ
アネハヅルの無垢ないのちの
無数のきらめき

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 昔から、日本にも鶴が飛来して、「鶴の恩返し」の民話や、木下順二作の「夕鶴」などがあり、読んだ覚えが私にもあります。鶴の変身とか、生まれ変わりなど、「異類婚姻譚」と言う話は、この日本だけではなく、世界各地にある様です。

 シベリアやモンゴルの草原の地で、鶴は誕生して、親鳥に養われて、育ったばかりの子の鶴を従えて、冬場の餌を求めて、温暖な地に移動します。インドやパキスタン、中東、北東アフリカに渡って行くのですが、あのヒマラヤの8000m級の高さを飛ぶ様子は、驚きです。聖書にも、鶴が登場しています。

『燕や鶴のように私は泣き、鳩のようにうめきました。私の目は上を仰いで衰えました。主よ、私は虐げられています。私の保証人となってください。(新改訳聖書 イザヤ38章14節)」

 人は、自分の現実に生活に中で、泣いたり呻いたりします。それは、燕や鶴や鳩の様だと、預言者は言っているのでしょうか。

『空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山鳩も燕も鶴も自分の帰る時を守る。しかし、わが民はの定めを知らない。(エレミヤ8章7節)』

 アネハヅルは、故郷回帰の時も、また冬がやって来る前に、餌のある地を求めて渡る時期を知っているのです。動物は、生きて子孫を残すと言った使命を、本能的に知っているのです。とくにアネハヅルは、世界中に15種類ほどいる鶴の中で一番小さく、体長は90cm、体重は2~3kg、翼開長は150~170cmの体格を持っている様です。生後3ヶ月になる、秋には親鳥と一緒に、インド行などの2000kmも0の遠距離距離を、さらにアフリカにまで行くのだそうです。8000〜9000mもの高いヒマラヤ連峰を越えるのです。


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 神さまは、生き物のえ種類に従って、生き延びるための「本能」を与えておいでです。1ヶ月で成鳥となり、3ヶ月ほどすると、渡りの群れに加わるのです。その寿命は、20〜25年ほどで、それだけの年月の間、渡りを繰り返すのです。帰巣本能は、創造主が与えられていて、帰るべき地に帰って行く時を心得ているのです。

 昨日、まだ巴波川に鴨たちが餌を認めて川面を泳いで、鯉と餌取りの争いをしている鴨の様子が見られましたが、もう残っている数は少なくなっていて、多くがすでに、シベリヤに帰っているのです。間もなく、残りも北帰行していくのでしょう。鴨の一生は、5〜10年ほどだそうですが、この群れも来ては帰るを毎年繰り返すわけです。一ヶ所に定着したと思うと、引っ越して行く私も、何か、「渡り鳥」に似ているのではないかと思うことがあります

『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」 また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。(新改訳聖書 黙示録21章1~6節)』

 人は、天、神の御元から下って来る、「新しい天」と「新しい地」に、永遠に住むことができるのです。としますと、天国に行くと言う表現よりも、実際には、やって来る「神の国」、永遠の御住まいに、死んでいた者は蘇って生き、生き残った者たちと共に生き続けるのです。悲しみの涙はぬぐわれ、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもなく永遠を、父、子、聖霊の神さまと共に過ごすのです。

 アネハヅルの翼を、茨木のり子は、「純白のハンカチ」でもあるかの様に詠み、上昇気流に自らの体を任せて、「無垢ないのち」の躍動を思ったのでしょう。生きるために、天空を舞い上がって、ヒマラヤの頂を越えて行くのです。そんな風に表現をしたのです。あんなに小さな体で、あの高度まで昇るほどに、神秘なことはありません。いのちの付与者が、その習性を与えられたからなのです。希薄な酸素、空気圧、マイナスの気温を考えるに、耐性を備えられた神の傑作に違いありません。

 それよりも、神に似せられて造られた私たち人は、神の最高傑作なのです。帰って行く「天の故郷」への想いを持って、多くの愛兄姉が、この馳せ場の地上を、定められた年月生きているのです。巴波川の鴨を見て、そんな思いにさせられております。

(ウイキペディアの「アネハヅル」」、「シベリヤ」、「ヒマラヤ」です)

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