ユリ

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埼玉県所沢市にある「百合園」に咲く、「百合の花」です。西武球場の近くにあるそうです。わが家の子どもたちと近所の子を連れて、西武ライオンズの応援のために、9人乗りの"バン"に乗せて、その近くに、何度出かけたことでしょうか。30年以上も前のことになります。

その近くに「百合園」が、当時もあったのでしょうか、気が付きませんでした。狭山丘陵の中に、自生してるのでしょうか、それとも人工的に作った園なのでしょうか。
父の家が、中央高速道路の建設にために、立ち退きになって、引越しの候補先の所沢に、家を探したことがありました。50年以上も前のことで、まだ、そこは農村でしたが、今は、東京通勤圏のベッドタウンになっています。

「ヒマワリ園」とか、「バラ園」とか、何十万株も植えて、圧倒させられて、人々の目を楽しませる様ですが、ひっそりと谷間や山の麓に咲く花も、健気でいいですね。
「里山を歩こう」に、昨夕投稿のあった写真です。

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祖父

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こちらの子どもたちは、二組の祖父母がいて、父方か、母方の祖父母が同居したり、近くに生活して、よくお世話をしている光景を目にします。ところが私は祖父母の顔を知りません。一緒に生活をした事も、訪ねた事もないのです。ただ、「端午の節句」に、"ちまき"を毎春送ってくれた母の養母には、母の古里を訪ねた時に会って、数日一緒に過ごしたことはあります。《血の繋がり》こそありませんでしたが、《心の繋がり》を感じさせてくれる好い方でした。おぶってもらったり、手を引いてもらったことはないのです。

祖父の世代に、「広田弘毅」という方がおられました。第32代の首相をされ、「東京裁判」で、南京事件の責任を問われて、処刑された政治家でした。この方の評伝が何冊も書かれています。城山三郎は、小説に、この広田弘毅を取り上げて、「落日燃ゆ」を書き残していて、一気に読了してしまいました。すでに故人ですが、私が祖父の様に思いたい人なのです。

人柄としては、「春風接人」と言われたほど、怒ったりすることのない、まるで「春風」を感じさせる様な生き方の人だったそうです。ユーモアのある方で、飄々(ひょうひょう)とした方だった様です。閑職に追われ、オランダで外交官の職にあった時には、「風車 風の吹くまで 昼寝かな」と俳句を読んで、オランダやソ連などのヨーロッパ事情を研究したようです。

また、《家族思い》の人でした。ご家族と過ごされた様子が、彼の人となりを、よく表していた様です。血筋や家柄で選ぶのではなく、故郷の普通の家庭の女性と結婚されています。そいして結婚された奥様との生活も、実に穏やかだったのです。「東京裁判」の公判中には、お嬢様が、いつも傍聴席にあったのです。「死刑判決」が出された後、家族宛に書かれた手紙の内容は、圧巻だそうです。

会ったことのない、『自分の祖父は、どんな人だったんだろう?』と祖父像を思い巡らせていると、父の手を引いて、日曜日ごとに街の倶楽部に出掛けたと言う、祖父の様子を思い浮かべたりするのです。夏休みになって、いつもは登下校とお昼に送り迎えしている、この街の小学生のおじいちゃんおばあちゃんをみかけないのですが、きっと、子どもたちの好い思い出作りがなされているのだろうと思ったりしている、酷暑の夏の朝です。

(横須賀市の海岸地帯です)

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ロケット

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小学校の時に、ノートに挟んで使っていた、下敷きのセルロンドを細く刻んで、鉛筆のアルミ製のキャップに詰め込んで、《ロケット発射実験》をして、よく遊びました。極めて危険でしたが、怪我をしなかったのが不思議なほどでした。その頃、《科学する心》があったのだと思います。

小さな頃は、家の中にある機械を、ドライバーやペンチで解体するのが面白くて、結局直さずに壊していたのだそうです。あまり記憶はないのですが、鋏を持たすと、なんでも切り刻んでしまっていた様です。きっと、そう言う行動には、きっかけがあった様です。

小学生の頃、湯川秀樹に匹敵する科学者に、糸川英夫という科学者がおいででした。"航空ロケット"を研究していた方で、私の父と、ほぼ同世代の方でした。学習雑誌に、この方がよく取り上げられていて、《科学への夢》を持たせてくれたのです。《宇宙工学の糸川》は、敗戦後の少年に取っては、憧れの的でした。この方は、"ロケットの父"と呼ばれていたのです。
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今、"JAXA(Japan Aerospace eXploration Agency/宇宙航空研究開発機構)"が熱い様です。日本の航空工学は、世界の先端を歩んでいるのではないでしょうか。鹿児島県内之浦町の"宇宙センター"からは、宇宙衛星が、たびたび打ち上げられ、常に成功しているのです。あの探査機の"はやぶさ"です。それは、糸川英夫が開発した、<直径1.8cm、長さ23cm、重さ200グラム>の"ペンシルロケット" が発端でその実験場が、東京都国分寺市にあったのです。

