鹿持雅澄

.

.
私たちの住む街の「空港」は、海岸沿いにあります。そこから南の方に行ったところの海岸線が、実に美しく、広く、凪の日は静寂なのです。大陸が広大だからでしょうか、砂浜も延々と続き、圧倒されてしまうほどです。日本の千葉の「九十九里浜」を彷彿とさせるほどですが、この街の海岸線のスケールの大きさは、この街の「雷鳴」の轟の物凄さに匹敵するほど、人を圧倒させます。

山育ちの人間には、「憧れの的」でしょうか、海を見ると、"ホッ"とさせられるのです。相模の海沿いで育った「父の血」を引いているのもあるのでしょうか。それとも、引いては押してくる波頭の砕ける「汐の音」が、母親の胎内で、9ヶ月聞き続けてきた音に似ているからでしょうか、海が愛(いと)おしく感じてしまいます。

土佐の高知に行きましたとき、「室戸岬」まで、レンタカーを運転して、出掛けたことがありました。そこの海岸線も延々と続き、沖には「潮吹く鯨」は見えませんでしたが、引き込まれそうな海で、心癒されてしまいました。そこに行きます途中に、「大山岬」があって、その岬に、江戸期の万葉集の研究者の鹿持雅澄(かもちまさずみ)の歌碑がありました。

鹿持雅澄について、"人名辞典"に、「1791-1858 江戸時代後期の国学者。寛政3年4月27日生まれ。中村世潭に儒学を,宮地水渓に国学をまなぶ。土佐高知藩校教授館の写本校正係としてつとめながら,大著「万葉集古義」を完成させた。安政5年8月19日(一説に9月27日)死去。68歳。土佐出身。初名は深澄。通称は源太,藤太。号は古義軒,山斎,醜翁。姓ははじめ柳村,のち飛鳥井とも。著作はほかに「古言訳通」「万葉集紀聞」など。」とあります。

土佐藩の下級武士だった鹿持雅澄は、奥さんを高知城下に残して、「浦役人」として、10ヶ月ほど単身赴任していました。その時、妻を思いながら、数首の和歌を詠んで残しています。その一首です。

秋風の 福井の里に 妹をおきて 安芸の大山 越えがてぬかも

この「妹(いも)」とは、姉妹の妹のことではなく、「妻」のことで、「菊子」と呼ばれていました。万葉の研究者であり、歌人でもあった雅澄は、赴任地からはるかに高知城下に思いを馳せて、《妻恋の歌》を詠んだ、「愛妻家」でした。

天津にいました時に、「周恩来記念館」に行った時、やけに若い二人が多かったので、いぶかしく思っていました。中に入って分かったことは、周恩来夫妻は、若い二人にとって模範なんだそうで、この夫妻にあやかりたい二人が、結婚前に多く訪れていたわけです。周恩来や鹿持雅澄の故事から、結婚が上手くいかないご夫婦は、このお二人にあやかって欲しいものです。我らは、47年の山谷を越えてきました。

(高知県安芸地方の「室戸岬」の周辺に写真です)

.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください