<買ったけど読まなかった本>が数冊あります。そう言う本を<積ん読書>と呼ぶのでしょうか。その一冊は、1920年に刊行された、賀川豊彦が書いた「死線を越えて」でした。神戸の新川にあったスラムに入って、貧しく、差別されていた人たちに、「友愛」を示した青年期の体験を記した小説でした。百万部を売ったという、当時の大ベストセラーだったのです。その復刻版を、私は買ったわけです。
ところが、高級書で、硬いボール紙のケースに入っていたのを出すことも、ページをめくこともなく、書棚に置いたままでした。この人は、今では、全国に数え切れないほどある、「生活協同組合」を始めたことでも有名なのです。戦後、三度ほど、「ノーベル賞」の候補になったのですが、受賞されないままで終わってしまいます。
なぜ、その本を読まなかったかと言いますと、この人は「平和主義者」で名高かったのですが、戦時下、憲兵隊本部に呼ばれてから、自分の節(せつ)を曲げてしまったのです。アメリカにまで出掛けて、世界平和を、アメリカ国内を講演旅行して訴えた人だったのにです。その彼の語った「平和主義」を堅持する考えは、アメリカから拍手喝采を受けていました。ところが、「憲兵隊での九日間」で、日本の戦争は聖戦であって、天皇のために勝利しなければならないという立場に、この人は鞍替えをしてしまったのです。
国全体が、日本人の全体が、国策や国体に賛同していたのですから、この人の変節も分からないではありません。でも、強固な平和主義者が、急転直下、反対の立場についた、その<不徹底さ>が、この人にあったことが分かって、読もうとする願いを削いでしまったわけです。終始一貫、賛成でも、反対でも、自分の態度を変えないのが、人の道だと、若い私は思っていたからです。
私の学生時代の恩師は、国家総動員法違反で、収監され、酷い拷問を受けました。私たちを教えてくれた頃も、杖をつき、講義中に、顔を引きつらせることもあるほどの後遺症を持っていました。恩師は、節を曲げずに、戦時中が獄舎の中で過ごし、終戦を迎え、学部長をされた後に、退官されました。
この人は、戦後になって、平和主義者を偽装したことを糾弾されていますが、自分の戦争責任に対しては、沈黙したまま亡くなっています。これは、私個人の賀川観であって、彼を誹謗中傷しようとするつもりはありません。この人を尊敬する人は、それで好いのだと思います。あの時代の憲兵の迫りと言うのは、きっと先年観た映画の「沈黙」に登場する、長崎奉行の様に、人間性の底に触れるほど、変節せざるをえないほどにきついものだったのでしょう。
念のため、1943年11月の九日間に記した、「賀川書簡」をご紹介します。『・・・私の名を貴会(戦争反対者同盟)より削除されたい。思うに米国は・・・日本経済を死滅に導くことを敢えてした。その瞬間、私は永年持っていた平和論を太平洋上に捨てざるを得なくなった。(出典「戦争責任・戦後責任」62頁)』、この人は私と同窓なのです。
.