その小さな始まりが、宇宙に確固たる足跡を残して、今があるのです。『少年に夢を!』と、夢を与えてくれたことを思い起こして、感謝しています。お金も何もない少年が、その真似事で作った、"鉛筆キャップ・ロケット"だって、"昭和の子"にとっては、かけがいのない宇宙への挑戦であったわけです。数学がまあまあ得意で、科学する思いがあったのに、その道に進まなかったのが、今になって不思議です。

("ペンシルロケット"と糸川英夫、「内之浦宇宙センター」です)

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オニヤンマ

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「オニヤンマ」が、空を飛んでいる写真に、子どもの頃が思い出されます。目玉がギョロリと大きくて、格好良さに惹かれて、よく追いかけて、時には捕まえることができました。初夏には、もう飛んでいるのですね。その下は「オオルリソウ」、そして「セッコク」、昨夕、配信してくださった「HP 里山を歩こう」にありました。

これらの写真は、高知県安芸市で撮影されたとのことです。ここは、よくプロ野球の球団が、春のキャンプをする町だったでしょうか。先日アップした記事の中に、鹿持雅澄を取り上げたのですが、この方が10ヶ月、単身赴任し、愛妻のために歌を詠んだ町でした。

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奮発



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これまで。ちょっと《奮発》したことがありました。それは、《テニススクール》で、初歩からテニスをトレーニングすることでした。それまで、兄の友人たちが、ゴルフをしない代わりに、テニスをしながら、《二重の打ち合わせ》をするという交わりを、春秋に泊りがけでもっていたのです。それに誘われて、何度か参加していたのですが、<素人テニス>ではいかんともし難かったのです。それならば、『基礎から学んでみよう!』の《奮発》でした。

街のテニススクールに、小学生の頃に、私たちの家に出入りしていたお嬢さんが、全日本級のテニスプレーヤーになっていて、その時には、競技から引退して、コーチをしていたのです。このコーチの他にも、優秀な競技歴を持つコーチがいて、上手なレッスンで基礎を教えてもらったのです。そのせいで、好いボール返しができる様になって、けっこう球筋も好くなって来ていました。

ところが、2年にわたって、両足のアキレス腱を切る怪我をして、2年目に、そのスクールをやめてしまったのです。あのまま続けていたら、<おじさん大会>にも出れたかなと思えたほどでしたが、断念せざるを得ませんでした。でも、勝つための運動をしてきた私が、楽しんでするテニスをやり始めて、本当に楽しかったのです。

時には、ネットすれすれ、ラインすれすれに打てる様になって来ていたのです。クラスメートは、おばさんたちがほとんどでしたが、それが楽しかったわけではありません。上手にボールを打てた時の《音》が爽快だったのです。アメリカンフットボールでも野球でも、楽しんでやれたら、最高なのですが、<勝ちに行く>と、楽しさが半減してしまうのです。

今日日、反則をし、審判を殴打し、賭け試合に誘惑されてしまい、結局は、しなかった方が良かった、と言うことになってしまうのです。一緒にやっていた頃に、上のクラスに《七十代》の”格好いいおじいさん“がいました。私は四十代の後半でしたが。親が楽しんでいたので、子どもたちに伝染してしまった様で、みんなし始めてしまいました。

このテニスのきっかけは、『どんな運動がいいかな?』と弟に聞いたところ、彼の推薦してくれたのが《テニス》でした。今でも、きちんとウオーミングアップをすれば、できるかも知れません。『年齢に応じてできる!』と言うのが弟の弁でした。<壁打ち>をしたくて、見つけるのですが、どこにもないのです。歩いて20分ほどのところに、運動場の隅に、コートが4面あります。いつも2面ほど空いているのです。相手がいなくてはできない”テニスしたい爺“です。

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さくらんぼ

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確かに、あれは「さくらんぼ」だったと思うのです。通っていた小学校の校庭に、映写幕が張られ、よく映画会が開かれていた頃の一つの映画の中に、この「サクランボ」が出てきたのです。それは食べたことのない果物でした。あの頃は、スイカ、梨、桃、葡萄、みかん、柿、時々のバナナくらいだったでしょうか。よその家の庭先で、グミ、イチジク、木苺、いちごなどは、<無断失敬喰い>をしていたでしょうか。ごめんなさい!

