クコ

 

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これは、「枸杞子(クコ)」の「花」、「果実」、「乾燥した実」の写真です。わが家の乾物ケースの中には、常時、この乾燥した「枸杞子の実」があり、スープを作る時に、家内は、これを入れています。中国の家庭の常備の乾燥滋養食材です。こちらの多くの方は、水筒持参で通勤、通学しますから、その水筒の沸かしたお湯の中に、薬草などの体によい乾燥した実や葉を入れます。この「枸杞子の実」も、よく使っているのを見掛けます。

こんなに綺麗な花を咲かすことを、[HP/里山を歩こう]が知らせてくれました。広島県の呉市安浦町の山に咲いているそうです。秋の花には、紫や黄色の花が多いのでしょうか。今頃の里山をハイキングで歩いたら、気持ちが好さそうですね。高尾山から相模湖に抜けるコースは、何度歩いたことでしょうか。 しばらく、この街の森林公園や、そこからのハイキングコースを歩いていませんから、秋晴れの日に、「おにぎり」をザックに入れて歩いて見たいものです。その折、「枸杞子の実」入りの水筒を持参しましょうか。

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けじめ

 

 

日本文化の特徴的な一つは、上と下、右と左、内と外、公と私とを、はっきりと分けることにあるのでしょう。背広にネクタイを着て職場に出て行った主人は、帰宅後、Tシャツにバミューダショーツや甚平に着替えたり、また外で履いた靴を脱いで、裸足で家の中を歩くと言った様な変化を厭わないのです。今は、「公」の自分ではなく、「私」の自分だという主張をしたいのです。

こちらの学校で教え始めた時、学生が、教室に入ってくる時、『おはようございます!』、帰っていく時、『さようなら!』と言わないことが気になったのです。「礼」の国で、その「礼」を身につけていた私は、戸惑ったのです。それで、日本文化と日本語を教える身として、私は、こちらから、挨拶の言葉で学生を教室に迎え、そして送ったのです。どの学年の学生も、最初は戸惑っていましたが、やがて、それが習慣化していったのです。

この日本人の感じ方というのは、《けじめ》の有無なのでしょうか。どうも私たちは、《けじめ》無しには、事を始めたり、終わったりできない文化や習慣の人間の様です。この《けじめ》は、動詞になって、「けじめをつける」という使い方をするわけです。

長年勤め続けた会社を辞める時に、その内外で関わりを持った方たちに、「挨拶回り」をして、会社勤めの、「けじめをつける」わけです。そうしないと、退職後の生活が始まらないと感じるからなのです。若い世代の人たちは、《けじめ》をつけられないで、いつの間にか消えて、去って行ってしまう傾向が強いのです。これって、後腐れがなくて、ドライでいいのでしょうか。

でも私たちの世代は、何か中途半端で終わってしまう<もどかしさ>を感じてしまうのです。最近有名な女優さんが亡くなられました。私たちの世代の方で、ご病気が分かってから、ほぼ10年の間、《けじめ》をつける、周到に「終活」をされていた様です。でも、“フワッ”と消えていくのもいいかなって、最近、私は思うのです。

どうしてかと言うと、《けじめ》をつけることに縛られてしまって、もっと大切なことをし忘れる事だってあるからです。遺品を調べていて、夫の秘密が暴露されて、その慌てぶりを天国で、”ワッハッハッハ“と笑ってしまうのもいいかなと思うのです。

書庫に残された本のページの間に一万円札や100ドル札を見つける喜びを、妻や子に与えるのも、いいかも知れませんね。借金はないし、あるとしたら約束不履行が、この私にはあるかも知れません。幼い男の子が、『カレーをご馳走するね!』と、私が言った言葉を覚えていていました。ところが私は忘れていたのです。それで上海に、お父さんが転勤する前に、わが家に食べに来たことがありました。あの子は、まさに「けじめの子」でした。

昔、『どっか連れてって上げるね!』と家内に約束したことがあった様ですが、まだ果たしていないかも知れません。《けじめ》のためではなく、「約束」だけは果たしておきたいものだと思う、秋色の濃くなりつつある今日この頃です。子どもたちとも約束したことがあったでしょうか。

(懐かしい秋の味覚の一つ「アケビ」です)

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