開聞岳

 

 

18才の夏休みに、友人が小倉と鹿児島にいて、彼らを訪ねて九州旅行をしました。宮崎、長崎、熊本、大分の各県に行きましたから、ほぼ九州全域を旅したことになります。學生の貧乏強行旅行でした。移動は電車とバスと船でした。実は、自動車の運転免許を取るために、父からまとまったお金をもらっていたのを、無斷で、この旅行に流用してしまったのです。ちょっと後ろめたい気持ちがあったのですが、おかげさまで、日本と歴史の探訪の旅ができたのです。

この写真は、鹿児島の薩摩半島の南端にある「開聞岳(かいもんだけ)」で、近くに長崎鼻という岬があって、実に美しい所でした。海の近くのキャンプ場の堀立小屋に泊まったのです。この開聞岳は、知覧や鹿屋(かのや)にあった特攻基地から、飛び立った特攻機が、沖縄に向かう折に、まず進路目標とされた山だったそうです。遠くからこの山を眺めつつ、この上空を飛んで、故国を後にした後、沖縄の上空で、多くの青年たちが散ったわけです。

 

 

それは私が生まれた頃の出来事でした。二十代の青年たちが、この作戦に命を捧げてから、ほぼ20年ほど経った時の旅行でした。平和な時代に育って、死など思うこともなかった私が、ただ『美しい山だ!』と思いながら、この開聞岳を眺めたわけです。二度と帰ることができず、死に逝ったみなさんと同世代でした。ただ、その折、「知覧」には行けませんでした。訪問を避けたのかも知れません。

今、半世紀前の旅行を思い返して、戦後の平和と、自由と、豊かさの中で育った自分たちと、そう言ったものを私たちが享受するために、多くの青年たちの命や青春や理想が、犠牲にされたわけです。ある人たちは、『無駄な死だった!』と言ったのですが、ギリギリで特攻を避けて生き残った元特攻隊員が、『われわれの仲間の死は、決して無駄な死ではなかった。少なくとも平和の時代をもたらすための礎だったのです!』とおっしゃった手記を読んだことがあります。

この「平和」と「自由」と「繁栄」への貴い代償があって、私たちは、戦後を生きてこれたわけです。様々なことがあった「昭和」が終わり、間も無く「平成」も終わろうとしています。できれば、もう一度、開聞岳を訪ねてみたいと思っています。その時には、特攻基地のあった「知覧」を訪ねてみたいと願っています。下の息子が、以前、「知覧茶」をくれたことがありました。掛川茶や森茶などと同じく、美味しいお茶でした。やっぱり平和って有難いですね。

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