映画の中の農村は、東北、多分山形県だったと思いますが、そこで栽培され、収穫されていたのが「桜桃(おうとう)」と呼ばれていた、私にとっては未知の果物でした。実に美味しそうでしたが、手に入る術を知りませんでした。ただ、『食べてみたい!』と指をくわえました。住んでいた街の目抜き通りには、今の様に「果物屋」などありませんし、八百屋の隅に、わずかに"高級そう"に置かれていただけでした。あれは、誰が食べていたのでしょうか。

「チェリー」が、日本に入ってきたのは、明治の初めだそうです。あらゆる産業分野で、《お雇い外国人》の技術者が、やって来られて、農業も工業も、欧米式なものが移入されたのですが、この「さくらんぼ」も例外ではなく、農業の振興のために栽培された様です。北海道で栽培が始まり、東北などに広まったと言われていますから、山形で正解でしょうか。

そんな高価な果実が、酒場のカウンターに置かれていて、客が、取っては食べ、取っては食べを繰り返します。家には、子育てで大変な妻と三人の子どもがいるのです。妻子たちに食べさせることを考える余裕などなかったのです。家事や育児の手伝いもしない、そんなで創作意欲はなくなっていて、やがて自死してしまう、太宰治が、その「桜桃」を食べていたのです。同名の小説に、太宰は書き残しています。

私は、初めて「サクランボ」を食べた日のことは覚えていませんが、タネが気になり、実の少ないのが、ちょっと不満でしたが、美味しかったのは事実です。アメリカ産の「チェリー」が、こちらでも山積みで売られていますが、山形や山梨で収穫されたものは、甘味と酸味が程よくて、実に美味しいのです。もう、そんな「さくらんぼ」の出荷の時期になっているのでしょうか。

山東省の出身の方が、何年か続けて、その日本産と同じ品種の「サクランボ」を持ってきてくれたのですが、今年は、どうでしょうか。最近は、会う機会がありませんから、どうかなの6月末です。

(これは「ナポレオン」と言う品種のさくらんぼです)

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やきとり

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札幌で入院生活をして、真冬の吹雪がどんなものかを、四月の半ばに経験させられたのですが、因習を感じられない開拓地の雰囲気が、札幌には、いまだに残っているのを感じました。滞在中の街中や、北海道人にお会いしてです。お会いした人たちに、『こちらには元々はどちらからいらっしゃったんですか?』とお聞きしたのですが、病院のリハビリの療法士のお一人が、『岐阜からです!』と答え、父でも先祖でもない、『私一人で学びに来て、ここで仕事を見つけたのです!』と言ってました。

みなさんから、“開けっぴろげさ”をあまり感じなかったのは、寒い冬を過ごして生きてこられたからでしょうか、“沈思黙考”で、静かな方が多かった様です。もちろん人の性格は、気象や地形位置に左右されているばかりではないのですが。ものすごく明るい方もおいででしたし、短期の滞在で感じたことに過ぎません。

6ヶ月検診に行きました帰りに、遠距離バスで、函館に行きました。広さを感じると同時に、家と家との境界線に、塀や垣根がないのが、私たちが住んで来た街との違いでした。『俺の!』という自己主張の強さのない、“拘りのない鷹揚さ”を感じて、いっぺんに北海道贔屓になってしまったのです。

それで”終の棲家(ついのすみか)“は、北海道が好いと思ったのです。そうしましたら、ニセコから来ていた病友が、『嫁の実家が土地をたくさん持ってるから、話して上げるよ!』と、移住の誘いをしてくれたのです。

ある方は、『道南の伊達市は、雪も少なく温かくて住み好いですよ!』と推薦してくれました。それで、バスの窓から、伊達市の街外れの高速道路から街並みを見ていたのです。有珠山(うすざん)の山麓が海に迫る間に、街が広がって、穏やかそうでした。でも札幌にも函館にも、けっこう距離があって、大変かなとも思ったのです。

室蘭出身の男性看護師が、『室蘭は、“やきとり”が名物なんです!』と、どこどこが美味しいと、店まで教えてくれ、故郷自慢をしていました。この“やきとり”は、鶏肉ではなく、“豚のロース肉”と玉葱の串焼きだそうです。どこかで“焼きトン”を食べたことがありますが、きっと、その室蘭名物に真似たものだったかも知れません。

でも、遠いですね。静かに老後を生きるのには、最適かも知れません。青森から、津軽海峡を命懸けで渡った人たちの”開拓者魂“、“不屈の精神”には頭が下がります。「オホーツク文化」への興味も尽きませんから、オホーツクの風に誘われてしまいそうです。

先頃のニュースで、この室蘭と東北の港町、宮古との間に、定期航路が就航したと伝えていました。10時間の所要時間で、室蘭から船内で一泊して宮古港に着くそうです。運転免許証を持たなくなった身には、船やバスや列車がいいですね。ちょっと里心がつき始めているのでしょうか。それにひきかえ家内は、こちらでの生活を満喫しています。

