エンジェルトランペット

 

 

この街にやって来て、二度目に住んだ家の庭に咲いていた「エンジェルトランペット(天使のトランペット)」です。師範大学の教員住宅でした。ちょっと湿気が強かったのですが、静かな住宅で、裏戸を開けると庭があって、そこに金木犀や、名を知らない野花などが咲いていました。

隣に、小学生になったばかりの男の子がご両親とおじいちゃんと住んでいて、『爷ye!!』とおじいちゃんを呼ぶ声がいつもしていました。もう中学生になっていることでしょうね。表の庭の石の椅子とテーブルで、漢字練習に宿題をやっていて、実にしっかりした漢字を丁寧に書いてました。

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これ

 

 

『これさえあれば、他には何もいらない!』と言う《これ》が私にあります。「愛」とか、「夢」とか、も少し現実的には「お金」とかが考えられそうですが、食べ物のことで、《蜆の味噌汁》なのです。美味しい和牛とか、中トロの刺身とか、子牛肉のシチュウとか、あればうれしいのですが、空腹の私にとっては、ただ《しじみの味噌汁》と、炊きたてのご飯さえあれば、満ち足りるのです。これに二切れ、三切れの沢庵があればなおよろし、ですが。

今、こんなことを、iPadに打ち込んでいる間に、もう唾液腺が活発に働き始めてしまっています。貧乏性なのかも知れません。しかし、体が必要を覚えていて、これを要求するのでしょうか。この街にやって来て、学校で日本語を教えていた頃に、次の授業まで、時間があったので、近くの川辺を散歩していたのです。街を南北に新市街と旧市街に分けている河川でした。その川の流れの曲がった浅瀬で、何人かの人が、蜆漁をしていたのです。

今は驚くほど綺麗になったのですが、当時この川の水質はひどかったのです。そこで獲ったシジミが、市場で売られていたのでしょう、それとは知らないで、『ここにも蜆がある!』と歓喜しながら買って帰って、味噌汁にしてもらって、この街で飲んで感激していたのです。それが、この光景を目の当たりにした後の私は、二度と市場で、その蜆を買うことをやめてしまいました。

 

 

父が好きな豆腐や次兄の好きな里芋の具の味噌汁が多かったのですが、きっと母が好きだったのでしょうか、ときどき、《蜆の味噌汁》を作ってくれました。実は母の故郷は、蜆漁のメッカの「宍道湖(しんじこ)」のそばの出雲の出身ですから、ご当地特産の蜆が好きだったはずです。当時は、化学的な出汁(だし)がなく、何時も煮干しで出汁を、母がとっていたから、だから美味しかったのかも知れません。

これを弟も好きなのです。母の縁故の方が出雲にいて、夏場には、鳥取の「二十世紀梨」、暮れには「出雲蕎麦と野焼き(かまぼこ)」を、毎年送ってくれる方で、四人の兄弟全員に、そうしてくれていたのです。未だに、そうしておられるそうです。戦時中、予科練に行かれて、終戦後は、父の事業を手伝ってくれた方で、我儘な私を泣きながら、負ぶってくれた、私には恩人です。屈強の若者が泣くほど、辛いことをしてもらったわけです。この方を訪ねた時に、思いっきり 「蜆料理」を満喫してきたと、弟が言っていました。聞いただけで、垂唾(すいだ)してしまったほどです。

『よーし、今度帰国したら、思いっきり・・・』と考えている 、窓から金木犀の匂いが入り込む、華南の秋の「食いしん坊」の夕暮れです。もう十月も、来週からは下旬ですね。好い日曜日をお迎えください。

(宍道湖の蜆漁です)

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