畳一畳から永遠の広がりに

 一人の人の必要な空間は、五尺の体を横たえるのには、畳一畳ほどでよいのだそうです。そこに、布団を敷いて、横たわって眠ることができ、寝具を畳んでテーブルを置くなら、食卓になり、学生なら学習机にもなるのです。ある芸能人の家は、300坪だそうです。畳600枚を敷くことができる広さになるでしょうか。

 私が生まれた時には、6分の1畳もあれば十分でした。母が出産してくれた嬰児だった私は、3kgにも満たなかったはずです。村長さんの奧さまが、山の渓谷の狭間の参詣客用の旅館の離れの一室で、厳冬の師走の早朝4時35分に、自分を取り上げてくれたきとを、父の手帳を読んで知りました。それから学齢直前に、肺炎に罹って、街の国立病院に入院することもあったのです。

 国立病院の大部屋にあった、1畳ほどのベッドに寝かされて、治療を受けました。医師が、当時希少の輸入薬を取り寄せて投与され、母の手厚い付き添いの世話があって、一命を取り留められたのです。さらに病弱の小学校時代を過ごしましたが、恢復することができ、ちょっと小ぶりでしたが、兄たちに負けずに生長して行きました。

 あれやこれやがあって、80年の年月が経ちました。学ぶ機会を得て、社会人となり、中国の地にも仕事を得て出掛け、13年を過ごしました。中国の大地の2DKほどの借家に住んで、一畳よりも少し大きなベッドがあって、そこで休むことができました。これまで乗った飛行機でも、電車でも、バズでも、40cm平方ほどの椅子に座っていたわけです。

 そんな風に生きてきて、最後には、1畳にも満たない棺に、無理やりに収められてしまい、自分の足ではなく、担がれて家を出ていかなけばならないわけです。社会的な栄誉を受けて、表彰されてる、そんな機会を得ることもなく、誰にも悲しまれずに去っていく人もいます。やがて、その時が必ず、自分にもやって来るのを、覚悟しておかなければなりません。

『この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。 また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。 また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。(新改訳聖書1テモテ6章17-19節)』

 私たちの一生は、70年、長くても80年だと、聖書(詩篇90:10)は記しています。つまり、必ず終わりがあるわけで、その時のために、『未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。』と勧めています。まず心を「備える」ことに違いありません。l

 聖書は、終始、「永遠のいのち」のあることを語っています。時間的には永遠に、地理的には広大な世界が、待ち受けていることが約束されているのです。人を制限づけてきた限られた空間ではない世界が、私を待っていてくれると言い、そう自分は信じています。一畳、広くての1坪ほどの世界ではなく、宇宙大に広がる世界があると約束されているのです。

 今の自分の想像力では、理解し得ないほどの広大で、永遠の世界が待ち受けていると言うのが、聖書の使信のことば、約束なのです。母の胎に宿った日から、神さまの憐れみと恵みがあり、それで、病気や怪我や事故に出会っても、生きてくることができました。

『すべての人は、罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず、(ロマ3章23節)』

 ところが、人類の始祖アダムの犯した罪を、自分は継承していますが、その生まれながらの罪を悔い改めて、罪を赦される方法があるのを知って、17歳の時に悔い改めました。それで、自分は永遠のいのちに救われたと信じさせていただいたのです。それで、神さまの赦しを今も信じているのです。

 赦されるには、罪の「悔い改め」、イエスがキリストと信じる「信仰」が必要なのだと、聖書に記されていることを、母から聞かされました。母自身が、14歳の時に、カナダ人宣教師とに出会いを通して、信じていたのです。人の悪口を言わない、週刊誌など読むこともなく、かえって近所の弱い方をお世話していた母に育てられました。日曜日には、礼拝に出掛け、私たち兄弟四人を、母は引き連れて、教会学校にも連れて行ってもらいました。

 17歳で信仰を告白し、22歳でバプテスマを受け、25歳で聖霊のバプテスマを、自分は受けました。それからキリスト者として生き始めて、今日に至っています。何度も怪我をして入院をし、39歳の時には、臓器の摘出手術を受け、70過ぎて脳梗塞、心房細動などで入院加療をして、けっこう賑やかな病歴を重ねてきているのです。

 聖書は、人の一生を、次のように言っています。

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『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。(詩篇90篇10節)」

 もう、そろそろ死期を迎える年齢になりました。自分は、死と棺の向こうに、「永遠のいのち」に救われて、永遠を生きられると、信じています。正直、まもなく迎えようとしている未知の死への怖さはあります。しかし死の向こうに、私の霊も魂も肉体も、完全に守られ、神と共にある世界が待ち受けている、との聖書の約束を得て、安堵しています。

 だから、「恐るな」と言われる、救い主イエスさまのことばを聞くことができているのです。死が、「不死」を着ると言う、新約聖書第1コリント書15章59節の約束があるのです。神さまの創造の世界である宇宙を思う時、神のいますこと、救い主キリストの在すこと、聖霊のいますことを、今朝も信じ、これから迎える日の来るのを、心して待とうと思っています。

 そろそろ陽が昇ってきそうです。今日も猛暑の1日なのですが、まず散歩に出て、帰ってから朝食の準備をして、家内と食事をし、洗濯をして日常の Rotationを始めることにしましょう。子どもたちにも、今日も守られていると、チャットを送りましょう。

(” Christian clip arts “のイラストです)

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