(室蘭港から有珠山の遠望です)

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ヒメジョオン

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上は「アカバナユウゲショウ(赤花夕化粧)」、下は「ヒメジョオン(姫女菀)」です。東広島市に咲く花です(☞HP「里山を歩こう」から)。上手な撮影技術に、写真を楽しませていただいています。こんなに多くの種類の花々が、野や里に、ひっそりと咲いているのに驚かされます。

ただし、「姫女菀」は、アメリカ原産の外来種で、旧国鉄の線路沿いに咲くので「鉄道草」とも言われ、日本全国に瞬く間に広まったそうです。小学校の登下校に、この時期に、道の脇に咲いていた花なのだそうです。”ウイキペディア"に、そう解説されていました。

小川の岸や田んぼの畦の叢(くさむら)や藪(やぶ)の中に、小さな花を見つけられると、遠写や接写をなさるのですね。大変なご苦労があるのを感じて、読者は楽しませていただいていることになります。ありがとうございます。

家内の蔵書の中に、「ファーブル昆虫記」の全集がありましたが、13回も引越ししている間に、どなたかに上げてしまって、なくなってしまいまし。 時々眺めていました。花の辞典もあるのですね。世界には、どれほどの花があるのでしょうか?

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ジャカランダ

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上は、パキスタンのイスラマバードに咲く、“ジャカランダ”と言う花です。下は、南アフリカに咲く花です。カルフォルニアやフロリダにも咲くのだそうですが、実に高貴な紫色をしています。実に綺麗な紫色で、下の写真は、宮崎県日南市に咲くジャカランダです。日本では六月に咲くそうです。

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鹿持雅澄

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私たちの住む街の「空港」は、海岸沿いにあります。そこから南の方に行ったところの海岸線が、実に美しく、広く、凪の日は静寂なのです。大陸が広大だからでしょうか、砂浜も延々と続き、圧倒されてしまうほどです。日本の千葉の「九十九里浜」を彷彿とさせるほどですが、この街の海岸線のスケールの大きさは、この街の「雷鳴」の轟の物凄さに匹敵するほど、人を圧倒させます。

山育ちの人間には、「憧れの的」でしょうか、海を見ると、"ホッ"とさせられるのです。相模の海沿いで育った「父の血」を引いているのもあるのでしょうか。それとも、引いては押してくる波頭の砕ける「汐の音」が、母親の胎内で、9ヶ月聞き続けてきた音に似ているからでしょうか、海が愛(いと)おしく感じてしまいます。

土佐の高知に行きましたとき、「室戸岬」まで、レンタカーを運転して、出掛けたことがありました。そこの海岸線も延々と続き、沖には「潮吹く鯨」は見えませんでしたが、引き込まれそうな海で、心癒されてしまいました。そこに行きます途中に、「大山岬」があって、その岬に、江戸期の万葉集の研究者の鹿持雅澄(かもちまさずみ)の歌碑がありました。

鹿持雅澄について、"人名辞典"に、「1791-1858 江戸時代後期の国学者。寛政3年4月27日生まれ。中村世潭に儒学を,宮地水渓に国学をまなぶ。土佐高知藩校教授館の写本校正係としてつとめながら,大著「万葉集古義」を完成させた。安政5年8月19日(一説に9月27日)死去。68歳。土佐出身。初名は深澄。通称は源太,藤太。号は古義軒,山斎,醜翁。姓ははじめ柳村,のち飛鳥井とも。著作はほかに「古言訳通」「万葉集紀聞」など。」とあります。

土佐藩の下級武士だった鹿持雅澄は、奥さんを高知城下に残して、「浦役人」として、10ヶ月ほど単身赴任していました。その時、妻を思いながら、数首の和歌を詠んで残しています。その一首です。

秋風の 福井の里に 妹をおきて 安芸の大山 越えがてぬかも

この「妹(いも)」とは、姉妹の妹のことではなく、「妻」のことで、「菊子」と呼ばれていました。万葉の研究者であり、歌人でもあった雅澄は、赴任地からはるかに高知城下に思いを馳せて、《妻恋の歌》を詠んだ、「愛妻家」でした。

天津にいました時に、「周恩来記念館」に行った時、やけに若い二人が多かったので、いぶかしく思っていました。中に入って分かったことは、周恩来夫妻は、若い二人にとって模範なんだそうで、この夫妻にあやかりたい二人が、結婚前に多く訪れていたわけです。周恩来や鹿持雅澄の故事から、結婚が上手くいかないご夫婦は、このお二人にあやかって欲しいものです。我らは、47年の山谷を越えてきました。

(高知県安芸地方の「室戸岬」の周辺に写真です)

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