私のアメリカ人の恩師が、熊本の阿蘇に近い街に、しばらく滞在していたことがありました。そこは熊本から阿蘇を通って大分に至る街道沿いにある旧宿場町でした。今では熊本市のベッドタウンとしての機能を果たし、熊本空港も近くにあります。この方の友人の帰国中に、その留守を申しつかっての滞在中でした。結婚したばかりの私は家内と一緒に、この方を訪ねたのです。教師をしていた時の夏休みにでした。
彼を慕う中学や高校生たちが、そ留守宅に出入りしていていました。阿蘇の麓でキャンプをしていた時でしたので、私たちも一緒に参加しました。それは、私の人生を、大きく変える訪問であったのです。次の年に長男が生まれ、この方の新規事業の助手として、生きて行く決心させた訪問でした。今は、その熊本郊外での事業を、私の友人が受け継いでいて、何度も何度も訪ねてきています。
昨秋も、この友人を訪ね、旧交を温めることができ、あの大きな地震で崩壊した熊本城の城壁や益城町の被害の様子を案内してもらいました。熊本といえば、三十歳の夏目漱石が、第五高等学校(現在の熊本大学)の教授をしていた街で、その滞在期間の経験から、あの名作「草枕」が書き上げられています。漱石は、度々、熊本藩士で、剣道指南をしていて、維新後は民権運動をしていた前田案山子の別邸のある、「小天(こあま/現在の玉名市天水町にあります)」を訪ねています。
この前田案山子(かかし)のお嬢さんとの出会いが、その「草枕」の中に描かれているのです。漱石の手で、そのお嬢さんと主人公の画工(えかき)とのやり取りを、幽玄に記しています。文豪と言われる漱石の描写力には、息を飲まされてしまいますが、流石(さすが)に、「明治の文豪」とか、日本語を形作った文筆家とかで、千円札に描かれるに相応しく、筆を振るった漱石です。
その「小天」の前田別邸は、辛亥革命を導いた、孫中山(孫文)、その同志の黄興たちも滞在していて、彼らを物心両面で支えた宮崎滔天(とうてん)の夫人も、前田案山子のお嬢さんだったそうです。不思議な巡り合わせが、歴史を作るのは、実に興味深いものがあります。肥後熊本の片田舎と、「国父」と仰がれる孫文と同志たちと、微妙に結びつくいていることになります。一国の命運を左右する様な語り合いや、互いの信頼の再確認が、そこでなされたのでしょう。
昨年札幌に入院中、リハビリセンターの責任をとっていた理学療法士の方が、『私のお婆ちゃん夫妻が、孫文と関わりがあったんですよ!』と言っていました。北に南に、狭い日本が、広大な大陸中国と、細やかな繋がりが歴史の中に見られるのも、歴史の妙なのでしょう。いつかまた熊本に行ったら、今も残る「小天」の湯に、そんなことを思い返しながら、ゆったり浸かってみたいものです。
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