防人の詠んだ歌を想う

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 国防上、倭(大和)朝廷は、大陸からの襲撃を防ぐために、九州の筑紫、壱岐で迎え打つために、主に東国の関東から衛兵を求めたのです。それで派遣されていた人を、「防人(さきもり)」と呼びました。中国の唐代の制度に倣(なら)ったのです。朝鮮半島の内乱であった、「白村江の戦い」に、古代日本の倭朝廷は、百済(くだら)を後押しして、兵を派遣します。

 しかし、隣国の争いに介入したはよいのですが、軍隊の形をなしていなかった倭軍は敗北してしまいます。この屈辱の経験から、国の防護を固くするために、兵力の増強や兵法術の強化を図ります。そのための用員を、関東から求めて、辺境の地であった九州防護の任に就かせたのです。

 小学生の頃、佐藤先生から、この歴史を学んだのです。「防人」ですが、防ぐ、予防などで学んでいた「防」の漢字を、「さき」と読み記すことが、難しく不思議でなりませんでした。漢字の持つ不思議さに驚かされたのです。地名もそうで、青梅を「おうめ」、福生を「ふっさ」と読ませるのにも戸惑った記憶があります。「ことば」が先にあって、それに漢字を当てたからだったのかも知れません。

 はるか古代に、防人のいたことは、強烈な印象をもって学んだ記憶があるのです。漢字が、「大陸」から、仏教と仏典の渡来で、伝えられて、「政(まつりごと)」の案件や記録や通達文などが記され、残されるようになっていきます。そのために紙が必要とされ、製紙技術も大陸から伝わってきています。口伝で言葉や命令が伝えていたのが、紙に記され、記録され、配布されて残されていったわけです。

 その防人たちが、和歌を詠んでいたのも驚きでした。「五七五七七の三十一文字」からなる和歌が詠めるほど、ことばの語彙(ごい)力が、当時あったことも驚きでした。防人の多くは、農民たちだったからです。ところが、「聖書」は、それよりも遥か以前に、記されてあって、その内容は現代にも、翻訳文で通じているのですから、驚きです。

 口承で伝えられ、記憶されていた創世からの人類の誕生と歴史、神の選民、ユダヤ人(イスラエル人)の歴史が、さらにはイエスさまの行動や教えが記録され、イエスさまの弟子たちの書き送った手紙や行動も、誕生した教会の進展なども記録され、送られ、読まれたわけです。

 文字として記されたのが、紀元前6世紀頃と、学問的に言われています。そして、旧約聖書の「死海写本」が、1947年頃に、死海の近くに位置しているクムラン洞窟で発見されています。学者たちの手で研究され、そして翻訳され、書写され、やがて印刷機が誕生して、印刷されたのです。私の手元にも、ヘブライ語、英語、漢語、日本語などに翻訳されたものがあります。

 完璧な言語、今と変わらない思想や言葉があって、心の動きがあり、互いに意思の疎通がなされているのです。21世紀の今と寸分違わない言葉が語られ、記されたわけです。それこそ神のことばの伝播と記録なのです。
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 さて防人ですが、彼らの詠んだ和歌が、「万葉集」として残されてあるのです。この本に魅了された、土佐藩の下級武士の鹿本雅澄(かもちまさずみ)は、この万葉集を研究した市井の研究者でした。この人の歌碑が、大山岬にあると聞きましたので、足摺岬に行く途中、車を停めて、そこに足を運びました。

あきかぜの福井の里にいもおきて 安芸の大山越えかてぬかも

 この和歌が刻まれているのを「愛妻之碑」と呼んで、土佐の海の波打ち際に立っていたのです。鹿持は、「徒士(かち)」と呼ばれた武士でしたが、50年の歳月を万葉研究に捧げて。「万葉集古義」をまとめ上げています。

 城内城下を離れた、この赴任地から、高知城下にいる夫人を思って、一首詠んだのです。どんな夫人だったのでしょうか。車では数時間で行ける距離、わらじ履きでは遠い地で、妻から離れて独り住まいをしていたわけです。

白浪のよろる浜辺に別れなば いともすべなみ八たび袖振る

 下毛野(栃木)、上毛野(群馬)、常陸(茨城)辺りから、家族と離れて、やって来ていた、勇猛果敢の防人たちの想いに、通じるものがあったのでしょうか。このように、防人たちは詠んだのです。遥か遠隔の地、箱根の坂の東「坂東(ばんどう)」とか、「関八州」といった東国から、西国の辺境の地の防備に、やって来ていた、足利(あしかが)出身の防人が、こんな歌を詠んでいたのです。

 故郷の家族を思う想いが、切々と詠まれたのです。太平洋戦争で、学徒出陣の若い特攻兵も、国を思い、故郷を思い、家族を想って短歌や俳句、詩や手記を残しました。

新しき光に生きんおさな子の 幸を祈りて我は散らなむ

 八十年前に、一人の特攻兵の残した短歌です。子を残して、殉じた若き父の子を思う想いに、心が震えてきます。この人たちの家族への想いがあって、われわれの世代は、平和な時代を生きることができて、今や八十になるのです。「戦後八十年」、何人もの同級の友たちは、父(てて)なし子でしたが、健気にこの年月を、精一杯に生きてきたことになります。

(ウイキペディアの「太宰府の跡地」、熊本山鹿市にある「防人の碑」です)

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