行く十月

 

 

このところ、友人やお嬢さん、兄や婿殿が、病んだり、手術をしたりでした。またこちらの友人たちやご家族の中に、癌や甲状腺の手術を考えておいでだったりする方がおいでです。そうこうしている間に、十月の最後の日になりました。癒えたり、快復したりを願っております。

まるで、月が羽根を生やした様に飛び過ぎて行きます。この写真は、小谷村の付近のススキ野の風景です。向こうに針葉樹林が見えます。こうやって秋が深まり、冬を迎えるのです。壁のカレンダーですが、最後の一枚をめくらねばなりません。2018年も二ケ月を残すのみとなります。

季節の変わり目に、私こと、ちょっと体調を崩してしまいましたが、例年のことで、もう大丈夫です。それにしても、《吾妹子(わぎもこ》は至極元気です。好い人々と出会ったり、美味しいものを頂いたり、素敵な十月でした。くる月も、そんな月であります様に。

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お芝居

 

 

これまで普段は、することのない経験を、偶然にでしたが二度ほどしています。一度は、小学校6年の「林間学校」で、五日市のお寺に泊まって、自然観察をした時でした。決して、お化けが出てきたわけではありません。東映映画の撮影隊が、このお寺の墓場を使って、時代劇の一場面を撮っていたのです。当時、東映映画は、時代劇専門の会社で、立川の東映の封切映画館には、何度出かけて、映画を観たか分からないほどでした。

その撮影現場に、俳優の「大友柳太朗」がいて、初めて「映画スター」の実物を見たのです。よくスクリーンで知っていた俳優でしたから、いつまでも見ていたかったのですが、そうはいきませんでした。浪人風の男を演じたら、この人の右に出る俳優はいないほどの、名優だったのです。何という題名の映画だったのかを聞かずじまいだったのが、大変残念でした。まだ、映画の舞台が撮影所にできる前だったのでしょうか。江戸時代を、昭和の五日市で撮影しているという不思議を、この目で見てしまったわけです。

もう一度も、テレビや映画でおなじみの「丹波哲郎」の、撮影風景でした。八王子の料亭ででした。勤めていた研究所の上司に連れられて食事に行った時に、テレビの番組の撮影が、一間に、照明器具が満ちこまれ、驚くほどの人数の撮影スタッフが、煌々(こうこう)たる照明の中で行われていたのです。テレビ番組も、テレビジョンの中で観るから、邪魔な物が見えないわけで、もう大人でしたから、<芸事>を、監督のOKがでるまで繰り返しているのを見て、俳優も撮影スタッフも、やってみたい仕事だと感じませんでした。

虚構の世界というのでしょうか、テレビの時間帯を埋め、視聴率を得るために、激しい競争の世界なのだと、大人の目で見られる様になっても、時代の錯覚の中で、まるで当時が再現されているかの様に、一喜一憂してしてしまうのは、脚本、芝居の作り方、演技、撮り方、編集などが上手なのだからでしょうか。

夢の売り手、夢の買い手がいて、夢に感動したり、泣いたり、笑ったり、憎んだりしたりがあっての世界なのでしょう。でも人生は、お芝居や映画ではなく、現実の、ただ一回きりの世界なわけです。これまで、ずいぶん多くの人と喜びの出会いをし、悲しく、また残念な別れをしてきたものです。『大丈夫かなあ?』と思ってしまう人が、何人かいます。彼らも、逆に、そう私のことを思っているのかも知れません。確かに、お芝居なんかではないのです。

(愛媛県今治市関前村・岡村港の風景です☞[HP/里山を歩こう])

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